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小野寺丹の墓・了覚院跡 〔本圀寺〕 (京都市下京区) Grave of Onodera,Tan |
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小野寺丹の墓・了覚院跡 | 小野寺丹の墓・了覚院跡 |
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![]() 丹の墓 ![]() 「赤穂義士 小野寺十内妻烈婦丹女之墓」の石標 ![]() 娘・いよの墓、丹の墓はこの祠の左にある。 る |
了覚院(りょうかく-いん)は本圀寺塔頭だった。その後、廃寺となる。本圀寺塔頭・久成院の北隣の墓には赤穂四十七士の一人、小野寺十内の妻・丹が眠る。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 江戸時代、1703年、小野寺丹は娘・早世(いよ)の墓前で切腹、その後、早世の墓の隣に葬られる。 その後、廃寺になった。 ◆小野寺丹 江戸時代前期の歌人・小野寺丹(おのでら-たん、?-1703)。女性。丹女。播磨(兵庫県)の生まれ。父・洛西灰方村灰方の佐五英エ門、浅野家家臣・灰方藤兵衛の妹。赤穂藩京屋敷留守居役・小野寺十内(じゅうない)と結婚した。屋敷は綾小路通高倉西入南側にあった。1701年旧3年14日、江戸城、松之廊下で播州赤穂藩藩主・浅野長矩は、吉良義央への遺恨により吉良を切りつけ同日切腹になる。その後、夫・十内は赤穂、京都、江戸と行き来する。屋敷没収になり、仏光寺通東洞院に移る。ここで数度の謀議が開かれた。1702年、義母、実母を相次いで亡くす。旧9月以降、江戸の夫と手紙でやり取りした。1703年旧12月14日、赤穂浪士の吉良邸への討入成功後、丹は江戸・細川邸に大石内蔵助とともに預けられた夫との間で、手紙、和歌をやり取りした。丹は「筆のあと見るになみだのしぐれ来ていひ交すべき言の葉もなし」と和歌を送り、夫が返信している。旧2月4日、幕命により夫・十内、養子・幸右衛門は45人の浪士とともに切腹した。丹は2人の碑を西方寺(左京区)に建立した。帰依していた本圀寺塔頭・了覚院に参拝し菩提を弔う。夫が葬られた江戸・泉岳寺に参拝した。旧6月18日、丹は夫、子の跡を追い本圀寺で食を断ち亡くなる。また、了覚院の娘の墓前で切腹したともいう。辞世「夫(つま)や子の待つらんものを急がまし何かこの世に思ひ置くべき」「うつつとも思はぬ内に夢さめて妙なる法の華にのるらむ」。 歌人・金勝慶安に夫ともに師事し、師は丹の歌を「紫式部の再来」と評した。丹の墓は旧了覚院跡地にある。「梅心院妙薫日性信女」と刻まれている。 ◆花暦 椿、枝垂桜がある。 ◆墓 久成院の北の路地奥(塔頭・了覚院跡)に、丹と病死した娘・早世(いよ)の墓が立つ。参堂はかつて「歌の道」の呼ばれた。かつて丹の命日、討入日に記念行事が行われていた。墓は、了覚院と合併した本圀寺塔頭・林昌院(猪熊通五条下ル)が管理している。 *非公開 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京に燃えた女』、『おんなの史跡を歩く』、『京に燃えたおんな』、『京都隠れた史跡100選』、『京都歴史案内』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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