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| 無鄰菴(無鄰庵) (京都市左京区) Murin-an Villa |
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| 無鄰菴(無鄰庵) | 無鄰菴(無鄰庵) |
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![]() ![]() ![]() 「名勝 無鄰菴庭園」の石標 ![]() 扁額「無鄰菴」 ![]() ![]() ![]() 待合 ![]() ![]() 母屋![]() 母屋![]() 母屋内部、漢詩人、書家・長三洲の「無鄰菴」の書 ![]() 母屋 ![]() 中庭 ![]() 母屋 ![]() 母屋 ![]() ![]() 母屋 ![]() 庭園 ![]() 庭園、東山 ![]() 庭園 ![]() ![]() ![]() ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 庭園、借景の東山 ![]() 庭園 ![]() 庭園、落水 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 庭園、滝組 ![]() 茶室 ![]() 茶室 ![]() 茶室、露地庭 ![]() 茶室、露地庭 ![]() 茶室、露地庭 ![]() 茶室、露地庭 ![]() 茶室、露地庭 ![]() 茶室、露地庭 ![]() ![]() 洋館 ![]() 洋館 ![]() 洋館 ![]() 洋館 ![]() 洋館 ![]() 洋館、山県有朋の肖像、展示パネルより ![]() 洋館、山県有朋の遺愛の椅子 ![]() 洋館、山県有朋の遺愛品「黒塗り長方煙草盆青白磁火入灰吹」 ![]() 洋館、山県有朋の遺愛品「垣に花鳥蒔絵硯箱」 |
国定名勝指定公園・無鄰菴(むりん-あん)は、京都市文化市民局が所有している。「無鄰菴」のほか、「無鄰庵」「無隣庵」などとも表記・併用されている。かつて、政治家・軍人・山県有朋(やまがた-ありとも)の別荘地であり3200㎡の敷地がある。東山を借景とした池泉廻遊式になっている。庭園には琵琶湖疏水を取り入れ、7代目・小川治兵衛が作庭した。 アメリカ合衆国の日本庭園専門誌"Sukiya Living Magazine, The Journal of Japanese Gardening"の「しおさいプロジェクト」「日本庭園ランキング(数寄屋生活空間)」に、2004年-2006年に連続して第4位に選ばれている。 ◆歴史年表 近代、1894年、政治家・軍人・山県有朋は、京都市所有地を得て別荘地「無鄰菴」を建てた。(『京都の歴史10 年表・事典』)。作庭は7代目・小川治兵衛による。 日清戦争(1894-1895)勃発により、建築工事は一時中断する。別邸の諸事は久原庄三郎が担う。 1894年、庭園の整地が始まる。個人の庭で初めて、琵琶湖疏水の水が引かれた。 1895年、山県が清国より帰国し、建築工事が再開される。この頃、茶室が移築された。 1896年、建物が完成する。 1898年、洋館が建てられる。10月24日、皇太子(後の第123代・大正天皇)の行啓があった。 1899年、庭園が完成した。 1900年、山県と黒田天外(譲)は無鄰菴で談話している。(『続江湖快心録』) 1901年、第122代・明治天皇より宮中の稚松2株(御下賜の松)が贈られた。 1902年、現在の池泉廻遊式庭園になる。 1903年、4月21日、洋館で、元老・山県ら4人による「無鄰菴会議」が開かれる。対露対策を協議した。(『伊藤博文伝』) 1920年、6月、山県家より土地建物、その他が寄付され「無鄰菴保存会」が設立された。 1921年、「洛陶会(発起人は松風嘉定)」が主催した「東山大茶会」の煎茶席として用いられた 。 1924年、11月12日、貞明(ていめい)皇后(大正天皇皇后)の御立寄があった。 1941年、菴は財団法人「無隣庵保存会」から京都市に寄贈される。 現代、1951年、6月9日、明治期の庭園として国の名勝に指定された。 2006年、10月、御賜稚松は、松くい虫被害により枯死し伐採された。 2015年、3月、菴を所管する京都市文化市民局では、菴の適切・効果的な保存管理の実現を目指し、「名勝無鄰菴庭園の保存管理指針」を策定した。 2016年より、菴の運営・保存管理は、京都市の指定管理者制度へ移行する。「植彌加藤造園」が指定管理者受託運営を開始する。 ◆山県 有朋 江戸時代後期-近代の軍人・政治家・山県 有朋(やまがた-ありとも、1838-1922)。男性。山縣。父・長州藩士下級武士・山県有稔。吉田松陰の松下村塾に学び尊攘派になる。1855年、17歳で 京都に派遣される。1862年、藩命により江戸に赴任した。1863年、帰藩し、奇兵隊軍監として壇ノ浦支営司令になる。1864年、英米仏蘭4国艦隊下関砲撃事件により負傷した。1866年、江戸幕府による長州藩再征では、奇兵隊を率い九州方面で戦闘後、藩命で京都へ赴く。同年、大政奉還が行われる。1868年、 江戸城明け渡し後の江戸に入る。4月、北陸道鎮撫総督兼会津征伐総督の参謀に任じられ、越後から会津に転戦する。1869年、藩主の命を受け渡欧した。1870年、兵部少輔、 1871年、政府の直轄陸軍を組織し、兵部大輔を務める。1872年、陸軍大輔に任じられた。1873年、初代陸軍卿に就任した。1877年、西南戦争では征討軍参謀、参謀本部長を歴任する。1883年、内務卿になった。1878年、参謀本部、監軍本部を設置し、 参謀本部長に就任し、「軍人訓誡」、1882年、「軍人勅諭」を発布した。参議院議長に就任する。1883年、華族制度の成立と同時に伯爵になる。1885年、第1次伊藤博文内閣で内務大臣、1887年、文官試験制度を施行し、1888年、市町村制を公布する。渡欧し視察した。1889年、帰国し、12月、内閣総理大臣に任じられ、第1次内閣を組織した。1890年、陸軍大将、1891年、4月、総理大臣を辞職した。京都東生州町の無鄰菴(庵)が竣工する。1892年、第2次伊藤内閣の司法大臣、1893年、枢密院議長などを歴任した。1894年-1895年、日清戦争で、第1軍司令官として朝鮮半島へ渡った。 1896年、病気悪化を理由に軍務を退く。ロシア新皇帝の戴冠式へ出席した。1897年、南禅寺草川町の無鄰菴(庵)が竣工した。1898年、大命を受け、第2次内閣を組織し首相に就く。1900年、9月、首相を辞職し、元老として表舞台から身を引く。1904年-1905年、日露戦争では、参謀総長兼兵站総監として戦争を総指揮した。1905年-1922年、 枢密院議長を務める。1898年、元帥になった。85歳。 「日本軍閥の祖」といわれた。国葬後に護国寺(東京都文京区小石川)に葬られた。 ◆田中光顕 江戸時代後期-近代の政治家・田中光顕(たなか-みつあき、1843-1939)。男性。前名は浜田辰弥、幼名は顕助、号は青山。土佐国(高知県)の生まれ。父・土佐高知藩陪臣。土佐高知藩士。武市瑞山(半平太)に師事し勤王同盟に加わる。1863年、京都に出て志士と交わる。1864年、脱藩し長州に入り、高杉晋作の知遇を得て、長州征伐では「丙寅丸(へいいんまる)」に乗り幕府軍と戦った。1867年、上京し中岡慎太郎が組織した陸援隊幹部になる。1868年以降、兵庫県権判事、大蔵少丞(しょうじょう)、戸籍頭などを経て、1871年、岩倉使節団の随員として欧米に派遣される。帰国後、1874年、陸軍省に入り、会計検査官になる。1877年、西南戦争では征討軍会計部長として功労があった。会計局長恩給局長官、内閣書記官長などを経て、1881年、陸軍少将になった。元老院議官、1887年、会計検査院院長になる。1888年、予備役に編入される。1889年、警視総監、宮中顧問官などを歴任し、1892年、子爵を授けられ、学習院長、宮内次官を経て、1898年より宮内大臣を務め、宮中に絶大な勢力をもった。1907年、伯爵になる。本願寺武庫別荘買上げをめぐる収賄事件により、1909年、宮内大臣を辞任し、政官界から引退した。1918年、臨時帝室編修局総裁になった。著『維新風雲回顧録』『維新夜話』。97歳。 伯爵。維新志士の顕彰に余生を捧げ、多摩聖蹟記念館、常陽(じょうよう)明治記念館(現・大洗町幕末と明治の博物館)、高知青山文庫などの建設・維持にあたった。 ◆久原 庄三郎 江戸時代後期-近代の実業家・久原 庄三郎(はら-しょうざぶろう、1840-1908)。詳細不明。男性。旧姓は藤田。長門(山口県)の生まれ。久原房之助の父。兄・藤田鹿太郎と大阪に出る。弟・藤田伝三郎の商社に加わった。贋札事件で弟・兄らが逮捕された際に、社業を守った。1881年、3兄弟で藤田組(現・同和鉱業)を設立した。官営・小坂鉱山の払い下げを受け、社主・伝三郎を補佐した。69歳。 ◆7代・小川 治兵衛 近代の造園家・小川 治兵衛(おがわ-じへい、1860-1933)。男性。源之助、屋号は「植治(うえじ)」。父・山城国乙訓郡神足(現・長岡京市)の庄屋・農家・山本弥兵衛。1877年、宝暦年間(1751-1763)より続く岡崎の庭匠・小川家(「植治」「田芝屋」)の養子になる。6代に付く。遠州流を学んだ。法然院・大定に薫陶を受けた。7代目・治兵衛を継ぎ、通称は屋号「植治」と称した。74歳。 天才的と謳われ山県有朋、西園寺公望らの後援を得た。今日の「植治流」造園技術を確立する。碧雲荘、無鄰菴(庵)、平安神宮神苑、清風荘、円山公園、京都国立博物館庭園、対龍山荘庭園など100あまりの庭園を手掛け、「植治の庭」と呼ばれた。京都御所、修学院離宮、桂離宮などの復元修景にも関わる。 辞世は、「京都を昔ながらの山紫水明の都にかへさねばならぬ」だった。墓は佛光寺本廟(東山区)にある。 ◆岩本 勝五郎 江戸時代後期-近代の庭師・4目・岩本 勝五郎(いわもと-かつごろう、1837-1921)。詳細不明。男性。1878年、山県有朋の東京目白本邸椿山荘庭園、1907年、小田原別邸古刹庵庭園の施工をした。 山県有朋は、無鄰菴の庭について相談しながらも、庭造りは託さなかったという。 ◆黒田 天外 江戸時代後期-近代の美術評論家・黒田 天外(1866?-1919頃?)。詳細不明。男性。黒田譲。彦根(滋賀県)の生まれ。明治期(1868-1912)後半、「京都日出新聞」の記者をし、著述業で活躍した。1918年頃以降、活動記録はない。著『名家歴訪録』『江湖快心録』3部作など。 戒名は宗秀信士?。 ◆建物 母屋・洋館・茶室の3つの建物がある。山県有朋は京都を終焉の地と考えていたという。山県の信頼を得ていた田中光顕(1843-1939)は、地所の選定から、第3次無鄰菴の増築に関わる。久原庄三郎(1840-1908)とも連絡を取り、山県に図面、計算書を送付するなどすべての指揮とった。 ◈ 「母屋」は、近代、1896年/1895年に建築され、1898年、大正期(1912-1926)の2度改造されている。明治期(1868-1912)後期の京都での典型的な建築とされている。別荘の主体は庭園になっており、座敷から庭を鑑賞することに主眼が置かれた。このため、建物は簡素な造りになった。多様な建材を用いており、庇は深めであり、柱・梁などには華奢な部材が用いられた。このため、構造的には脆弱になった。1階には玄関勝手、次の間付10畳の客座敷「会室の間」、次の間付8畳の座敷「居間兼客座敷」、山県の居室兼寝室があった。2階には8畳、4畳の部屋があった。東・西・南とガラス戸による広い開口部を持ち、建物と庭との一体感を増している。 木造、平屋、桟瓦葺(一部は二階建、銅板葺)。 ◈ 「洋館」は、近代、1898年に建てられた。暖炉が設えられ、空調が可能だった。天井は格天井。ヒノキの腰板。 土蔵風、煉瓦造。 ◆茶室 「茶室」は、近代、1895頃に無鄰菴内に移築された。主座敷は三畳台目になる。古田織部好みの代表的茶室である薮内流・藪内紹智の邸にあった「燕庵」を写しという。 移された経緯について詳細不明。山県によれば、かつて岡本某が建てた茶室を移築したという。岡本は、国学者で茶の湯を好んだという。同時代の国学者としては岡本保孝(1797-1878)があるが、関連などは不明。また、丹波の古望某方にあった古席を、蹲踞石、石燈籠などとともに移したともいう。1896年に山県は、道具商・松岡嘉兵衞(?-?)を無鄰菴の茶席に招き、茶の湯の手前を習ったともいう。 移築前には茶室の北西隅に祖堂(利休堂)があり、利休像が祀られていたという。移築に伴い勾欄の付いた広縁に作り替えられた。この地からは眺望がよく、北東には比叡山が望めていたという。 木造、平屋建、瓦葺(一部銅板葺)。 茶室前に露地庭がある。苔地に、蹲踞、飛石、燈籠などが立てられている。 ◆土地所有経緯 無鄰菴の敷地の前身は、近世には「丹後屋」が建てられていたとみられている。料亭「瓢亭」と並び知られていた名物南禅寺湯豆腐店だった。(『京都坊目誌』)。また南禅寺惣門と丹後屋、瓢亭は、東西に並立した形で存在していた。(『新撰花洛名勝図会』) 無隣庵の土地所有の経緯は、近代、1896年までに一部、1902年までに久原庄三郎と京都市の所有地で別邸を造営、作庭し、後に譲られていた。 ◆無鄰菴の名称 かつて、山県有朋により3つの無鄰菴が営まれた。江戸時代後期、1867年に山県の故郷・長州(山口県)吉田清水山山麓に草庵を建てた。隣家がなかったことから「無鄰菴(後の東行庵)」と名付けた。 近代、1891年に、山県は京都に移り、角倉了以邸跡(中京区木屋町二条下ル東生洲町)に、同じ名の別荘「無鄰菴」を営んだ。ただ、翌1892年11月に土地は手放されている。 その後、1894年に、現在地に閑静な場所を求め、新たな別荘を建てた。その名は引き継がれ「無鄰菴」とした。 なお、京都市は「無鄰菴」と表記している。山県筆の扁額「無鄰菴」にあわせ、使用される場合が多い。 文化財名称としては「無鄰庵庭園」が用いられる。この「無鄰庵」については、現代、1951年の国の名勝指定時に使用され、官報時に記載されていた。 山県自身は手紙などでは、「鄰」と「隣」、「菴」と「庵」を混用していたという。 「無隣庵」については、常用漢字(1923-)で記した字体であり、かつて新聞記事などで使用されていた。 ◆庭園 ◈庭園は、施主・山県の設計・監督の下、名造園家として知られていた7代目・小川治兵衛(通称「植治」)の作庭による。山県と実業家・久原庄三郎(1840-1908)とはかつてより親交があり、山県は、近代、1894年-1895年の日清戦争への出征中に庭の築造を託していた。1895年の山県の病による国内召還を契機に、無鄰菴の敷地拡張を企図することになった。小川は師事していた久原のもとで無鄰菴を手掛けている。 庭は、近代、1893年の暮れ頃から、小川の「植治」が山県の直接の指揮の下で作庭に専念した。1894年に着工され、日清戦争(1894-1895)の中断を挟み、1899年に完成した。その後、修整が続けられ、1902年に現在の池泉廻遊式庭園の形になった。 この地は自然の風趣に恵まれていた。山県は、旧来の見立てによる象徴主義的な庭園から、里山の風景、池ではなく流れる小川のような躍動的、自然主義的な新しい庭園の造営を好んでいた。 山県は小川に作庭に当たり三つの注文をつけている。一つは芝生を張った明るく開放的な空間にすること。二つは樹木の植栽を多く使うこと。三つは琵琶湖疏水の水を取り入れることだった。小川には「水なき庭は庭にあらず」の持論があり、琵琶湖疏水の「生きた水」の流れへの思い入れもあった。「御所のお庭を除いて、私の庭に及ぶものはない」とまでいわしめた。庭は、以後の植治の庭の原点になる。黒田天外の『続江湖快心録』(1907)では、以後の庭園はことごとく無鄰菴に倣っていると絶賛された。 庭面は東西方向に三角形に広がり、頂点は南東にある。東に東山、北東に比叡山の借景を取り入れ、四季の景観が意識されている。芝生が張られた平坦な小丘が広がる中に、景石は低く伏せて据えている。庭園最上部東端には、醍醐寺三宝院庭園の滝を模した三段の滝を組んだ。水は琵琶湖疏水から引水し、サイフォンの原理により滝口まで持ち上げている。それぞれの滝の落差は、1m、0.5m、0.6mとあり、1段目は右、2段目で左へ、3段目で右へ落し、互い違いに組まれた。ただ、三宝院とは異なり、背後に蓬莱山の石組も、手前の鯉魚石も見られない。 母屋の東にある築山に山県が醍醐の山から切り出したという大石が据えられている。豊臣秀吉(1537-1598)が方広寺大仏殿の造営時に切出そうとし、遣ひ残りになった石だったという。池には州浜があり、自然の川のような流れの石組では、二段落ちのひょうたん池、二つの川の流れを合流させた。2つの流入、東と南より西への流水がある。東よりの流水は滝石組、流れ、沢渡、園池、流れと変化して展開し、淀み、空間を広く見せる浅い池、浅瀬と変えている。このため、水流は常に浅くゆたかに波を打ち流れ下っている。 母屋の座敷から庭園を望むと、右手の平たく大きな横石と、中央の立石、左手の横石の三石が据えられている。立石は醍醐より何十頭もの牛に引かせて運んだという。これらの石は、三角形の底面の距離感、散漫感を引き締めるための視覚修整、視点を集中させるために用いられているという。 石臼、自然石を組み合わせた4つの飛石、一つの石橋も用いた。沢を渡る際に、一端足元に落とされた視点が、石を渡り終えて見上げた際の、移動した視点先にある景色の展開も織り込んだ地割になっている。 植栽は、庭園の奥(東)に東山を借景としており、全てが東山を軸に構成されている。山県は、主な植栽として杉、紅葉、山桜(葉桜)としていた。ほか、檜、現在の母屋の東には樅20-30 本が林立し、針葉樹を森のように植えた。松、杉、シダなども山県が意識して植えたという。広葉樹は本来、庭木としては扱わず当時としては庭の脇役でしかなかった。 山県は当初、旧来の京都の苔庭を排し、芝庭を造ることを目指した。当時としては斬新な芝が、苔の代わりに使われた。明るい芝生の空間は、当時のイギリスなどにあった自然風景式の庭園や、日本の里山風景にも近かった。このことにより、近代的な庭景になり園遊会にも利用された。造営後しばらくして、庭園の環境が高湿度のために、芝地ではなく苔地が優勢になり野草も自生したという。その後、山県は苔の美を受け入れることになった。現在は芝地とともに西側には50種以上の苔地も広がっている。 ほか、山県の存命中とその後の庭園の変化について、当初植栽されていた桜・恩賜稚松は枯死した。岸辺に立てられていた八重か九重の石塔も失われた。樹木の成長に伴い、比叡山への眺望が失われたことなどが指摘されている。現在、庭園内には50種ほどの野草も確認されている。これらのうち種を残すもの、個体数を減らすものを厳選し、活かす方向で手入れが行われている。 ◈母屋には中庭があり、苔地にわずかな石組と四方竹が植えられている。 ◆庭園の順路 近代、1900年に美術評論家・黒田天外(1866?-1919頃?)は、無鄰菴で山県と談話した。黒田が後に著した『続江湖快心録』(1907)にそのことを記している。 山県は次の順路に従い、天外を無鄰菴内で案内した。庭内へは、座敷から入った。園路を通じて東進し、北側から南西に流れる流路内に打たれた沢飛び石を渡る。東側に進み、園池北側の大石の前方に至る。そのまま進み、斑入りの笹を抜けて3段の滝組の前に至る。 そこから進路を南に向かい西進する。恩賜松の碑、茶室を横切り、座敷へと戻った。 ◆無鄰菴会議 洋館は、近代、1898年に建てられている。政治的にも利用される。 1903年4月21日、洋館2階の部屋で重要な外交決定が行われた。集まったのは、元老・山県のほか、政友会総裁・伊藤博文(1841-1909)、総理大臣・桂太郎(1848-1913)、外務大臣・小林寿太郎(1855-1911)の4人だった。この「無鄰菴会議」により、歴史的な決議が行われる。日本がロシアに対して強硬姿勢をとる外交方針が決定した。 その後、翌1904年2月4日、御前会議でロシアとの開戦が決定される。6日には日本政府はロシアに対し国交の断絶を通告した。8日、日本艦隊は、朝鮮半島西部の仁川(インチョン)港のロシア艦隊を攻撃し、遼東(リャオトン)半島南端にある旅順(リューシュン)港でロシア艦隊への奇襲攻撃を行う。 9日、日本陸軍の先遣部隊は仁川に上陸している。日本艦隊は引き続き旅順港外のロシア艦隊を砲撃し、撃破した。(「仁川沖海戦」)。10日にロシアに対して宣戦布告され、日露戦争(1904-1905)が開戦になった。 現在、2階の洋室は当時のままに保存されている。 ◆障壁画 洋館の障壁画は、江戸時代初期、狩野派の「金碧華鳥図障壁画」による。 ◆文化財 洋館に、山県有朋の遺愛品「黒塗り長方煙草盆青白磁火入灰吹」、「垣に花鳥蒔絵硯箱」、椅子などが展示されている。 ◆松 「御賜稚松乃記石碑(御賜稚松乃記)」が、近代、1901年11月に園内に立てられている。山県の歌「春はあけはなる〻山の端の景色はさらなり。夏は」が刻まれ、庭園観が示されている。 近代、1901年、第122代・明治天皇(1852-1912)より宮中(御所)の稚松2株(御下賜の松)が贈られた。無鄰菴内に植えられた。山県は「みめぐみの深き緑の松蔭に老も忘れて千代や経なまし」「生い茂れ松よ大君のめぐみの露のかかる庵に」と詠んだ。天皇は天覧後に「おくりにし若木の松の茂りあひて老の千歳の友とならなむ」と返した。 なお、松は、現代、2006年10月に松くい虫被害により枯死し伐採された。 ◆文学 近現代の詩人・小説家・室生犀星(1889-1962)は、冬に庭を訪れその印象を記した。 「瀧の落口から右よりの疎林が美しい冬どきの枯枝を揃へていた。水を浅くとり、石を低く、流れのへりが細かい好みを表はしていた。それに京都どくとくの煙とも霧ともつかないよごれた空気がこの新しい庭をよく見せていた。」(『京洛(けいらく)日記』1934) ◆映画 時代劇映画「斬る」(監督・三隅研次、1962年、大映京都)の撮影が行われた。水戸の接待屋敷、庭として設定された。高倉信吾(市川雷蔵)は、松平大炊頭(柳永二郎)に茶を振舞われる。 ◆年間行事 年末年始は休み。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 ウェブサイト「無鄰菴」、『植治の庭 小川治兵衛の世界』、『植治の庭を歩いてみませんか 洛翠庭園 無鄰菴庭園』、『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『岡崎・南禅寺界隈の庭の調査』、『文学散歩 作家が歩いた京の道』、『京都絵になる風景』 、『京都の歴史10 年表・事典』、『国史大事典』、ウェブサイト「山県有朋と無隣庵保存会における無隣庵の築造と継承の意志の解明-京都市文化財保護課紀要創刊号2018 年3月」、ウェブサイト「京都・無鄰菴における山縣有朋の作庭観と空間構成~小川治兵衛との出会いから見た当時と現在の比較~日本建築学会中国支部研究報告集 第47 巻」、ウェブサイト「レファレンス協同データベース」、ウェブサイト「日本公文書館アジア歴史資料センター」、ウェブサイト「海の見える杜美術館」、ウェブサイト「コトバンク」 |
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