岩屋寺(大石寺) (京都市山科区)
 Iwaya-ji Temple
岩屋寺(大石寺) 岩屋寺(大石寺) 
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「大石大夫閑居址」の石標












本堂



本堂





光明不動




木像堂


茶室「可笑庵」


茶室「可笑庵」


大石良雄の手植えというウメ


大石弁財天


大石弁財天




シダレザクラ





忠誠堂(納骨堂)


大石稲荷大神 



大石稲荷大神 



大石稲荷大神 


地蔵尊



地蔵尊



大石良雄の遺髪塚


遺髪塚




 遺髪塚






十三重塔



隠棲地碑







サクラの巨木


【参照】大石道 
 山科西野の岩屋寺(いわや-じ/いわや-でら)は、江戸時代の赤穂義士首領・大石良雄(内蔵助)の閑居跡として知られ、「大石寺」とも呼ばれている。山号は神遊山(しんゆうさん)金地院という。
 曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺、本尊は大聖(だいしょう)不動明王。
 尼寺霊場の一つ。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 平安時代、897年、第59代・宇多天皇の勅命により山科神社が創建されたという。その北に隣接する岩屋寺は、社の神宮寺として開かれたという。当初は天台宗に属し、「比叡山三千坊」の一つだったという。
 その後、長間にわたり荒廃する。
 室町時代、1571年、織田信長の焼討ちにより焼失した。
 江戸時代初期、1656年、再興される。その後、再び衰微する。
 1701年、旧7月、大石良雄の親戚で郷士・進藤源四郎が保証人になり大石は西野山村に移る。家屋は新築であり、永住を偽装したためという。
 1702年、大石宅に同志が集まる。旧9月頃、江戸に出発した。
 1703年、討入り成功後に大石は、邸宅、田畑などを岩屋寺に寄進したという。
 その後、荒廃する。
 嘉永年間(1848-1854)、京都町奉行・浅野長祚(ながよし)らの寄付を受け、堅譲尼(けんじょうに)が再興した。
 文久年間(1861-1864)、現在の本堂が建てられた。
◆堅譲尼 江戸時代後期の僧・堅譲尼(けんじょう-に、?-?)。詳細不明。女性。嘉永年間(1848-1854)、岩屋寺を再興した。
◆大石 良雄 江戸時代前期の武士・大石 良雄(おおいし-よしお/よしたか、1659-1703)。男性。幼名は喜内、内蔵助(くらのすけ)。父・播磨国(兵庫県)赤穂藩の重臣・権内良昭。父没後、祖父・内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして赤穂藩の家老職になる。山鹿素行に軍学、伊藤仁斎に漢学を学んだ。1701年旧3月14日、主君・浅野長矩(あさの-ながのり、浅野内匠頭)は江戸城松之大廊下で、高家(こうけ)・吉良義央(きら-よしなか、上野介) に対し、遺恨による刃傷事件を起こした。将軍・徳川綱吉の意向により、長矩は即日切腹、浅野家はお家断絶、領地没収になる。義央に咎めはなかった。旧赤穂藩内には、義央への仇討を主張する急進派と、御家再興の穏健派の対立が起こる。城代家老・良雄は、藩内の急進派を抑え、幕府に義央処分、長矩の弟・大学による浅野家再興を嘆願した。1701年旧4月11日、良雄は、藩家中をまとめ赤穂城を明渡した。旧6月25日、赤穂・花岳寺で長矩の百カ日法要を行う。旧6月27日、山科西野山村に隠棲した。屋敷は一町四方だったという。山科には、大石家親族・進藤長之(近衛家家臣)の土地があり、支援があった。(山科閑居)。1702年旧1月11日、山科会議が行われる。旧2月15日、良雄宅に同志が集まり重要決定が行われた。4月15日、良雄は長男・主税(ちから)を残し、懐胎している妻・理玖(りく)と離縁する。理玖は、子・くう、吉千代を連れて但馬豊岡の実家に戻った。良雄は伏見・島原などに遊ぶ。旧7月、大学は広島・浅野本家に御預けになり浅野家再興は頓挫する。良雄は、京都・円山に同志を集め、吉良邸討入を確認した。旧8月1日、山科の閑居を引き上げ、四条道場塔頭・梅林庵(四条河原町)に移ったともいう。旧10月まで、旧赤穂藩士と連絡をとる。旧10月7日、江戸に向かう。旧12月14日未明、良雄ら総勢47人の赤穂浪士は、江戸本所(ほんじょ)・吉良屋敷に討入る。浪士は、義央の首を取り主君の仇を討った。その後、幕命により良雄は、熊本藩主・細川綱利の邸に預けられる。1703年旧2月4日、良雄以下46士は切腹を命じられ自刃した。浪士の遺骸は高輪・泉岳寺の長矩墓の傍らに葬られた。45歳。(赤穂事件)。
 浪士は「義士」と称えられた。浄瑠璃、歌舞伎の題材になり、事件は「忠臣蔵」といわれた。
 墓は高輪・泉岳寺(東京都)にある。
◆進藤 源四郎 江戸時代前期-中期の武士・進藤 源四郎(しんどう-げんしろう、1647-1730)。男性。山科西野山の生まれ。父・進藤俊順、母・大石良勝女。大石内蔵助の父方の従兄弟。播州赤穂藩浅野家の鉄砲頭、知行高400石。妻との死別後、内蔵助の妻・理玖の姪・田村瀬兵衛の娘を後添えにした。内蔵助の娘・るりを養女にする。1701年、刃傷事件後、討入りの義盟に加わる。江戸の浪士との連絡係になる。討入りには加わらなかった。内蔵助に山科西野山村の住居を提供する。1702年、伯父・進藤八郎右衛門から、義盟よりの脱盟を説得され隠棲した。83歳。
◆浅野 長祚 江戸時代後期-近代の武士・浅野 長祚(あさの-ながよし、1816-1880)。男性。江戸の生まれ。父・旗本・浅野長泰。浅野家の親戚になる。1839年、使番、1841年、目付。1842年、甲府勤番支配。1845年、先手鉄砲頭、浦賀奉行。1849年、相模湾にイギリス船マリナー号が停泊した件を奉行として処理する。1852年、京都西町奉行に転任になり、山陵調査し「歴代廟陵考補遺」を著す。1854年、禁裏造営掛、1858年、日米修好通商条約締結に際し、対公家工作を行う。大老・井伊直弼に疎まれ、小普請奉行に左遷され、1859年、免職になる。1862年、寄合から寄合肝煎、江戸北町奉行、1863年、作事奉行、西丸留守居、1867年、致仕。65歳。
 書は杉浦西涯に、画は栗本翠庵・椿椿山に学ぶ。書画鑑定家、蔵書家でも知られた。  
◆本尊 本堂に本尊「大聖不動明王」を安置する。平安時代前期の天台宗寺門派宗祖・智証(ちしょう)大師(円珍、814-891)作とされる。大石良雄の念持仏だったという。
◆建築 ◈「本堂」は、江戸時代、文久年間(1861-1864)に建てられた。
 ◈「木像堂」は、近代、1901年に建てられた。
 ◈「毘沙門堂」がある。
◆茶室 境内に、茶室「可笑庵(かしょうあん)」がある。大石良雄邸の古材で建てられたという。
◆文化財 紙本墨書「川蝉図」は、江戸時代前期、1655年に画・韓時覚による。江戸時代前期、1655年に韓時覚(1621-?)は朝鮮通信使画員として来日した。後賛として、大石内蔵助の詩文がある。内蔵助の没後に加えられた。軸装86.5×26.7㎝。
◆大石の遺品 本堂、木像堂には、大石関連の遺品、遺物などが安置されている。
 ◈大石の主君・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の位牌がある。
 ◈四十七士の木像・位牌が安置されている。
 ◈大石の鎖襦袢(くさりじゅばん)、茶道具などが残されている。浪士らの切腹後に、浪士でただ一人切腹不問に付された寺坂吉右衛門(1665-1747)が、遺髪・遺品を進藤源四郎に届けたという。
 ◈「韓時覚画」、大石内蔵助の詩文・後賛、江戸時代前期、1655年年。
◆大石の旧跡 ◈旧宅の場所について、木像堂付近、寺下の池付近ともいう。
 ◈「遺髪塚碑」は、内蔵助の遺髪を埋めた塚に、江戸時代、1775年に江戸時代の歌人・宮部義正(1729-1792)、上田正並により建立された。
 遺髪は、浪士らの切腹後に、寺坂吉右衛門が進藤源四郎に届けたという。その後、旧宅跡に埋葬された。
 ◈「大石内蔵助良雄仮居跡碑」は、江戸時代、1775年に立てられた。
 ◈「大石良雄君隠棲旧址」碑は、近代、1901年に立てられた。揮毫は、京都府知事・北垣国道(1836-1916)筆による。
◆山科閑居の段 『仮名手本忠臣蔵』11段は、2世・竹田出雲、三好松洛、並木千柳 (並木宗輔)の合作による。赤穂義士の討入りを題材にし、時代を『太平記』の頃に設定した。人形浄瑠璃、歌舞伎の演目であり、江戸時代、1748年に大坂竹本座で初演された。9段目「山科閑居の段」では山科が舞台になった。筋書きは次のようになる。
 加古川本蔵の女房・戸無瀬(となせ)は、娘・小浪(こなみ)を伴い、鎌倉より大星由良之助(おおぼし-ゆらのすけ)の閑居を訪ねる。由良之助の妻・お石が二人を迎えた。戸無瀬が許嫁である良之助の子・力弥と、娘・小浪の祝言について触れると、お石は婚姻に反対する。両家の釣合い、浪人という境遇、高師直(こうの もろのう)に賄賂により追従し仕える本蔵に比し、二君に仕えない夫・由良助の違いを述べる。
 戸無瀬は、夫・本蔵への義理も立たないとして死を覚悟する。小浪も同意し、戸無瀬が刀を振り上げると、戸外から虚無僧(実は本蔵)の吹く尺八の音が聞えた。お石の「御無用」の声も上り戸無瀬の手は止まる。お石は力弥と小浪の祝言を認めるとして、引き出物に本蔵の首を望むという。本蔵のために由良之助の主君が遺恨を晴らせず、師直を討ちもらしたという。
 虚無僧姿の本蔵は、故意に由良助を皮肉る。本蔵は、殿中刃傷の際に、塩路判官(えんやはんがん)を抱き留め、判官切腹に追い込んだ自らの行動を悔いていたためだった。お石は憤り、槍で挑む。力弥は母を助けようとして本蔵の脇を突く。本蔵は娘の幸せを願い、判官の恨みを身に受けるためにあえて力弥の手にかかった。
 現れた由良之助は、本蔵の真意を見抜く。由良之助は、本蔵に裏庭の雪で立てた二つの五輪塔を示し、仇討ちを果たして親子とも死ぬ覚悟であると打ち明ける。本蔵は婚姻の引き出物として、師直の屋敷の図面を贈る。お石と戸無瀬の両母は、やがて死別の定めある二人のために手を取り合い泣き崩れる。由良之助は、本蔵が息を引きとる中、力弥と小浪を祝言させることを伝え、本蔵が着てきた虚無僧の姿に身をやつし、鎌倉へ旅立つ。
 劇中の大星由良助は、実在の大石良雄、お石はその妻・理玖、力弥は子・主税(ちから)、高師直は吉良義央、塩谷判官は浅野長矩が想定されている。加古川本蔵は、梶川与惣兵衛(かじかわ よそべえ)になる。惣兵衛は、浅野長矩の吉良義央への刃傷事件の際に現場に居合わせた。与惣兵衛らが浅野の刀を取り上げ、床に押し付けたため、吉良は浅い傷で済んだ。惣兵衛は、この功により1500石の知行取りになっている。
◆梅 境内に、大石良雄の手植えという梅がある。
◆祭礼 「山科義士まつり(義士祭)」(12月14日)は、討入りを記念して行われる。赤穂浪士四十七士に扮した義士行列は、毘沙門堂(山科区)を出発し、岩屋寺に到着する。大石良雄、主税、遥泉院役による社前での代表拝礼が行われる。その後、大石神社(山科区)に向かう。
 当日の岩屋寺の「義士忌」では、法要、御詠歌奉納、義士供養、討入りが再現される。四十七士木像なども公開される。甘酒接待などがある。
◆年間行事 義士忌(供養、「山科義士まつり」)(12月14日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『洛中洛外』、『京都府の歴史散歩 中』、『洛東探訪』、『京都隠れた史跡100選』、『古都歩きの愉しみ』、『京都歩きの愉しみ』、『京都の寺社505を歩く 下』、『山科の歴史を歩く』 、『朝鮮通信使と京都』、『京都山科 東西南北』、『山科事典』 、ウェブサイト「コトバンク」


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