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実相寺 (京都市南区) Jisso-ji Temple |
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実相寺 | 実相寺 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂、木鼻 ![]() 玄関 ![]() 鐘楼 ![]() ![]() 安土・桃山時代、1597年銘の五輪型卒塔婆、雨乞い祈願成就の伝承を記すものという。 ![]() 逍遊軒(松永)貞徳の墓 ![]() 三宅嘯山先生之碣、三宅嘯山([1718-1801)は江戸中期の俳人・儒学者。京都に生まれた。別号、葎亭(りってい)など。炭太祇・与謝蕪村らと交わる。脇面に「名月や水の○○瓦茸」、○は読めず。 ![]() 一嚢軒貞如の墓 |
上鳥羽の実相寺(じっそう-じ、實相寺)は、平安京の推定されている鳥羽作道(現在の千本通)の沿道に建つ。 山号は正覚山と号する。江戸時代の貞門俳譜の祖・松永貞徳ゆかりの寺として知られていた。 日蓮宗、本尊は十界大曼陀羅。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 南北朝時代、1352年/文和年間(1352-1356)、日像弟子・妙実により創建されたという。日照りの夏に、勅命により桂川の鍋ケ淵で、僧100人による請雨祈祷を行い大いに効験があった。その因縁により創建されたともいう。当初は真言宗だったという。(寺伝)。 室町時代、1407年、将軍・足利義教は、臨時課税の地口銭を修復に充てる。(「斯波義教奉書」、東寺百合文書) 中世末(室町時代)-近世初頭、日蓮宗不受不施派の中心寺院・妙覚寺の筆頭末寺、隠居寺になる。 安土・桃山時代、1596年、豊臣秀吉の千僧供養に端を発した日蓮教団分裂が起こる。妙覚寺・日奥の不受不施派に連座し弾圧を受ける。その後、50年にわたり影響を及ぼし寺勢は回復しなかった。 江戸時代、1633年、幕府に提出された書上帳『上京妙覚寺諸末寺覚』に、当寺は「違背」と記されている。本寺・妙覚寺が受不施に転じた際にも転じなかった。 1654年、貞門俳譜の祖・松永貞徳が没し当寺に葬られる。江戸時代には、貞徳ゆかりの寺として知られていた。貞徳の兄・日陽が当寺の住持だったことによる。 1696年、現在の鐘楼が建立される。 1711年、朝鮮人来聘使(朝鮮通信使)は大坂より船で淀川を遡り、淀、伏見城、鳥羽道、上鳥羽に入る。随員の申維翰は実相寺に宿泊する。(「海遊録」) 1716年、本堂が修復される。この頃、朝鮮人来聘使(朝鮮通信使)の休息所として使われていた。(『京都御役所向大概覚書』同年条) 1747年、朝鮮通信使来朝につき当寺に迎える。 1780年、『都名所図会』に境内の様が描かれている。 1785年、松永貞徳の旧宅という芦の丸屋の普請願いが出される。 1841年、稲荷社奉願口上書が出される。 1851年、本堂、客殿、玄関の普請御願が出される。 近代、1875年、寺中の塔頭一寺が水害により消失した。 1885年、鐘楼堂転地、営繕願が出される。 1900年、本堂増築趣旨書が出される。 1931年、客殿再建、本堂に絵天井が描かれる。 1934年、芦の丸屋は室戸台風で倒壊した。 1937年、芦の丸屋が再建される。 現代、1961年、庫裡が再建される。芦の丸屋が第二室戸台風により半壊する。 1988年、芦の丸屋が全倒壊する。 1999年より2001年、本堂、客殿の修復工事、庫裡増改築が行われる。 2005年、薬医門が再建される。 2006年、鐘撞堂が再建される。客殿を修復する。 ◆大覚 鎌倉時代後期-南北朝時代の僧・大覚(だいがく、1297-1364)。男性。法名は妙実。父・近衛摂政経忠公ともいう。当初は嵯峨・大覚寺に住したという。妙顕寺の日像に師事し同寺をつぐ。中国地方に布教、備前法華を広める。1358年、雨乞いの効験により第97代・南朝第2代の後村上天皇より三菩薩号と大僧正、北朝第4代・後光厳院より大僧正に任じられたという。また、日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が与えられる。68歳。 ◆日陽 安土・桃山時代-江戸時代前期の僧・日陽(1568-1610)。男性。僧名は教行院日陽。山城国(京都府)の生まれ。父・松永永種、母・宇野宗清の娘。弟は俳人・松永貞徳。妙覚寺の日奥に師事する。実相寺の住職となる。1598年頃、下総国の談林寺に下る。1610年、師・日奥が対馬に流されると島に渡り、現地で亡くなる。日蓮宗不受不施派。42歳。 ◆日奥 安土・桃山時代-江戸時代前期の日蓮宗の僧・日奥(にちおう、1565-1630)。男性。字は教英、号を安国院、仏性院。父・京都の豪商・辻藤兵衛。妙覚寺の20世・日典に師事、1592年、妙覚寺21世。日蓮宗不受不施派の祖。1596年、豊臣秀吉の方広寺大仏殿千僧供養会への出仕を拒否、強義折伏主義、不受不施を主張した。寺を去り丹波小泉に隠せいした。本圀寺の日禛のみは日奥を支持した。1599年、徳川家康は大坂城で日乾らと対論させ、日奥は再び不受不施を貫く。千僧会もひとり拒否し対馬流罪になる。1612年、赦免され、1616年、妙覚寺に戻る。家康はその信念に感銘を受けていたといわれ、1623年、京都所司代は不受不施について折紙を出した。66歳。 没後、1630年、身延久遠寺との宗門内部対立により、日樹、日奥は「再犯」となり不受不施派は禁制になる。日奥の遺骨は対馬流罪(死後の流罪)にされた。『宗義制法論』など著す。 ◆松永 貞徳 室町時代後期-江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者・松永 貞徳(まつなが-ていとく、1571-1654)。男性。幼名は小熊、名は勝熊、別号は逍遊、長頭丸、明心、延陀丸、延陀王丸、逍遊軒、五条の翁、花咲の翁など多い。京都の生まれ。父・連歌師・松永永種、母・藤原惺窩の姉。幼くして里村紹巴(じょうは)より連歌、九条稙通(たねみち)・細川幽斎より和歌、歌学を学ぶ。20歳頃、豊臣秀吉の佑筆(ゆうひつ、代筆)になる。1597年、朝廷より花咲翁の称を賜る。俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を得た。 1603年、林羅山、遠藤宗務らと古典公開講座に参加し『徒然草』を講じた。慶長・元和年間(1615-1624)、俳諧で知られる。慶長年間(1596-1615)末、三条衣棚の自宅に私塾を開き、庶民の子弟に教えた。私塾からは木下順庵、伊藤仁斎、林春斎、林守勝、貞室、西武(さいむ)らが輩出した。寛永年間(1624-1644)中頃、俳諧史上初の貞門を形成した。晩年、花咲亭(花咲の宿、下京区間之町通松原上ル西側稲荷町)に隠居した。俳書『新増犬筑波集』 、歌集『逍遊愚抄』 、歌学書『九六古新注』 など多数。83歳。 貞門派の始祖であり、近世初期地下(じげ)歌人歌学者の第一人者になる。俳諧(滑稽、笑い)を重視し、それまで和歌では使われなかった俳言(はいごん、俗語、日常語、漢語)を使うことを主唱した。連歌、狂歌、古典注釈などでも活躍する。藤原惺窩、林羅山、木下長嘯子(ちょうしょうし)らと親交した。門人に、七俳仙の松江重頼、野々口立圃、安原貞室、山本西武(さいむ)、鶏冠井(かえでい)令徳、高瀬梅盛、北村季吟らがいる。 ◆本尊・木像 本堂安置の「点頭(てんとう)宗祖日蓮尊像(木像)」は、南北朝時代、1352年、勅願による祈雨祈願の際に、妙実により造られた坐像になる。像に妙実がお伺を立てると三度点頭(頷くこと)したことから呼ばれている。「うなずきの像」ともいう。 本堂に本尊「十界絵曼荼羅」が安置されている。 ◆祈雨 寺は、洛南での祈雨伝説と関わる。南北朝時代、1352年、祈雨祈願の際に、妙実は日蓮坐像を作る。お伺を立てると三度点頭(頷くこと)したという。本堂にある「日蓮うなずきの像」はこの慈雨の逸話を伝えたものという。 ◆車石 境内には、車石が保存されている。平安時代、平安京造営に際して、鳥羽の作り道が、羅城門まで続いていた。草津湊(桂川)、淀津(桂川と宇治川合流点)より陸揚げされた荷は下鳥羽より陸送されていた。 江戸時代、1710年以前に鳥羽街道にはすでに車道があり、牛車による陸送があった。いつの頃からか、車道には車石が二列に並べられ、牛車はこの石上を移動していた。 ◆建築 貞徳の弟子に妙法院堯然法親王(1602- 1661)があり、庭園の「柿園」と邸宅「芦(蘆)の丸屋(あしのまろや)」「法思蔵」を贈ったという。元は大仏殿南にあったという。この貞徳の旧宅は後に、一部を貞徳の菩提寺、実相寺に移築したという。法思蔵の廊下「吟歌廊」には六歌仙が飾られ、「芦(蘆)の丸屋」では和歌、連歌会に用いられたという。 ただ、江戸時代、ある尼僧により建てられたともされ、その後も改築されたという。現在の本堂左に建ち、俳人などが住んだ。貞徳が隠棲したともいわれたがその事実はないという。茶室風の芦葺、入母家造だった。 また、会所として使われた大きな建物の別の「芦の丸屋」があった。その材木も用いて本寺の復興が行われた。現在の本堂の根太(ねだ、床の下地)にはね隅切をした五寸柱が使われている。江戸時代に改築された尉禅の遺構とみられている。 1934年、「貞徳の芦丸屋」として三畳と四畳半の茶室と露地があったという。俳人・樗庵太田米華が住していたという。(『茶道』第77号)。1934年芦の丸屋は室戸台風で倒壊する。1937年に再建された。だが、1961年の第二室戸台風により半壊、その後、1988年に全倒壊した。その後、再建されていない。 鐘楼は、江戸時代、1696年に建立された。 ◆文化財 ◈「實相寺古文書」としては、伽藍建築に関するもの、上鳥羽の郷土資料、そのほか(日蓮宗、朝鮮通信使関連など)資料がある。 ◈日助書状(軸物)、日隆、日延本尊など日蓮宗関連資料。 ◈宮川正由筆「松永貞徳画像」、松永貞徳木像、松永貞徳書簡一通、松永貞徳「妙法蓮華経」(七巻本)二本、松永貞徳筆「白氏楽府」一巻、「芦丸屋古設計図」二枚、「松永貞徳和歌短冊」二枚、松永貞徳著『俳譜御傘』五冊、「広沢長好詠草切」、「柿園、歌仙、吟花廊の三額の模写」、日野資枝の和歌一軸(「鏡の井」)。 ◈板碑、「慶長二年(1597)一結講衆逆修」、逆修は生前に逆(あらかじ)め自らの死後の冥福を祈って仏事を営むこと。 ◆朝鮮通信使 ◈「朝鮮通信使(ちょうせん-つうしんし)」は、李氏朝鮮の国王が、日本国王に国書を手交するために派遣した祝賀使節をいう。朝鮮来聘使、朝鮮信使、朝鮮通信使(江戸時代前期、1636年以降)とも呼ばれた。 室町時代前期、1404年に足利義満が日本国王として外交関係を開き、江戸時代には江戸時代前期、1607年から江戸時代後期、1811年までに徳川将軍の代替わり・慶事などに12回派遣された。通信使一行はプサン(釜山)から対馬、大坂、京都を経て、東海道から江戸へ向かった。江戸城では、国書・進物が献上され、将軍からは返書などが返された。正使のほか300-500人が来日し、幕府は厚遇し費用は毎回50-100万両に達した。往復で半年にも及ぶ行程になった。 通信使により、鎖国下の日本に朱子学、中国・朝鮮の文化がもたらされた。 ◈朝鮮通信使は、淀に上陸後、鳥羽街道を北上した。途中、実相寺が休憩場所になっており、正使・副使・従事官の三使以下、衣冠を改めて入洛に備えた。 江戸時代の付近は、近郊農村地帯であり、水田・木綿・野菜の栽培も行われていた。通信使は、管理された土地利用に着目した。淀川での水車技術を持ち帰り、朝鮮の農場に取り入れたといわれている。 ◆墓 逍遊軒(松永)貞徳、貞徳の子・松永昌三(分骨)、一嚢軒貞如、力堂貞眠、春澄軒貞悟、俳人・三宅嘯山先生之碣(1718-1801)。 ◆年間行事 春季彼岸会法要・諷誦(3月 春彼岸中日)、祠堂施餓鬼会(3月春彼岸結願)、孟蘭盆施餓鬼会(8月16日)、秋季彼岸会法要・諷誦(9月秋彼岸中日)、御会式(11月10日)、歳末報恩会・除夜の鐘(0:00 までに受け付けを済ませる。23:30頃より撞くことができる。)(12月31日)。 信行会(毎月第2土曜日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都の寺社505を歩く 下』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京の鴨川と橋 その歴史と生活』、ウェブサイト「実相寺」、『車石-江戸時代の街道整備』、『事典 日本の名僧』、『京都大事典』、『京都隠れた史跡100選』、ウェブサイト「文化史17 朝鮮通信使 -京都市」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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