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孝明天皇 後月輪東山陵 (京都市東山区) Imperial mausoleum of Emperor Komei |
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孝明天皇 後月輪東山陵 | 孝明天皇 後月輪東山陵 |
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![]() ![]() 「孝明天皇後月輪東山陵 英照皇太后後月輪東北陵 後堀河天皇観音寺陵」の石標 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 拝所 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 手水舎 ![]() |
泉涌寺境内の南東に後月輪東山陵(のちの-つきのわ-の-ひがし-の-みささぎ)がある。江戸時代の第121代・孝明天皇(こうめい-てんのう) を葬る。 ◆歴史年表 江戸時代、1867年、旧12月25日(新1月30日)、孝明天皇は亡くなる。旧12月27日夜、泉涌寺で葬儀が行われた。旧12月28日未明、埋葬される。旧来の荼毘の廃止とともに、山陵が築造されて葬られた。 1879年、旧3月、正式な陵名は後月輪東山陵とされた。 ◆孝明天皇 江戸時代後期の第121代・孝明天皇(こうめい-てんのう、1831-1867) 。男性。統仁(おさひと)。京都の生まれ。父・第120代・仁孝天皇、母・新待賢門院藤原(正親町)雅子(なおこ)の第4皇子。1840年、立太子、1846年、幕府に海防要請の勅旨を出した。1847年、即位する。父の遺志により公家の学問所(学習院)を創設する。石清水臨時祭で勅旨を遣わし外国勢力打ち払いを行う。1850年、伏見稲荷大社など七社七寺に国家安泰などを祈祷させた。1853年、ペリー来航以後、七社七寺に国家安泰などを外患祈祷させた。1854年、日米和親条約(神奈川条約)は許した。内裏が焼失する。平安神宮などに外患祈祷させた。1855年、御所の安政度の造営を幕府に通達する。1858年、日米修好通商条約で、老中・堀田正睦の条約調印の勅許は拒否した。幕府が独断で調印し、一時、天皇は譲位を表明する。条約調印を了承した。(条約勅許問題)。1860年、桜田門外の変後、将軍・徳川家茂と皇妹・和宮の婚姻を承認し、公武合体の立場をとった。幕府に10年内に鎖国に復することを条件にした。1861年、長井雅楽の政治外交思想「航海遠略策」を受理する。1862年、薩長土3藩主の要請に基づき、三条実美らを勅使として派遣し、幕府に攘夷を督促する。1863年、「攘夷断行」を幕府から上奏させる。長州藩の建議を受け、旧3月、上京した家茂を謁見する。家茂を従え237年ぶりに上賀茂神社・下鴨神社両社に行幸する。4月、攘夷祈願の石清水八幡宮への行幸を行う。8月、攘夷親政祈願の大和行幸を宣布する。旧八月十八日の政変で、攘夷派公卿の三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。(七卿の都落ち)。その後、宣布は撤回している。1864年、家茂に公武一和の協力を命じた。禁門の変の直後、長州追討を命じる。1865年、幕府の要請を受け長州再征を許可した。慶喜の強要を容れ条約を許可した。1866年、第二次長州征伐中に将軍・家茂が死去し、天皇は征長の停止を幕府に指示した。第15代将軍・慶喜の就任直後に疱瘡(ほうそう)で京都で没した。毒殺説も噂される。36歳。 攘夷佐幕を主張した。公武合体策による攘夷、日米条約の破棄を意図した。岩倉具視ら公卿の王政復古倒幕論には批判的だった。歌を詠み、御集に『此花詠集』がある。 陵墓は後月輪東山陵(東山区)になる。 ◆戸田 忠至 江戸時代後期の武士・大名・戸田 忠至(とだ-ただゆき、1809-1883)。男性。宇都宮(栃木県)藩主・戸田氏の生まれ。1842年、家老・間瀬家を継ぐ。1862年、藩士らが坂下門外での安藤信正襲撃事件に関連して逮捕される。同年、忠至は天皇陵修補の建白書を幕府に提出した。藩に影響が及ぶことの回避策だったともいう。藩主・戸田忠恕(ただゆき、1868-1847)の名代として山陵御締向御普請御用に命じらる。県信緝(あがた-のぶつぐ、1824-1881)と、畿内の山陵調査、修陵を行った。1863年、修陵工事は終了する。1864年、大名格を許される。1866年、立藩、若年寄、その後、権弁事、内弁事、宮内大丞などを歴任した。1866年、下野高徳藩主・戸田家初代になる。新政府にも参与した。 1867年、孝明天皇の没後、忠至が山陵の造営を指揮したことから、その歯髪塚が後月輪東山陵の傍らに埋めることが許された。塚には1892年に「戸田忠至碑」が立てられている。75歳。 ◆陵墓 陵墓は、月輪山山腹にある。円丘(径45m)であり南面している。頂には巨石が置かれている。拝所には、木柵、門がある。 江戸時代後期、1867年、孝明天皇は亡くなる。山陵御締向御普請御用・戸田忠至は、旧来の仏教式の火葬での荼毘廃止、九重塔ではなく古式の山陵形式(高塚式)の築造を建言した。1867年旧1月3日に採用された。幕末期の尊王論の高まりが背景にあった。泉涌寺の後山山腹に陵所は決定する。忠至が山陵の造営を行い、旧10月29日に工事は終わる。1879年旧3月、正式な陵名は後月輪東山陵とされた。 山上に棺を納め、周囲の山を削り円陵を造営している。現在の高塚式の陵(後月輪東山陵)が築造され、孝明天皇が葬られた。また、月輪陵の集団墓にも天皇の石塔が立てられている。 後月輪東山陵に隣接しており、兆域は同じになる。英照皇太后後月輪東北陵がある。近くに後堀河天皇観音寺陵もある。 ◆修陵事業 江戸時代前期、1697年、5代将軍・徳川綱吉の時、老中はすべての天皇陵の調査をすることを指示し、実際に役人が調査している。 江戸時代後期、嘉永・安政年間(1846-1860)、京都、奈良で「山陵会」と呼ばれる陵墓考証をする学者の集まりがあった。国学者・谷森善臣(もりたに-よしおみ、1818-1911)を中心にして、津幡下役人・北浦定政、青蓮院家来・進藤千尋、儒者・平塚瓢斎、京都町奉行組与力・砂川政教、町人・高島勘兵衛らが集った。 文久の修陵で、山陵会は考証方として加わる。調査・修陵は、京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬の業務監督下で行われた。江戸時代後期、1865年までに、大和、和泉、河内、山城、丹波などの歴代天皇陵120基余りで実施されている。 近代以降、1871年までは、神祇官内の諸陵寮が調査・修陵を担った。その後、1872年以降は教部省に移行し、谷森説が排除される形で、考証意見書「勘註(かんちゅう)」を作成した。1877年以降は、内務省、宮内省が中心になる。谷森の弟子らが加わり谷森説が復活する。 120 仁考天皇(在位:1817-1846) →121 孝明天皇(在位:1846-1866) →122 明治天皇 (在位:1867-1912) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『古代史研究の最前線 天皇陵』、『歴史検証 天皇陵』、『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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