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京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店) (京都市中京区) Annex of the Museum of Kyoto |
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京都文化博物館別館 | 京都文化博物館別館 |
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![]() 南東角 ![]() 南側 ![]() ![]() 南側 ![]() ![]() 南側 ![]() 南側 ![]() ![]() ![]() ![]() 南側 ![]() ![]() ![]() 東側、白い帯石 ![]() 南東角、塔 ![]() 東側 ![]() 南側 ![]() ![]() |
三条通高倉西入ル北側に、赤煉瓦造の京都文化博物館別館(きょうと-ぶんか-はくぶつかん-べっかん)が建つ。 前身は旧日本銀行京都支店(きゅう-にっぽんぎんこう-きょうとしてん)であり、近代の建築家・辰野金吾、その弟子・長野宇平治が設計した。 ◆歴史年表 近代、1894年、4月、日本銀行京都出張所は東洞院通御池上ルに開設された。 1903年、9月、現在の建物が現在地(三条通高倉西入ル)で着工する。 1906年、6月、竣工した。7月、日本銀行京都出張所が移転した。 1911年、 6月、京都出張所から「京都支店」に名称変更している。 現代、1965年、10月、日本銀行京都支店は河原町通二条に移転した。 1967年、4月、旧建物を「財団法人古代學協會」が所有する。 1968年、5月11日、「平安博物館」として開館した。(「京都新聞」) 1969年、3月、建物は国の重要文化財に指定された。 1986年、 4月、 京都府に寄贈され、修理・復元される。 1988年、10月、「文化博物館博物館別館」として一般公開された。 1997年、三条通周辺は京都市の「界わい景観整備地区」に指定された。 2005年、5月、補修工事が実施される。 ◆辰野 金吾 江戸時代後期-近代の建築家・教育者・辰野 金吾(たつの-きんご、1854-1919) 。男性。旧姓は松倉。唐津(佐賀県)生まれ。唐津藩藩士・姫松倉右衛門の次男。1868年、辰野宗安の養嗣子になる。1873年、工部省工学寮に入学した。イギリス人・建築技師・ジョサイア・コンドル(Josiah Conder,1852-1920)の指導を受ける。1879年、工部大学校(工学寮)造家学科の第1回卒業生として卒業した。1880年、留学のためロンドンのコンドルの師・バージェス(William Burges,1827-1881)建築事務所などで建築を研修した。フランス、イタリアも回る。1883年、帰国し工部省に入る。設計の処女作になった銀行集会所(1885)の設計を行う。1884年、コンドルの後任として、工部大学校教授に就任し、日本建築講座を担当する。1886年、辰野建築事務所を設立した。造家学会(現在の日本建築学会)創立に参加した。1887年、日本銀行の設計者に決定し渡欧する。1888年、帰国した。1898年、建築学会会長、工科大学長に就任する。1902年、工科大学を退官した。1903年、教え子の葛西萬司と東京・辰野葛西事務所を開設した。1905年、片岡安と大阪・辰野片岡事務所を開設する。議院建築調査会委員を歴任する。工学博士。66歳。 「日本近代建築の父」といわれた。日本人で洋風建築技術を最初に学ぶ。創成期の日本近代建築を主導した。門弟に伊東忠太、関野貞、大熊喜邦らがいる。主な作品は、工科大学本館(1888) 、日本銀行本店(1896) 、両国国技館(1909)、東京中央停車場(東京駅、1914) などがある。 ◆長野 宇平治 江戸時代後期-近代の建築家・長野 宇平治 (ながの-うへいじ、1867-1937) 。男性。越後国(新潟県)生まれ。1893年、帝大工科大学(現在の東京大学)造家学科卒、横浜税関嘱託を経て、1894年、奈良県嘱託になる。1895年、奈良県庁舎を設計した。1900年、日本銀行技師長になり、名古屋、京都、函館支店などの設計を担当した。1907年、靖国神社記念門案(1940)を設計する。1909年、台湾総督府庁舎計画案(1942)を設計した。1913年、長野建築事務所を設立した。1927年、ジュネーブの国際連盟本部の競技設計募集に日本で一人応募する。1931年、日本建築士会初代会長に就き、建築士法成立に尽力した。1932年、大倉精神文化研究所本館(現在の横浜市大倉山記念館)を設計した。 和風意匠を初めて試みた。多くの銀行建築を手掛けた。 ◆建築 日本銀行京都支店の建物は近代、1906年に竣工した。設計は辰野金吾と弟子・長野宇平治による。1965年まで日本銀行京都支店として使用された。保存状態がよく、明治期(1868-1912)中期の京都での代表的な洋風建築になっている。1969年に国の重要文化財に指定された。 ◈別館の営業棟は、三条通に南面して建つ。日本銀行大阪支店に次ぐ規模がある。外観は左右対称で、2階窓下の赤煉瓦に白い花崗岩(京都府亀岡市の小金岐産、岡山県笠岡市の北木島産)の石材を帯状に混用している。2階窓部、壁と屋根の接する部分にも同様の装飾がある。この白線が帯石・隅石として配され、壁面に装飾的な変化をつける。さらに、屋根は高屋根・小塔などで飾る。初期の辰野式(フリー・クラシック)と呼ばれ、19世紀後半、、辰野のイギリスの留学時代に流行った。クイーン・アン・リバイバル様式を取り入れている。細部は古典主義、骨格はゴシックの要素も加味されている。辰野は、この手法で百数十件を建て、日本では辰野式と呼ばれた。 屋根は、鉄板・スレートで複雑な意匠になっている。屋根上には通気塔、意匠の異なる採光窓(ドーマー窓)を設けている。両翼には尖塔形の塔を立てる。南正面中央に入口があり、重い鉄戸が設けられている。入口上部に半円形の破風があり装飾が施されている。 内部には、旧営業室中央部に抜き抜けの空間があり、天井・柱・手摺などは茶色、壁面は白色に配色されている。カウンターのスクリーン・壁面、客溜り・営繕室天井に装飾が施されている。玄関内部にはガラス扉あり装飾がある。客溜りなどのカウンター下、階段室にも大理石(岐阜県大垣市の赤坂産)が使用されている。床はリノリウム貼り(当初はドイツ製、後に東洋リノリウム社製)になった。東洋リノリウム社(現在の東リ)の創業者・寺西福吉(1870-?)によって提供され、一枚の面積は恐らく日本一という。戦時中には、照明器具などが金属供出により失われ、その後復元されている。かつて、営業室(現在はホール)、文書課室(店舗)、所長室(ギャラリー)、高等応接室(ギャラリー)などがあった。中庭(休憩スペース)が設けられていた。 煉瓦造(大阪窯業社製)、2階建、一部地下1階、両翼塔屋付、袖塀附属。天然スレート(粘板岩、宮城県登米市の登米産)葺、銅板葺。別館本体の建築面積884.4㎡)。 ◈営業棟の背後には別棟の金庫棟があり、渡廊下により繋がる。屋根に通気口が付く。現在は喫茶店、倉庫として使用されている。 煉瓦造、1階建、桟瓦葺。181.0㎡。 ◆界わい景観整備地区 三条通(三条大橋)は、江戸時代には東海道の西の起点であり、幹線として賑わった。交通、物流の要所であり、旅籠、問屋、両替商などが建ち並んでいた。 近代に入っても変わりはなく、三条通りは京都の中心街になる。東京と直結し、都心的機能が強化されていった。ランドマークとしての旧日本銀行京都支店のほか、旧京都中央郵便局、繊維関係の大商社、保険会社、集書院(図書館)、商店などが建ち並んだ。一帯は、近代洋風建築とともに伝統的な商家も集まっていた。1912年に四条通、烏丸通が拡幅され、次第に賑わいは失われた。ただ、これらの建物もかろうじて残された。 現在、三条通の新町通-寺町通の一帯は1997年に京都市の「界わい景観整備地区」に指定されている。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「京都文化博物館」、ウェブサイト「文化庁 文化財データベース」、『京都大事典』、『京都の洋館』、『京都のモダニズム建築』、ウェブサイト「第一勧業銀行・東京三菱銀行京都支店 - 日本建築学会」、ウェブサイト「京都市-三条通界わい景観整備地区界わい景観整備計画」、『京都の歴史10 年表・事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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