月真院 〔高台寺〕 (京都市東山区) 
Gesshin-in Temple
月真院 月真院 
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御陵衛士屯所跡の石標


「鉄道先駆者 谷暘先生墓所」の石標


歌碑








庫裏


本堂














稲荷社


稲荷社


稲荷社


稲荷社
 高台寺塔頭の月真院(げっしんいん)は、ねねの道の東に面している。かつて、萩と椿の名所で知られた。幕末の一時期、勤皇派の御陵衛士(高台寺党)屯所が置かれている。 
 臨済宗建仁寺派。本尊は千体地蔵菩薩。
◆歴史年表 江戸時代、1615年、石見(いわみ)国・津和野の城主・亀井茲政が、亡父・政矩(まさのり)の菩提を弔うために、三江紹益を開山として創建した。 
 1616年、亀井豊前守の保護の下、豊臣秀吉の外戚・北政所の従弟にあたる久林玄昌(きゅうりん-げんしょう)により開創されたともいう。亀井家の菩提寺になる。
 1867年、6月8日(旧暦)、伊東甲子太郎らの組織した御陵衛士(高台寺党)の屯所になる。五条通の善立寺より移された。
 1867年、6月12日、新撰組隊士で尊攘派の茨木司ら10人が、月真院の伊東に合流を求めたが拒否される。6月14日、茨木らは新撰組により粛清される。8月18日、中岡慎太郎が寺を訪ねる。11月10日、新撰組の間者・斉藤一が寺より脱出する。11月18日、油小路事件により御陵衛士は事実上消滅する。 
 1682年、3月、妙法院門跡堯恕親王が桜見物している。(『堯恕親王日記』)
 現代、1953年、笠原了承彦が住持になり、一時無住になっていた寺を再興する。
◆三江紹益 室町時代後期-江戸時代前期の臨済宗の僧・三江紹益(さんこう-じょうえき、 1572?-1650)。京都の生まれ。道号は友林、友竹。徳川家康に信任され、経書を講じた。1598年/1608年、慈芳院、1604年、常光院の開山。1606年、建仁寺に入山、建仁寺295世になる。1608年/1614年、久昌院、1615年、月真院、春光院、1616年、岡林院などを中興開山した。1624年、高台寺の中興開山、1632年、円徳院を開く。78歳。
 北政所が帰依した。木下家定(北政所の兄)と親交があり、その子は紹益の弟子・紹叔になる。
◆亀井茲政 江戸時代前期の大名・亀井茲政(かめい-これまさ、1617-1681) 。亀井政矩(まさのり)の次男。1619年、父急死により3歳で石見・津和野藩主・亀井家2代になる。1637年、松江城、1648年、浜田城、1667年、城主改易により丹後・宮津城を警備した。64歳。
◆伊東甲子太郎 江戸時代後期の御陵衛士(高台寺党)盟主・伊東甲子太郎(いとう-きねたろう/かしたろう、1835-1867)。名は武明、通称は大蔵、摂津、号は東山、変名は宇田兵衛。常陸(茨城県)生まれ。父・志筑(しづく)藩士・鈴木忠明の長男、母・こよ。水戸藩士・金子健四郎に神道無念流剣術、水戸学を学び勤王思想に傾倒する。江戸の旗本・伊東精一/誠一郎に北辰一刀流を学び、跡目を継ぎ婿養子になる。1864年、藤堂平助の仲介で新撰組に加盟し、参謀・文学師範になる。その後分離し、1867年、戒光寺の湛然長老の肝煎りにより御陵衛士が組織された。勤皇派の伊東ら15人が新撰組を脱退し御陵衛士に参加した。山陵奉行・戸田大和守忠至の配下に入る。伊東は御陵衛士(高台寺党)盟主になり、薩摩と連携した。1867年、新撰組により七条油小路で粛清され、斬殺された。(油小路事件)。33歳。
 国学・歌道を好み剣術に長けた。
 供養塔が本光寺(下京区)に立つ。墓は戒光寺(東山区)にある。
◆谷口道悦 江戸時代後期の産科医・谷口道悦(1796-1852)。丹波(京都府)船井郡に生まれた。谷暘卿は甥になる。21歳で京都の奥道逸に賀川流産科を学ぶ。富小路通御池に住み、第120代・仁孝天皇の御殿医になったという。56歳。
 月真院(東山区)に墓がある。
◆谷暘卿 江戸時代後期-近代の産科医・谷暘卿(たに-ようけい、1817/1815-1885)。丹波(京都府)船井郡に生まれた。父は藤兵衛、道悦の長兄になる。1836年、京都で道悦に産科を学び、福井丹波守に師事、漢方・蘭方の産科、眼科を開業、1853年-1870年、九条家の御殿医も兼ねた。
 京都に癩病院建設を上申した。1869年、小笠原島開拓を建白、1870年、新橋-横浜間の鉄道建設を建議し、鉄道の先覚者といわれた。69歳。
 月真院(東山区)に墓がある。
◆御陵衛士 江戸時代末期、1867年3月、新撰組内の勤皇派だった伊東甲子太郎、古参の藤堂平助、内海次郎ら15人(16人とも)は新撰組を脱退した。泉涌寺塔頭・戒光寺の湛然長老の肝煎りによる。第121代・孝明天皇の御陵(後月輪東山陵)守護の任により、「御陵衛士(ごりょうえじ、孝明天皇御陵衛士、禁裏御陵衛士)」と呼ばれた。新撰組では脱会は裏切りとされ、その追及をかわすための手立てだった。
 当初は城安寺(じょうあんじ)(三条通西大路西入ル下ル南海子町)に仮宿し、続いての善立寺(ぜんりゅうじ、長円寺とも)(五条橋東二町目、後に松原通大和大路東入ルに移転)に屯所を置き、6月、下野国宇都宮藩重臣で山陵奉行に就いた戸田忠至(1809-1883)に属した。6月8日、高台寺塔頭・月真院に屯所を移し「禁裏御陵衛士」の標札を掲げる。「先帝御陵衛士屯所」だったともいう。庫裏2階に隠し部屋があり、隊士らはそこで寝起きしていたという。当初は「月真院党」、後に「高台寺党」とも呼ばれる。だが、衛士らはそのように呼ぶことはなかったという。
 11月13日、伊東は坂本龍馬を訪ね、新選組、見廻組が命を狙っているとして注意を促している。18日の油小路事件で、その伊東が新撰組により暗殺される。遺体を引き取りに来た藤堂、服部武雄、毛内ら4人も、待ち伏せしていた20数人の新撰組により斬殺された。残った篠原泰之進らは辛くも薩摩藩邸に逃げ、御陵衛士は解散した。
 1868年、旧御陵衛士のうち、伊東の実弟・鈴木三樹三郎(1837-1919)を隊長とし、赤報隊に2番隊として参加している。西郷隆盛、岩倉具視の支援を得た民兵組織であり、後に2番隊は新政府軍の指揮下に入る。隊は後に徴兵7番隊に編入された。
◆椿 かつて椿と萩の名所として知られた。
 境内に大名で利休十哲の一人・茶人の織田有楽斎(1547-1622)が植えたとされる大輪の名椿「有楽椿」が3月中旬に花開く。歌人・国学者の小沢蘆庵(1723-1801)、俳人の高桑闌更(たかくわ らんこう、1726-1798)らも遊んだという。
◆墓 医者・谷口道悦(1796-1852)、医者・谷暘卿(たに-ようけい、1817-1885)の墓がある。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都大事典』、『京都市姓氏歴史人物大辞典』、『新選組大事典』、『新選組事典』、『新選組が京都で見た夢』、『龍馬と新選組の京都』、『新選組 高台寺党』、『増補版 京の医史跡探訪』、『続・京都史跡事典』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、『京都歩きの愉しみ』、『京都 神社と寺院の森』 、ウェブサイト「コトバンク」   



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稲荷社

山門脇の地蔵尊

地蔵尊
月真院 〒604-0000 京都市東山区下河原町528  075-533-4064
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