瑞光院 (京都市山科区)
Zuiko-inTemple
瑞光院  瑞光院
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浅野稲荷


浅野稲荷神社


浅野稲荷



四十六士の墓碑が墓地を囲む。



長矩の墓



遺髪塔



大石遺愛という梅の木



【参照】「赤穂浪士四十七士遺蹟 瑞光院跡」の石標、上京区瑞光院前町
 山科の瑞光院(ずいこういん)は、忠臣蔵ゆかりの寺院になる。山号は紫雲山という。
 臨済宗大徳寺派。本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 安土・桃山時代、天正年間(1573-1593)、洛中に、武士・浅野長政の別荘地(現在の上京区瑞光院前町[ずいこういんまえちょう])があった。
 江戸時代、1613年/1611年、山崎家盛は、長政の没後に別荘を寺院に改める。大徳寺の琢甫宗林を開山とした。
 1614年、家盛の没後、その法号に因み瑞光院と称した。大徳寺塔頭の一つになる。
 1637年、当時の境内地が描かれている。(『洛中絵図』)
 元禄年間(1688-1703)初期、2世・陽甫が、播州赤穂城主・浅野内匠頭長矩夫人・瑤泉院(ようぜいいん)の親戚(瑶泉院の母・寿光院は陽甫の姪)に当たったことから、長矩は壇越になり、浅野家の祈願寺になる。(『山州名跡志』『坊目誌』)
 1701年、松の廊下事件で、浅野長矩が切腹する。大石良雄は、境内に長矩の短刀と衣冠を埋めて供養塔を立てた。この時、呉服屋・綿屋(安田)善右衛門が援助した。大石らは墓参の度に、当院で吉良邸討入の密談を行っていたという。
 1703年/1702年、大石良雄らが切腹した際に、遺志に従い、46人の遺髪が長矩の傍らに葬られ、遺髪塔が立てられた。
 1719年、四十六士の墓碑が立てられる。
 現代、1962年、瑞光院は上京区より現在地(山科区)に移された。浅野稲荷神社も遷座する。
◆浅野長政 江戸時代前期の武士・浅野長政(あさの-ながまさ、1611-1547)。尾張国の安井弥兵衛尉重継の長男。母の兄・浅野又右衛門長勝の養女・ややと結婚し浅野家を継ぐ。長勝のもう一人の養女は秀吉の妻・ねねになる。織田信長、秀吉に仕えた。1573年、秀吉が浅井氏滅亡後、近江で知行を与えられた。1582年頃、杉原家次と共に京都奉行になり、その後、前田玄以と当る。太閤検地の始まりの山城国検地奉行に就く。1583年、賤ヶ岳の戦い後、近江の甲賀・栗太に石を与えられた。1584年、近江坂本城、大津城、1587年、若狭一国を与えられ、小浜城主になる。1588年、従五位下・弾正少弼に叙任された。1592-1593年、文禄の役で、肥前名護屋城の普請、軍監として渡海し、石田三成と対立する。1593年、甲斐府中城主。1598年、五奉行。増田長盛により甲斐に閉居させられた。1600年、関ヶ原の戦で、子・幸長と東軍に属した。囲碁を好み、対局した家康は長政没後は囲碁を絶ったという。65歳。
◆山崎家盛 安土・桃山時代-江戸時代の大名・山崎家盛(やまざき-いえもり、1567-1614)。近江生まれ。山崎片家の長男。父没後、1591年、摂津三田城城主。1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川方としての動きを見せるが、実際は石田方として動いた。細川藤孝の丹後国田辺城攻め(田辺城の戦い)に参戦した。戦後、池田輝政のとりなしにより家康に仕えた。戦いでの責を問われるが回避し、1601年、因幡国若桜藩初代藩主に加増転封になる。48歳。
◆瑤泉院 江戸時代の女性・瑤泉院(ようぜんいん/ようぜいいん、1674?-1714)。阿久里(あぐり)。父、初代備後国三次藩主・浅野長治の三女、母は浅野長重(浅野長矩の曽祖父)の娘。父没後、浅野長照の養女になる。1683年、播磨国赤穂藩主・浅野長矩と婚姻する。子に恵まれず、1696年、長矩の弟・浅野長広を養子とした。1701年、長矩が吉良義央を江戸城内で傷つけ、切腹、領地没収になる。その後、落飾し、瑤泉院と称し夫の菩提を弔う。1702年、元赤穂藩家老・大石良雄らの吉良邸討入に際し、赤穂塩田よりの運上銀を大石に託した。吉良討取り後、切腹になった赤穂浪士遺児で、伊豆大島へ流された吉田伝内らの赦免に尽力した。1706年、3人の恩赦を実現させた。
 夫と同じ、江戸高輪・泉岳寺に葬られた。戒名は瑤泉院殿良瑩正燈大姉。三次・鳳源寺に五輪の遺髪塔がある。
◆大石良雄 江戸時代初期の武士・大石良雄(おおいし-よしお/よしたか、1659-1703)。幼名は喜内、内蔵助(くらのすけ)。播磨国赤穂藩の重臣・権内良昭の子。父没後、祖父・内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして赤穂藩の家老職になる。山鹿素行に軍学、伊藤仁斎に漢学を学んだ。1701年3月14日、主君・浅野長矩(あさの-ながのり、浅野内匠頭)は江戸城松之大廊下で、高家(こうけ)・吉良義央(きら-よしなか、上野介) に対し、遺恨による刃傷事件を起こした。将軍・徳川綱吉の意向により、長矩は即日切腹、浅野家はお家断絶、領地没収になる。義央に咎めはなかった。旧赤穂藩内には、義央への仇討を主張する急進派と、御家再興の穏健派の対立が起こる。城代家老・良雄は、藩内の急進派を抑え、幕府に義央処分、長矩の弟・大学による浅野家再興を嘆願した。1701年4月11日、良雄は、藩家中をまとめ赤穂城を明渡した。6月25日、赤穂・花岳寺で長矩の百カ日法要を行う。6月27日、山科西野山村に隠棲した。屋敷は一町四方だったという。山科には、大石家親族・進藤長之(近衛家家臣)の土地があり、支援があった。(山科閑居)。1702年1月11日、山科会議が行われる。2月15日、良雄宅に同志が集まり重要決定が行われた。4月15日、良雄は長男・主税(ちから)を残し、懐胎している妻・理玖(りく)と離縁する。理玖は、子・くう、吉千代を連れて但馬豊岡の実家に戻った。良雄は伏見・島原などに遊ぶ。7月、大学は広島・浅野本家に御預けになり浅野家再興は頓挫する。良雄は、京都・円山に同志を集め、吉良邸討入を確認した。8月1日、山科の閑居を引き上げ、四条道場塔頭・梅林庵(四条河原町)に移ったともいう。10月まで、旧赤穂藩士と連絡をとる。10月7日、江戸に向かう。
12月14日未明、良雄ら総勢47人の赤穂浪士は、江戸本所(ほんじょ)・吉良屋敷に討入る。浪士は、義央の首を取り主君の仇を討った。その後、幕命により良雄は、熊本藩主・細川綱利の邸に預けられる。1703年2月4日、良雄以下46士は切腹を命じられ自刃した。浪士の遺骸は高輪・泉岳寺の長矩墓の傍らに葬られた。45歳。(赤穂事件)。
 浪士は「義士」と称えられた。浄瑠璃、歌舞伎の題材になり、事件は「忠臣蔵」といわれた。
 墓は高輪・泉岳寺(東京都)にある。
◆浅野稲荷 境内の浅野稲荷神社は、赤穂藩、浅野家第宅の屋敷に祀られた屋敷神だった。瑞光院が建てられると、寺鎮守稲荷、地主神として祀られた。瑞光院の移転に伴い、現在地に遷された。
◆浅野家・大石家 藩主・浅野長矩の妻・瑤泉院と瑞光院2代・住持は親戚であり、当寺は浅野家の祈願所になった。
 江戸時代、1701年、藩主・浅野長矩が切腹した年に大石良雄は、境内に長矩の短刀と衣冠を埋め供養塔を立てた。大石らは墓参のたびに、吉良邸討入りの密談を行っていたという。
 1703年、大石らが切腹した際に、その遺志に従い、46人の遺髪が長矩の傍らに葬られ、遺髪塔が立てられた。1719年、四十六士の墓碑も立てられている。
◆樹木 境内に、大石良雄が生前愛したという梅の古木がある。
 枝垂桜観桜(4月中旬)。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都史跡事典』『京都隠れた史跡100選』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『山科の歴史を歩く』『稲荷信仰と宗教民俗』 『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」  


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瑞光院 〒607-8005 京都市山科区安朱堂ノ後町19-2  075-581-3803
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