岩屋寺(大石寺) (京都市山科区)
 Iwaya-ji Temple
岩屋寺(大石寺) 岩屋寺(大石寺) 
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「大石大夫閑居址」の石標








本堂



本堂





光明不動


木像堂


茶室「可笑庵」


茶室「可笑庵」


大石良雄の手植えというウメ
 山科西野の岩屋寺(いわやじ/いわやでら)は、江戸時代の赤穂義士首領・大石良雄の閑居跡として知られ、大石寺とも呼ばれている。山号は神遊山(しんゆうさん)金地院という。
 曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺、本尊は大聖(だいしょう)不動明王。
 尼寺霊場の一つ。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 平安時代、897年、第59代・宇多天皇の勅命により山科神社が創建されたという。その北に隣接する岩屋寺は、社の神宮寺として創建されたという。当初は天台宗に属し、比叡山三千坊の一つだったという。
 その後、長間にわたり荒廃する。
 安土・桃山時代、1571年、織田信長の焼き討ちにより焼失する。
 江戸時代初期、再興される。その後、再び衰微する。
 1701年、大石良雄の親戚で郷士・進藤源四郎が保証人になり大石は西野山村に移る。
 1702年、大石宅に同志が集まる。
 1703年、討ち入り成功後に大石良雄は、邸宅、田畑などを岩屋寺に寄進したという。
 その後、荒廃する。
 嘉永年間(1848-1854)、京都町奉行・浅野長祚(ながよし)らの寄付を受け再興された。
 文久年間(1861-1864)、現在の本堂が建てられた。
◆大石良雄 江戸時代の播磨国赤穂藩の筆頭家老・大石良雄(おおいし よしお/よしたか、1659-1703)。通称を内蔵助。播磨国赤穂藩の重臣・権内良昭の子。父死後、祖父内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職となる。山鹿素行に軍学、伊藤仁斎に漢学を学んだという。1701年3月、主君・浅野長矩(浅野内匠頭)が江戸城松之大廊下において、高家(こうけ)・吉良上野介に対して刃傷事件を起こした。このため、浅野は即日切腹、浅野家はお家断絶、領地没収となる。吉良に咎めはなかった。城代家老大石は、1701年4月、赤穂城明渡し後、6月、山科西野山村で隠棲した。屋敷は一町四方だったという。山科には、大石家の親族・進藤長之(近衛家家臣)の土地があり、支援があった。(山科閑居)。1702年2月15日、大石宅に同志が集まり重要決定が行われた。1702年10月まで、旧赤穂藩士と連絡をとる。旧赤穂藩内には、吉良へのあだ討ちを主張する急進派と、御家再興の穏健派の対立が起こる。懐胎している妻・睦と離縁する。睦は、子・くら、吉千代を連れて但馬豊岡の実家に戻った。大石は、一時、京都に移ったという。四条道場塔頭・梅林庵に移ったともいう。
 御家再興が絶望的となる。1702年12月14日未明、大石を初めとして総勢47人の赤穂浪士は、本所吉良屋敷に討ち入る。1703年2月、大石以下46士は切腹を命じられ自刃した。(赤穂事件)
◆進藤源四郎 江戸時代の武士・進藤源四郎(しんどう げんしろう、1647-1730)。父は進藤俊順、母は大石良勝女。大石内蔵助の父方の従兄弟。播州赤穂藩浅野家の鉄砲頭、知行高400石。妻との死別後、内蔵助の妻・りくの姪・田村瀬兵衛の娘を後添えとした。内蔵助の娘・るりを養女とする。1701年、刃傷事件後、討入の義盟に加わる。討入には加わらなかった。内蔵助に山科西野山村の住居を提供した。1702年、伯父の進藤八郎右衛門から義盟よりの脱盟を説得され隠棲した。
◆浅野長祚 江戸時代後期-近代の武士・浅野長祚(あさの ながよし、1816-1880)。江戸の生まれ。父は旗本・浅野長泰。1839年、使番、1841年、目付。1842年、甲府勤番支配。1845年、先手鉄砲頭、浦賀奉行。1849年、相模湾にイギリス船マリナー号が停泊した件を奉行として処理する。1852年、京都西町奉行に転任になり、山陵調査し「歴代廟陵考補遺」を著す。1854年、禁裏造営掛、1858年、日米修好通商条約締結に際し、対公家工作を行う。大老・井伊直弼に疎まれ、小普請奉行に左遷、1859年、免職。1862年、寄合から寄合肝煎、江戸北町奉行、1863年、作事奉行、西丸留守居、1867年、致仕。
 書は杉浦西涯に、画は栗本翠庵・椿椿山に学ぶ。書画鑑定家、蔵書家でも知られた。浅野家の親戚になる。  
◆本尊 本堂に安置の本尊・大聖不動明王は、智証(ちしょう)大師の作とされ、大石良雄の念持仏であったという。
◆茶室 境内に、大石良雄の邸宅の材で建てたという茶室「可笑庵(かしょうあん)」がある。
◆建築 現在の本堂は、江戸時代、文久年間(1861-1864)に建てられた。
 木像堂は、1901年に建てられた。
◆文化財 本堂、木像堂には、大石の主君・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の位牌、四十七士の木像・位牌、大石良雄の遺品などが安置されている。
◆大石の旧跡 旧宅の場所について、木像堂、寺下の池付近ともいう。寺のすぐ北にも、大石良雄の遺髪塚と旧宅址がある。ただ本来は、旧宅を示す標石だった。
 滑石越の途中、峠下に「腰掛石」がある。大石が伏見撞木町(しゅもくちょう)の遊里に通った道すがら休憩した石という。
 花山稲荷にもゆかりという「血判石」などがある。
◆山科閑居の段 『仮名手本忠臣蔵』11段は2世・竹田出雲、三好松洛、並木千柳 (並木宗輔)の合作による。赤穂義士の討入を題材にし、時代を『太平記』の頃に設定した。人形浄瑠璃、歌舞伎の演目であり、江戸時代、1748年に大坂竹本座で初演された。9段目「山科閑居の段」では山科が舞台になった。
 加古川本蔵の女房・戸無瀬(となせ)は娘・小浪(こなみ)を伴い、鎌倉より大星由良之助(おおぼし ゆらのすけ)の閑居を訪ねる。由良之助の妻・お石が二人を迎えた。戸無瀬が許嫁である良之助の子・力弥と娘・小浪の祝言について触れると、お石は婚姻に反対する。両家の釣合い、浪人という境遇、高師直(こうの もろのう)に賄賂により追従し仕える本蔵に比し、二君に仕えない夫・由良助の違いを述べる。
 戸無瀬は、夫・本蔵への義理も立たないとして死を覚悟する。小浪も同意し、戸無瀬が刀を振り上げると、戸外から虚無僧(実は本蔵)の吹く尺八の音が聞えた。お石の「御無用」の声も上り戸無瀬の手は止まる。お石は力弥と小浪の祝言を認めるとして、引き出物に本蔵の首を望むという。本蔵のために由良之助の主君が遺恨を晴らせず、師直を討ちもらしたという。
 虚無僧姿の本蔵は、故意に由良助を皮肉る。本蔵は、殿中刃傷の際に、塩路判官(えんやはんがん)を抱き留め、判官切腹に追い込んだ自らの行動を悔いていたためだった。お石は憤り、槍で挑む。力弥は母を助けようとして本蔵の脇を突く。本蔵は娘の幸せを願い、判官の恨みを身に受けるためにあえて力弥の手にかかった。
 現れた由良之助は、本蔵の真意を見抜く。由良之助は、本蔵に裏庭の雪で立てた二つの五輪塔を示し、仇討ちを果たして親子とも死ぬ覚悟であると打ち明ける。本蔵は婚姻の引き出物として、師直の屋敷の図面を贈る。お石と戸無瀬の両母は、やがて死別の定めある二人のために手を取り合い泣き崩れる。由良之助は、本蔵が息を引きとる中、力弥と小浪を祝言させることを伝え、本蔵が着てきた虚無僧の姿に身をやつし、鎌倉へ旅立つ。
 劇中の大星由良助は、実在の大石内蔵助良雄、お石はその妻・睦、力弥は子・主税(ちから)、高師直は吉良義央、塩谷判官は浅野長矩が想定されている。加古川本蔵は梶川与惣兵衛(かじかわ よそべえ)になる。惣兵衛は、浅野長矩の吉良義央への刃傷事件の際に現場に居合わせた。与惣兵衛らが浅野の刀を取り上げ、床に押し付けたため、吉良は浅い傷で済んだ。惣兵衛は、この功により1500石の知行取りになっている。
◆梅 大石良雄手植えという梅がある。
◆年間行事 義士忌(供養、「山科義士まつり」では討ち入りが再現される。四十七士木像なども公開される)(12月14日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『洛中洛外』『京都の寺社505を歩く 下』『京都隠れた史跡100選』『京都府の歴史散歩 中』『洛東探訪』『古都歩きの愉しみ』『京都歩きの愉しみ』


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大石稲荷大神 

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地蔵尊

地蔵尊

大石良雄の遺髪塚


遺髪塚

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サクラの巨木
岩屋寺 〒607-8308 京都市山科区西野山桜ノ馬場町96  075-581-4052
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