即宗院 〔東福寺〕 (京都市東山区)  
Sokushu-in Temple
即宗院 即宗院 
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山門








山門、仁王像


山門、仁王像










本尊は宝冠釈迦如来坐像



開山の剛中玄柔木像



東福寺大仏台座蓮弁



「元版一切経(大蔵経)」



「島津牡丹文様四足火鉢」(付けたり火箸)



黒漆島津紋(丸十紋)


朱漆塗琉球漆器



庭園、手水前に茶室「採薪亭」があったという。



庭園



庭の東端の滝組



「薩摩藩士東征戦亡之碑」



「薩摩藩士東征戦亡之碑」



「薩摩藩士東征戦亡之碑」、薩摩軍の戦没者墓碑、524人の氏名が刻まれている。



境内東、慧日(えにち)山に通じている「西国街道」の石標。



寺の手前にある、東福寺三名橋のひとつで三ノ橋渓谷に架かる偃月橋(えんげつきょう)(重文)、江戸時代、1603年建築。この橋を渡って龍吟院、即宗院にいたる。単層切妻造り・桟瓦葺きの木造橋廊。


偃月橋の扁額「偃月」
 東山三十六峰の一つ慧日(えにち)山の麓に、臥雲山即宗院(がうんざん そくしゅいん)はある。薩摩藩ゆかりの寺として知られている。
 東福寺塔頭の一つで、境内の東端にある。正式には即宗院という。
 臨済宗東福寺派。本尊は宝冠釈迦如来坐像。
◆歴史年表 南北朝時代、1387年、薩摩藩6代当主・島津氏久の菩提のために、東福寺54世・剛中玄柔(ごうちゅう げんじゅう)を開山として建立された。氏久の法名「齢岳立久即宗院」に因み即宗院とされた。当初は、現在地の南、成就院南に位置した。以後、薩摩藩の菩提寺になる。
 室町時代、1569年、焼失している。
 江戸時代、1613年頃、島津氏第16代当主・島津義久により、現在地に移転、再建された。以来、薩摩藩の畿内菩提所になり、藩より70石が施入された。
 江戸時代末期、政治家・軍人・西郷隆盛と僧・月照は、境内の茶室「採薪亭(さいしんてい)」で倒幕の密談を行う。
 1868年、鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩の屯営になる。庭園の樹石を取り払い境内も荒廃する。
 現代、1945年、太平洋戦争後、庭園は荒廃した。
 1977年、庭園は庭園文化研究所・森薀の指導により復元される。
◆剛中玄柔 室町時代(南北朝時代)の臨済宗僧・剛中玄柔(ごうちゅう げんじゅう、1318-1388)。薩摩藩士の猶子として豊後に生まれた。崇祥寺の玉山玄提に師事し、その法嗣になる。南禅寺・東福寺住持の無徳至孝、虎関師錬に学ぶ。元に6年間渡り、仏教、儒教を学び、朱子学の権威になる。帰国時、仏教経典の総集『大蔵経』(一切経)2部を持ち帰り、住持になった日向・大慈寺、東福寺に納めた。
◆島津氏久 鎌倉時代-南北朝時代の島津氏久(しまづ うじひさ、1328-1387)。又三郎。島津貞久(さだひさ)の4男。薩摩の島津氏6代当主、越後守、陸奥守などを歴任した。1351年、室町幕府の幕政の主導権を争う観応の擾乱で、足利尊氏に付き、北朝方、将軍方として佐殿方・畠山直顕の軍と戦う。その後、宮方に転じた。1363年、大隅国守護職を父から継ぎ、奥州家島津氏初代になる。薩摩国守護職は兄・師久(もろひさ)が相続した。九州探題・今川了俊と対立した。足利直冬党の畠山直顕方、宮方、国人一揆、鎮西探題方とも戦う。明貿易も行う。馬術に優れ、馬術書の著『在轡(ざいひ)集』がある。
 墓は鹿児島・福昌寺に改葬された。
◆島津義久
 室町時代-安土・桃山時代の薩摩の守護大名・戦国大名・島津義久(しまづ よしひさ、1533-1611)。島津貴久の長男。1566年、家督を相続し島津氏の第16代当主になる。薩摩国、大隅国、日向国の3国の守護になった。1572年、日向木崎原で伊東氏を大破し、1577年、日向の伊東氏を討伐して領内を鎮定した。1578年、高城合戦で大友氏を討つ。1581年、水俣城で相良氏を破る。1584年、島原合戦で龍造寺氏を倒した。1586年、岩屋城で高橋氏を従わせ、九州を制圧した。1587年、豊臣秀吉の九州平定に屈し、家督を弟・義弘に譲り出家し、竜伯と号した。許され、義弘を文禄の役に派遣し、太閤検地に尽力した。1599年、家久に家督を譲る。
 墓は鹿児島の福昌寺にある。
◆月照 江戸時代末期の僧・月照(げっしょう、1813-1858)。俗名は玉井忍向。大坂生まれ。町医・玉井鼎斎の長男。1827年、叔父の清水寺・成就院の蔵海に学ぶ。得度し、1835年、15歳で成就院第24世になり、忍介(忍鎧)と名乗る。清水寺に真言密教子島流を再興した。寺の改革、復興のための資金回収が成功せず、北越へ出奔する。寺の改革が成功せず、1853年、北越へ出奔する。1854年、境外隠居の処分の身になる。和歌で師事した左大臣・近衛忠煕の影響により攘夷に近づく。寺務を弟・信海に譲り、尊攘運動に加わる。1858年、梅田雲浜、頼三樹三郎らと水戸藩に密勅を下すために尽力した。薩摩藩の西郷隆盛、海江田信義らの倒幕の挙兵に加わる。1858-1859年、安政の大獄で幕府に追われ、京都から鹿児島へ逃れた。薩摩藩は、幕府の責任追及を回避するため、2人を東目(日向)へ追放する。後ろ盾だった斉彬も失い、前途悲観した西郷と月照は入水し、月照のみが死亡した。著『落葉塵芬集』など。
 青蓮院宮、近衛忠煕らと交流した。忠煕には和歌を学ぶ。清水寺は近衛家祈願寺であり、近衛家と島津家とは姻戚関係のため薩摩藩士と交流した。さらに尊攘派の朝彦親王(法名・尊融法親王)との関係が深まった。
 墓は清水寺(東山区)にある。
◆西郷隆盛 江戸時代末期-近代の政治家・軍人・西郷隆盛(さいごう たかもり、1827-1877)。薩摩藩の下級武士の家に生まれた。「維新の三傑」の一人。大久保利通とともに、薩摩藩を公武合体から倒幕へと導いた。土佐の坂本龍馬の仲介により、1866年、薩長同盟を成立させる。1868年、王政復古の権力奪取を指導し、戊辰戦争(1868-1869)では政府軍の総参謀として、幕府全権陸軍総裁・勝海舟と和平交渉に当たる。1868年、江戸城の無血開城を実現した。明治新政府では参議になる。1873年、征韓論をめぐる政変により鹿児島に退き、私学校を開く。1877年、西南戦争の盟主に推される。だが、新政府軍に敗れ、鹿児島の城山で自刃した。
◆田中新兵衛
 江戸時代後期の尊攘派の志士・田中新兵衛(たなか しんべえ、1841-1863)。雄平。「人斬り新兵衛」と呼ばれた。薬種商の子、船頭の子ともいう。薩摩鹿児島藩士になり、示現流剣法の達人だった。薩摩藩誠忠組・森山新蔵に影響を受ける。1859年、尊攘派の挙兵突出計画による同盟脱藩時に船長に押されたが計画は中止になる。1862年、上京する。尊攘派を弾圧した前関白・九条尚忠の家士・島田左近を殺害した。京都での尊攘派による天誅初例になる。本間精一郎にも天誅を加えた。後に土佐勤王党にも加わる。1863年、御所内朔平門外での姉小路公知(きんとも)暗殺事件の嫌疑により捕縛、取調も受けずに京都町奉行所内で切腹した。23歳。
 墓は即宗院(東山区)にある。
◆奈良原喜左衛門
 江戸時代末期の薩摩藩士・奈良原喜左衛門(ならはら きざえもん、1831-1865)。父は助左衛門。繁の兄。薬丸自顕流剣法の達人。尊攘派として誠忠組にはいる。1858年、一橋慶喜擁立工作の失敗により帰藩した。薩摩藩尊攘派の誠(精)忠組に参加した。1862年、島津久光の率兵上洛に随い、江戸からの帰路、生麦(横浜市鶴見区)で、騎乗した英国人4人と遭遇する。喜左衛門は、行列に入り込んだ英国人リチャードソンを斬殺、そのほか2人を負傷させた。(生麦事件)。事件は、1863年、薩英戦争に発展し、英国艦隊7隻の砲撃により薩摩藩は完敗する。以後、薩摩藩は攘夷から開国へと転換した。薩英戦争で、海江田信義と共に英艦奪取を計り失敗している。京都に移り、京都二本松の薩摩藩邸で病没した。35歳。
 墓は即宗院(東山区)にある。
◆清原清 江戸時代後期の新選組隊士・御陵衛士・清原清(きよはら きよし、1831-1868)。西村弥左衛門。肥後熊本生まれ。熊本藩を脱藩する。1865年、土方歳三の江戸での隊士募集に応じ上洛した。新撰組で砲術師範になる。隊内での近藤勇と伊東甲子太郎の対立時には伊東に付く。1867年、伊東の離隊後、後に御陵衛士(高台寺党)に合流した。油小路事件の際に、伊勢に出張中で難を逃れた。帰京して加納鷲雄と江戸へ出張中に、1868年、鳥羽・伏見の戦いが始まる。清原ら高台寺党は薩摩軍(新政府軍)に加わり、北関東、会津へと転戦する。福島・白河口の戦いで戦死した。首は立木に晒された。37歳。
 墓は戒光寺(東山区)、鎮護神山(白河市)、即宗院(東山区)の戊辰戦争殉難顕彰「東戦亡之碑」に「小銃第四隊 戦兵 武川直枝(清原清)」とある。
◆中井弘
 江戸時代後期-近代の武士・政治家・中井弘(なかい ひろし、1838-1894)。号は桜洲山人。薩摩鹿児島藩士。安政年間(1855-1860)、脱藩し土佐高知に行く。後藤象二郎の援助で、1866年、渡英した。1868年、維新後に外国官判事、駐イギリス公使館一等書記生などを歴任した。1884年、滋賀県知事、1893年、京都府知事になる。元老院議官、貴族院議員。著『漫遊記程』など。
 墓は即宗院(東山区)にある。
◆月輪殿 平安時代後期、関白・藤原忠道が御所の東御堂を建立した。
 鎌倉時代、1196年、その子で九条家始祖になった兼実(九条兼実、1149-1207)は、関白職を辞し、自らの別称「月輪殿(つきのわどの)」に因み、別荘を月輪殿と改称し、営んだ。
◆仁王 江戸時代の山門(1613)には、砂石造りの小像・仁王像が安置されている。塔頭寺院の山門仁王としては稀有という。像は、本山のある西を向けられず、南北に互いに向き合って安置されている。
◆庭園 庭園は、かつて「東福寺中第一」と讃えられた。鎌倉時代の九条兼実の別荘「月輪殿」の跡地に作庭されている。庭は、室町時代後期としては珍しく、公家寝殿造系の造りという。鈎(かぎ)の手(「心」)の池の地割、滝の位置などに特徴がある。東山の深い森を背景とし、池泉、苔、石組、植栽などにより構成されている。手水鉢付近に、かつては茶室「採薪亭」があった。
 鎌倉時代末期の『法然上人絵伝』(国宝)の巻8段5では、池泉と松の植えられた庭が、建物に沿うように描かれている。滝口から水が流れ落ち、池に注ぎ、朱塗りの橋が架けられている。頭光を冠した法然が、その橋上に描かれている。江戸時代の『都林泉名勝図絵』(1799)にも、池泉、中島に架けられた橋、松林などが描かれている。
 庭は、太平洋戦争後(1945)に荒廃した。玄之により復興され、1977年、庭園文化研究所・森薀の指導により復元された。その後、京都市史跡に指定された。
 赤千両、黄千両、紅葉の庭で知られている。
◆茶室「採薪亭」
 江戸時代、1796年、第13世・龍河は、草庵を建立した。鎌倉時代後期の禅宗系の説教師・勧進聖だった自然居士(じねんこじ)を偲んで建てたという。建物は方三間、二階建、階下に茶室「採薪亭(さいしんてい)」が造られていた。
 江戸時代後期、西郷隆盛と僧・月照は、新撰組、幕史の追手から逃れ、倒幕の謀議をこの「採薪亭」で練ったという。現在、「採薪亭址」の石碑が立つ。
◆文化財 ◈「元版一切経(大蔵経)」は、元時代(1271-1368)のものという。鎌倉時代、東福寺には二つの一切経があったという。その後の火災で失われた。室町時代、1373年、54世・剛中玄柔により元よりもたらされた。経函、一蔵分、5000余帖が残されている。現存している元時代の一切経は数少ないという。
 
◈「東福寺大仏台座蓮弁」が残る。創建時の東福寺仏殿には、釈迦如来坐像(5尺、15m)、観音・弥勒菩薩(2丈5尺、7.6m)、四天王像(1尺5寸)が安置されていた。その後、度重なる火災により焼失する。南北朝時代、1356年に復興された仏殿、仏像は、近代、1881年に焼失している。その後、1934年に仏殿は再建された。現在、室町時代の仏像の大部分は失われている。この台座蓮弁のほかには、手首先、光背の化仏しかないという。
 
◈「島津牡丹文様四足火鉢」(付けたり火箸)には、「丸十紋」「島津牡丹紋文様」が描かれている。島津家紋としては「丸十紋」が知られている。牡丹紋は近衛家より贈られ、家紋の一つとして使われた。また、桐紋も使われた。火鉢には、江戸時代末期に訪れた篤姫(1836-1883)も火鉢に手をかざしたという。篤姫は、江戸幕府13代将軍・徳川家定の正室であり、薩摩藩から徳川家に嫁いだ。家定没後は天璋院と号した。幕府崩壊時の大奥の責任者でもあった。1868年の江戸城無血開城には、篤姫が東征大総督府下参謀・西郷隆盛に送った手紙の功が大きかったという。
 
◈「朱漆塗琉球漆器」は、江戸時代、1740年、薩摩の山川正龍寺より、当院に寄進された。かつて、琉球の識名親方与力・喜納某より、薩摩山川代官・佐々木左衛門を経て、正龍寺に移されている。正龍寺は、室町時代、1390年、虎林により再興され、島津氏の庇護を受けた。薩南学派の祖・東福寺波の桂庵玄樹などの僧を輩出し、「薩摩の文教の府」といわれた。また、山川港に入る外国船の外交文書の授受に当たっていた。近代、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈により廃寺になる。
◆薩摩藩士戦亡の碑 境内東の慧日山に、西郷隆盛自筆の「薩摩藩士東征戦亡之碑」が立てられている。
 隆盛は、江戸時代末、1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、当山に薩摩軍の屯営を構えている。裏山山頂に砲列を敷き、淀より進軍していた幕軍をこの地から砲撃した。
 鳥羽・伏見の戦いにより、薩摩藩士ら524人が犠牲になる。その霊を弔うために、隆盛は斎戒沐浴し碑文を書きしたため、1869年に碑を建立したという。
◆墓 江戸時代末期の生麦事件(1862)の首謀者・薩摩藩士・奈良原喜左衛門(1831-1865)の墓がある。
 江戸時代末期の尊攘派の薩摩藩藩士・田中新兵衛(1841-1863)の墓がある。
 江戸時代後期の新選組隊士・御陵衛士・清原清(きよはら きよし、1831-1868)の墓がある。
 江戸時代末期-近代の薩摩藩士・政治家の中井弘(桜洲山人、1838-1894)の墓がある。


*普段は非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『旧版 古寺巡礼 京都 18 東福寺』『京都府の歴史散歩 中』『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』『京都の寺社505を歩く 上』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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