諸九尼「湖白庵」・幻阿蝶夢「五升庵」・「風羅坊」跡 (京都市左京区)  
Site of the Hermitage of Kohaku-an,Gosho-an
「湖白庵」・「五升庵」・「風羅坊」跡 「湖白庵」・「五升庵」・「風羅坊」跡
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「諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升庵址」の石標
 岡崎の白河院門前脇に「諸九尼湖白庵(しょきゅうに-こはくあん) 幻阿蝶夢五升庵址(げんあちょうむ-ごしょうあん-あと)」の石標が立てられている。
 2人は江戸時代の俳人であり、付近にそれぞれ「湖白庵(こはくあん)」「五升庵(ごしょうあん)」を結んだ。
 また、この近くに俳諧師・松尾芭蕉が一時住した「風羅坊(ふうらぼう)」があったという。
◆歴史年表 江戸時代前期、俳諧師・松尾芭蕉(まつお-ばしょう、1644-1694)が入洛した際に、一時居住した「風羅坊」があったという。庵名は、芭蕉の号に因んでいる。石標の東北100m程の地だったという。
 1701年、芭蕉の没後、門下の広瀬惟然は、師を慕いこの地に住した。師の発句を綴り合せた和讃「風羅念仏」を作り、朝夕の勤めを行った。
 1766年、惟然の没後、俳人・五升庵蝶夢は岡崎に小庵「五升庵」を結び、風羅坊を引き継いだ。
 またこの頃、蝶夢と親しかった俳人・有井諸九尼(1714-1781)が、付近に「湖白庵」を結び隠棲したという。
◆松尾 芭蕉 江戸時代前期の俳諧師・松尾 芭蕉(まつお-ばしょう、1644-1694)。男性。名は宗房、幼名は金作、通称は七郎、甚七郎、忠右衛門、藤七郎、俳号は宗房、桃青、芭蕉、別号は釣月軒、泊船堂、風羅坊坐興庵、栩々斎(くくさい)、花桃夭、華桃園、泊船堂、芭蕉洞、芭蕉庵、風羅坊など多数。伊賀国(三重県)上野/柘植(つげ) の生まれ。父・士分待遇の農家・松尾与左衛門の次男。1656年、 父が亡くなる。1662年、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将・藤堂新七郎良精家の若殿・良忠(俳号は蝉吟)に料理人として仕える。京都の北村季吟に俳諧を学んだ。俳号は宗房を使う。1666年、良忠の死により仕官を退き、俳諧に入る。1672年、『貝おほひ』を上野天満宮(上野天神宮)に奉納した。1673年、江戸に出て、水道修築役人になり俳諧師の道を歩む。其角が入門する。延宝年間(1673-1681)、談林俳諧に傾倒した。1675年、西山宗因を歓迎する句会に出席した。この頃、俳号「桃青」を使う。1677年、俳諧の宗匠になった。1680年、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行した。宗匠を辞し、深川に草庵「芭蕉庵」を結ぶ。1682年、江戸の大火で庵の焼失後に、甲斐国・高山糜塒を頼る。1683年、母が故郷で亡くなる。新しい芭蕉庵へ入る。1684年、「甲子(かっし)吟行」に出る。母の墓参りで伊賀へ帰った。名古屋の連衆と「冬の日」の歌仙の句会を行う。1685年/1686年頃、「野ざらし紀行」に出た。1685年、伊賀、奈良、京都、大津、名古屋、木曾路を経て江戸へ帰る。1686年、 「古池や蛙飛び込む水の音」を発句した。1687年、曾良・宗波と鹿島神宮へ詣でる。(『鹿島詣』「鹿島紀行」)。1687年/1688年、「笈の小文」の旅へ出立し、名古屋を経て伊賀へ到着した。1688年、藤堂良忠の子・良長に招かれる。伊勢神宮へ参詣し、万菊丸(杜国)と吉野へ向かう。越人と名古屋から信州更科へ「更科紀行」に出る。1689年、曾良を伴い「おくのほそ道」へ出て、大垣に到着した。1690年、大津の「幻住庵」に入る。1691年、伊賀で「山里は万歳おそし梅の花」を詠む。『猿蓑』が刊行される。1692年、3度目の「芭蕉庵」に入る。1694年、『おくのほそ道』の清書本が完成した。伊賀に帰郷した。奈良から大坂で病気になり、旅の途上、南御堂前花屋の裏座敷で亡くなった。句集は『俳諧七部集』、紀行文『奥の細道』、日記『嵯峨日記』、絵の『野ざらし紀行画巻』など。51歳。
 蕉風の祖。談林俳諧、漢詩文調、破格調を経て蕉風を確立する。「さび」「しおり」「細み」を提唱した。各地を旅し名句・紀行文を残した。門人に蕉門十哲(其角、嵐雪、去来、丈草、許六、杉風、支考、野坡、越人、北枝)、ほかがある。京都での旧居は、金福寺裏の芭蕉庵、嵯峨・落柿舎、円山・芭蕉堂などがある。
 遺言により、粟津義仲寺(大津市)に葬られた。命日(陰暦10月12日)を時雨忌、翁忌、桃青忌ともいう。
◆広瀬 惟然 江戸時代前期-中期の俳人・広瀬 惟然(ひろせ-いぜん、?-1711)。男性。通称は源之丞。別号は素牛、鳥落人、湖南人、梅花仏など。美濃(岐阜県)の生まれ。1688年、松尾芭蕉に入門し、晩年の芭蕉に随従した。師の没後、九州、奥羽、北陸など諸国を放浪し、口語調、無季語を試みた。晩年、芭蕉の句を和讃に仕立てた風羅念仏を唱えて行脚した。郷里の「弁慶庵」に隠棲した。句集に『藤の実』。60余歳。
◆五升庵 蝶夢 江戸時代中期-後期の僧・俳人・五升庵 蝶夢(ごしょうあん-ちょうむ、1732-1796)。男性。名は九蔵。別号に泊庵など。京都の生まれ。時宗の法国寺に入り、其阿に師事し9歳で得度した。13歳で俳諧を志し、望月宋屋(そうおく)に俳諧を学ぶ。宝暦年間(1751-1763) 、浄土宗・阿弥陀寺・帰白院の住職になる。 1757年、敦賀に赴き、支麦(しばく)の地方俳諧に接した。1766年、帰白院の住職を辞し、岡崎に草庵「五升庵」を結ぶ。松尾蕉風の俳諧復興を志し『芭蕉翁発句集』などをまとめた。義仲寺翁堂(大津)などを再建した。1793年、芭蕉100回忌を成し、翁堂に粟津文庫も設けた。遺蹟碑も立てた。64歳。
 墓は阿弥陀時(上京区)にある。
◆有井 諸九尼 江戸時代中期の俳人・有井 諸九尼(ありい-しょきゅう-に/もろく-に、1714-1781) 。女性。名はなみ。号に蘇天、湖白庵など。筑後(福岡県)の生まれ。父の従兄弟・庄屋・永松万右衛門と結婚した。1743年頃、筑前直方(のおがた)藩士・俳人・有井浮風(ふふう)と駆け落ちし大坂に出る。1762年、浮風の没後に剃髪した。岡崎の「湖白庵」で隠棲する。西国、奥羽を旅した。五升庵蝶夢らと親しかった。晩年は郷里に戻る。68歳。
 奥の細道を辿った紀行『秋かせの記』を著した。句集に『諸九尼句集』など。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「芭蕉翁顕彰会」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 諸九尼「湖白庵」・幻阿蝶夢「五升庵」跡  〒606-8333 京都市左京区岡崎法勝寺町(白河院前) 
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