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鴨川公園(葵公園)・松竹下加茂撮影所 (京都市左京区) Kamogawa Park |
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鴨川公園(葵公園)・松竹下加茂撮影所 | 鴨川公園(葵公園)・松竹下加茂撮影所 |
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![]() 「葵公園」の碑 ![]() 「京都府立鴨川公園」の碑 ![]() ![]() 尾上松之助像、葵公園内 ![]() 尾上松之助像 ![]() 賀茂大橋から北方向の眺め。左は賀茂川・出町橋、右は高野川・河合橋。 ![]() ![]() 奥が糺の森を流れてきた泉川は、葵公園内で左の鴨川と右の高野川へ分流している。 ![]() 下鴨神社から流れている泉川、葵公園を流れているこの水路は高野川に合流している。 ![]() 糺の森を経て、鴨川に注いでいる泉川の終点 ![]() 高野川に注いでいる泉川の終点 ![]() 千鳥の名所碑、鴨川公園内 ![]() 【参照】松竹下加茂撮影所の場所 |
鴨川公園(かもがわ-こうえん)は、葵公園(あおい-こうえん)とも呼ばれる。京都府の広域公園である鴨川公園の一部になる。 西より鴨川、東より高野川が交流する地点、三角州(デルタ、剣先)の北に位置する。北に下鴨神社・糺の森が広がる。 ◆歴史年表 近代、1939年、三井合名会社の土地1766坪(5838㎡)が京都府に寄付された。 1940年、実業家・大澤徳太郎の寄付金により、公園整備工事が起工される。6月、竣工した。7月、京都府により「葵公園碑」が立てられた。 1941年、鴨川・高野川の合流地域は「葵公園」として指定された。 現代、1951年 鴨川河川敷の一部・葵公園は一つの「府立鴨川公園」になる。 1966年、蜷川虎三の提案により公園内に、映画俳優・尾上松之助の銅像が立てられた。 1968年、葵公園に植栽、ベンチが設置された。 1970年、トイレが設置された。 1993年、トイレが再整備される。 2018年、公園の再整備工事が着工された。 ◆大澤徳太郎 近代の政治家・実業家・大澤徳太郎(おおさわ-とくたろう、1876- 1942)。大沢。京都の生まれ。父・実業家・大澤善助の長男。1888年、家督を継ぐ。1889年、同志社教会で新島襄から受洗した。1892年、同志社を卒業した。1910年、家業の「大沢商会」を継ぎ、機械金属・雑貨輸入業を営む。1919年、株式会社化する。1925年、京都YMCA会長、1929年、第5代京都商工会議所会頭に就任した。1931年、染織祭の主体になる染織講社副会長に就任した。1932年-1942年、京都府多額納税者として貴族院議員に互選され2期在任し、「研究会 (貴族院)」に所属した。66歳。 相互運輸社長、日本レース会長、大洋自動車監査役、京都電灯、髙島屋各取締役、同志社大学理事、百貨店委員会委員なども歴任した。 ◆尾上松之助 近代の役者・映画俳優・尾上松之助(おのえ-まつのすけ、1875-1926)。本名は中村鶴三。岡山県の生まれ。6歳で初舞台を踏む。岡山環翠高等科卒後、呉服屋に奉公し、15歳で兵庫弁天座の浅尾與作一座に加わる。1899年、神戸朝日座の主任になった。1904年、2代目・尾上松之助を襲名した。この頃、牧野省三の千本座に出演する。大阪八千代座の実川延童一座に加わり、1906年、天満座、1909年、千本座の座付俳優、座頭になった。横田商会製作、牧野監督の「碁盤忠信 源氏礎」に初出演した。1910年、第3作「石山軍記」で睨みをきかせ人気を呼ぶ。1912年、横田商会が合併して日活になり、牧野と共に日活関西撮影所へ移る。牧野と対立した。1921年、日活大将軍撮影所所長に就任する。「豪傑児雷也(じらいや)」、1925年、「落花の舞」に出演した。「荒木又右衛門」が大ヒットする。晩年、慈善活動に貢献した。著『尾上松之助自叙伝』。52歳。 日本初の映画スターといわれ、生涯1000本以上の映画に出演し、「目玉の松ちゃん」と親しまれた。大将軍撮影所への葬列沿道では20万人の市民が見送った。1966年、鴨川公園内に胸像が建立されている。 墓所は等持院(北区)にある。 ◆白井信太郎 近代の興行師・白井信太郎(1897-1969、しらい-のぶたろう)。京都府の生まれ。1914年、松次郎の養子になり継嗣になる。1919年、団長として2代・市川猿之助、松居松葉らと欧米の演劇界を視察した。帰国後、松竹キネマ合名社創立に参加する。1920年、松竹蒲田撮影所所長、松竹キネマ合名会社社長、1921年、松竹キネマ専務、大阪支店長、1924年、京都撮影所長を歴任した。1926年、衣笠貞之助と衣笠映画連盟を作る。1928年、松竹興業株式会社取締役、1929年、松竹土地建物興業株式会社専務取締役、松竹京都撮影所所長になる。1931年、新興キネマ株式会社を大谷竹次郎らと設立した。1937年、松竹副社長に就任した。1941年「元禄忠臣蔵」で総監督を務める。1943年-1948年、大船撮影所長になる。1946年、千日土地建物(後の千土地興行、日本ドリーム観光)社長、1947年、公職追放された。1952年、関西歌舞伎俳優協会会長、歌舞伎座取締役、1954年、再任した千土地興行社長を辞職した。1956年、千土地興行会長、1960年、歌舞伎座監査役、1961年-1962、松竹株式会社相談役などを歴任した。71歳。 ◆鴨川公園 鴨川公園(葵公園)は、西の鴨川(賀茂川)と東の高野川の合流する三角州にある。 この地点は、2河川の上流部より流れてきた砂などが堆積し、カスプ状(尖状)三角州を形成している。2川はこの三角州地点で合流し、鴨川になる。 近代、1935年の鴨川大洪水後に進められた河川改修工事後、1939年に、三井合名会社の土地1766坪(5838㎡)が京都府に寄付された。 1940年に実業家・大澤徳太郎の2万円の寄付金を工費に充て、京都府は官有地・府有地(3500余坪、11570㎡)を整備した。旧三井家の里松に加えて植栽され、3月に起工し6月に完成した。 この葵公園は京都府の広域公園鴨川公園の一部になる。葵公園を中心に、上流部の柊野より下流の三条にかけて、鴨川公園として整備・管理されている。 ◆鴨川 鴨川は淀川水系(10水系、232河川)の一級河川(指定区間)になっており、京都府知事が管理者になる。流域面積は2000.7㎡、その7割が山地であり、総延長は23㎞、 一般的に、鴨川の源流部は鴨川支流の祖父谷川の源流、桟敷ヶ岳(北区)東とされる。厳密には鴨川「起点」は、雲ヶ畑中津川町付近(京都市北区)にある。 ◆糺の森 糺の森は12万4千㎡あり、国の史跡に指定されている。古代山背原野にあった原生樹林と同じ植生がいまも残る。 糺の語源として、「直澄」(ただす)、「只州」、河合神社の祭神玉依姫玉から「多々須」とする説などがある。「河合(ただす)の森」ともいわれた。 森では平安時代に、七瀬の霊場として禊祓が行われ、王朝歌人の諷詠の地になった。中世以降は戦場にもなる。勧進猿楽の興行も行われた。近世では夏場に、「糺の納涼(すずみ)」と呼ばれる床が御手洗川に出され、庶民の憩いの場に変わった。 付近の糺河原では、鎌倉時代、1353年、疫病が流行った際に、河原に84000基の石塔が建てられ、平癒祈願された。室町時代には能が催されている。1464年の鞍馬寺勧進能には、足利義政、日野富子も参列した。江戸時代、1645年、干菜山光福寺の八幡宮再建のための勧進相撲が催されている。 ◆映画 葵公園内には、「目玉の松ちゃん」と親しまれた「日本最古の映画スター」、尾上松之助(1875-1926、中村鶴三)の銅像が立つ。1966年に京都府知事・蜷川虎三(1897-1981)の提案により立てられた。「松之助出世長屋」(南区)が市民に払い下げになるにともなうものだった。 鴨川は映画撮影にも使われた。「死に面して」(監督・大久保忠素、1923年、松竹)、現代劇映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」(監督・山田洋次、第29作、1982年、松竹)では、三角州で寅(渥美清)が露天を開く場面がある。鴨川畔で陶芸家の老人(13世・片岡仁左衛門)に出会う。葵祭も紹介されている。 現代劇映画「パッチギ!」(監督・井筒和幸、2004年、シネカノンなど)では、1968年の京都が舞台になった。クライマックスの府高と朝高生徒による乱闘場面では、三角州付近が舞台になった。 現代劇映画「二人日和」(監督・野村惠一、2004年、野村企画)では、神祇装束司・黒田玄(栗塚旭)と難病で車椅子に乗る妻・千恵(藤村志保)が鴨川を散策する。 ◆下加茂撮影所 近代、1923年9月の関東大震災により、松竹の東京蒲田撮影所は被災する。このため9月急遽、撮影所は下鴨の松竹キネマ社長・白井信太郎(1897-196)の別荘に移転した。 現在地、葵公園の北東にある下鴨小学校(左京区下鴨宮崎町)の4辻南、下鴨西通を挟んだ東西にあった。敷地西側は鴨川に面しており、竹薮を伐り開いて設立されたという。 1924年7月に撮影所が竣工した。「松竹下加茂撮影所(松竹京都撮影所)」と呼ばれ、監督、俳優も次々に入洛した。食堂、旅館も2-3軒建てられる。撮影も開始され「大地は怒る」など震災映画3本が完成した。 1925年、一時閉鎖になる。1926年、「松竹京都撮影所」に改称した。1932年、トーキースタジオが完成し、「東洋一」と謳われた。 撮影所では、阪東妻三郎(1901-1953)、衣笠貞之助(1896-1982)らが製作し、田中絹代(1909-1977)、林長二郎(1908-1984、後の長谷川一夫)、高田浩吉(1911-1998)、市川右太衛門(1907-1999))らが活躍した。鴨川、糺の森でも頻繁に撮影が行われていた。1937年に人気を博していた林長二郎が下加茂から去り、日中戦争も始まり衰微する。 戦後、1950年7月に撮影所はフィルム倉庫が火災になる。助監督は焼死し、民家も類焼した。創設時以来のネガフィルムもすべて消失している。 その後、1952年に京都映画株式会社に譲渡され、映画の撮影拠点は太秦に移る。以後、下鴨ではテレビの時代劇などの作品が撮影された。1974年に、京都映画も太秦へ移転した。 ◆鴨川千鳥 鴨川公園内に、「千鳥の名所碑」がある。「その昔、ここら千鳥の名所かな」藤本武治(鴨川を美しくする会初代会長)と刻まれている。 かつて、付近には鴨川千鳥(イカルチドリ)が群舞していたという。 *参考文献・資料 葵公園碑碑文、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「鴨川公園(葵地区)の整備計画について建設交通部都市計画課」、『賀茂文化 第5号』、『シネマの京都をたどる』、『京都シネマップ 映画ロマン紀行』、『京都絵になる風景』、『京都の映画80年の歩み』 、『親と子の下鴨風土記』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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