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旧第一勧業銀行京都支店(みずほ銀行京都中央支店)・三条南殿跡 (京都市中京区) Former Dai-Ichi Kangyo Bank Kyoto Branch |
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旧第一勧業銀行京都支店 | 旧第一勧業銀行京都支店 |
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![]() ![]() 東側、正面 ![]() ![]() 東側、正面 ![]() ![]() ![]() 東側 ![]() ![]() ![]() 東側 ![]() 東側 ![]() 東側、ドーマー窓 ![]() 東側 ![]() ![]() 東側 ![]() ![]() 西側 ![]() 西側、小塔 ![]() ![]() 西側 ![]() ![]() ![]() 東側、「三條南殿の遺址」の銘鈑 |
烏丸通三条南西角に、赤煉瓦造の旧第一勧業銀行京都支店(きゅう-だいいち-かんぎょう-ぎんこう-きょうとしてん)が再建されている。 現在はみずほ銀行京都中央支店に名を変えた。設計は近代の辰野葛西建築事務所による。 なお、付近の三条通には、近代の歴史的建造物がまだ複数残されている。 ◆歴史年表 近代、1904年、3月、「第一勧業銀行京都支店」の建物は起工した。 1906年、5月、支店は竣工する。 1919年、南側、西側が増築される。 現代、1997年、三条通周辺は京都市の「界わい景観整備地区」に指定される。同支店は最も重要な景観構成要素の一つになる。 1999年、支店は取り壊される。 2003年、旧支店がレプリカ再建された。 2005年、2月、店舗名は「みずほ銀行京都中央支店」に変更になった。 ◆辰野金吾 江戸時代後期-近代の建築家・教育者・辰野金吾(たつの-きんご、1854-1919) 。男性。旧姓は松倉。唐津(佐賀県)の生まれ。父・唐津藩藩士・姫松倉右衛門の次男。1868年、辰野宗安の養嗣子になる。1873年、工部省工学寮に入学した。イギリス人・建築技師・ジョサイア・コンドル(Josiah Conder,1852-1920)の指導を受ける。1879年、工部大学校(工学寮)造家学科の第1回卒業生として卒業した。1880年、留学のため、ロンドンのコンドルの師・バージェス(William Burges,1827-1881)建築事務所などで建築を研修した。フランス、イタリアにも行く。1883年、帰国し工部省に入る。設計の処女作になった銀行集会所(1885)の設計を行う。1884年、コンドルの後任として、工部大学校教授に就任し、日本建築講座を担当する。1886年、「辰野建築事務所」を設立した。造家学会(現・日本建築学会)創立に参加した。1887年、日本銀行の設計者に決定し渡欧する。1888年、帰国する。1898年、建築学会会長、工科大学長に就任する。1902年、工科大学を退官した。1903年、教え子・葛西萬司と東京・「辰野葛西事務所」を開設した。1905年、片岡安と大阪・「辰野片岡事務所」を開設する。議院建築調査会委員を歴任する。工学博士。66歳。 「日本近代建築の父」といわれた。日本人で洋風建築技術を最初に学ぶ。創成期の日本近代建築を主導した。門弟に伊東忠太、関野貞、大熊喜邦らがいる。主な作品は、工科大学本館(1888) 、日本銀行本店(1896) 、両国国技館(1909)、東京中央停車場(東京駅、1914) などがある。 ◆葛西萬司 江戸時代後期-近代の建築家・葛西萬司(かさい-まんじ、1863-1942)。 男性。盛岡(宮城県)の生まれ。南部藩家老・鴨澤舍の次男、後に南部藩士葛西重雄の養子になる。1890年、 東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、日本銀行技師になる。1903年、 辰野金吾と東京・「辰野葛西設計事務所」を開設する。1915年、 工学博士になった。1919年、 辰野金吾の没後、葛西設計事務所を経営する。1927年、 田中實と「葛西田中建築事務所」を開く。1937年、単独経営になり「葛西建築事務所」に改称する。工手学校(現・工学院大学)造家学科教員を務めた。79歳。 辰野葛西設計事務所の現存作品として、旧盛岡銀行本店本館(現・岩手銀行中ノ橋支店赤レンガ館 )(1911、重文)、 旧中央停車場(現・東京駅)(1914、重文) 、岩手病院診療棟(現・岩手医科大学1号館) (1926)、葛西建築事務所として旧盛岡貯蓄銀行本店(現・盛岡信用金庫本店) (1927 などがある。 ◆建築 第一勧業銀行京都支店は、近代、1904年3月に着工し、1906年5月に竣工した。設計は辰野葛西建築事務所(辰野金吾・葛西萬司)による。1919年に清水組により、南側、西側の増築が行われた。その後、1999年に取り壊される。2003年に、旧支店のほぼ同様の外観でレプリカ再建(イメージ復元)されている。 第一勧業銀行京都支店は、東京海上火災本社屋と並び、辰野葛西建築事務所の第1作だった。辰野の現存作品中で、日本銀行本店(1896)、日本銀行大阪支店(1903)に次ぎ3番目に古い作品になる。 東面して建つ。外観は、英国のヴィクトリア様式による赤煉瓦を露出させた。フリー・クラシック(辰野式)と呼ばれている。辰野は、旧日本銀行京都支店(現・京都府京都文化博物館、1906)で、この様式を試みている。フリー・クラシックは、19世紀後半に英国で流行している。細部は古典系様式、骨格はゴシック的になる。赤煉瓦を露出させ、白い石材を帯石・隅石として用い、屋根には高屋根、小塔を載せた。明治30年代(1897-1906)後半-大正期(1912-1926)半まで、辰野により百数十件が建てられた。近代建築史上の最も代表的意匠であり、その起点の一つに位置付けられる。 外壁は煉瓦3枚積で、壁面は化粧煉瓦積、丹波産花崗岩を随所に用いる。屋根はマンサード屋根(腰折れ屋根、切妻屋根の変形で、屋根の勾配が上部が緩く下部が急な2段もの)で、かつては上部は銅板葺、下部はスレート葺だった。屋根にドーマー窓(垂直面の採光窓)がある。2階窓はアーチ形になる。 1919年に清水組技師長・田辺淳吉(1879-1926)の設計、清水組施工により、南側に3ベイ(柱間・梁間)分、西側に4ベイ分の増築、内部改造を行なった。さらに戦後にも、西側の増築部分は改築された。増築の際に烏丸通側玄関上部の窓形状が変更される。これらの増改築はすべて部分的なものに限られている。 施工は清水組、煉瓦造2階建、当初の建築面積は127坪(420㎡)。現在は全面銅板葺。 ◆三条南殿の遺跡 建物の東側に「三條南殿の遺址」という金属プレートが掲げられている。現代、1975年に平安博物館により設置された。 この地には、平安時代後期に左大臣・藤原実能(ふじわら-の-さねよし、1096-1157)の邸宅があった。三条南殿と呼ばれた。邸宅は三条通、烏丸通、六角通、室町通の4通りに面し、方121mを占めた。 平安時代後期、1133年頃に、邸宅は鳥羽上皇(第74代、1103-1156)に献上されその御所になる。その後、1151年頃に上皇の第2皇女・上西門院(1126-1189)の御所になった。1158年-1159年には、武将・源頼朝(1147-1199)が上西門院の官人として仕えている。鎌倉時代の1197年には第82代・後鳥羽天皇(1180-1239)の生母・七条院(1157-1228)の御所になった。 平安時代後期-鎌倉時代中期まで、この地は女院御所になり、歴代天皇がしばしば行幸している。また、女院の女房達により和歌文化の中心地の一つになった。 *内部は通常非公開 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「第一勧業銀行・東京三菱銀行京都支店 - 日本建築学会」、『京都の洋館』、『京都のモダニズム建築』、平安博物館の案内板、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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