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旧日本生命京都支店(日本生命京都三条ビル旧棟) (京都市中京区) Former Nippon Life Insurance Co. Kyoto Branch |
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旧日本生命京都支店 | 旧日本生命京都支店 |
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![]() 南東角、旧日本生命京都支店 ![]() 南側 ![]() 東側 ![]() 塔屋 ![]() ![]() |
三条通柳馬場西入ル北側に、石貼りの旧日本生命京都支店(きゅう-にほんせいめい-きょうとしてん)が建つ。日本生命京都三条ビル旧棟とも呼ばれている。 近代の建築家・辰野金吾、片岡安が設計した。 ◆歴史年表 近代、1912年、着工した。 1914年、竣工された。 現代、1983年、東側・南側の一部を残して改築された。 1997年、11月、登録有形文化財に登録されている。 ◆辰野金吾 江戸時代後期-近代の建築家・教育者・辰野金吾(たつの-きんご、1854-1919) 。旧姓は松倉。唐津(佐賀県)生まれ。唐津藩藩士・姫松倉右衛門の次男。1868年、辰野宗安の養嗣子になる。1873年、工部省工学寮に入学した。イギリス人・建築技師・ジョサイア・コンドル(Josiah Conder,1852-1920)の指導を受ける。1879年、工部大学校(工学寮)造家学科の第1回卒業生として卒業した。1880年、留学のため、ロンドンのコンドルの師・バージェス(William Burges,1827-1881)建築事務所などで建築を研修した。フランス、イタリアも回る。1883年、帰国し工部省に入る。設計の処女作になった銀行集会所(1885)の設計を行う。1884年、コンドルの後任として、工部大学校教授に就任し、日本建築講座を担当する。1886年、辰野建築事務所を設立する。造家学会(現在の日本建築学会)創立に参加した。1887年、日本銀行の設計者に決定し渡欧する。1888年、帰国した。1898年、建築学会会長、工科大学長に就任する。1902年、工科大学を退官した。 「日本近代建築の父」といわれた。議院建築調査会委員を歴任する。工学博士。66歳。 日本人で洋風建築技術を最初に学ぶ。創成期の日本近代建築を主導した。門弟に伊東忠太、関野貞、大熊喜邦らがいる。主な作品は、工科大学本館(1888) 、日本銀行本店(1896) 、両国国技館(1909)、東京中央停車場(東京駅、1914) などがある。 ◆片岡安 江戸時代後期-近代の建築家・政治家・片岡安(かたおか-やすし、1876-1946)。石川県生まれ。加賀前田藩士・細野直重の次男。1897年、東京帝国大学工科大学造家学科卒後、日本銀行技師になる。1899年、日本銀行大阪支店を設計した。日本生命保険副社長・片岡直温(なおはる)の婿養子になる。1903年、第三十四銀行技師になった。1905年、辰野金吾と辰野片岡建築事務所を開設した。1912年、大阪市中央公会堂指名コンペの一員に選ばれる。1917年、関西建築協会(現在の日本建築協会)を創立し、初代理事長になる。(-1946)。1918年、内務省都市計画調査会委員、社団法人大阪工業会常務理事に就く。1919年、日本生命保険取締役(-1927)、片岡松井建築事務所を開設した。1920年、東京帝国大学より工学博士号を授与する。1922年、片岡建築事務所を開設した。京都帝国大学工学部建築学科講師嘱託になる(-1929)。社団法人大阪工業会会長になる(-1946)。本庄京三郎に招聘され、関西工学専修学校(現在の大阪工業大学)初代校長・理事長に就任した。1923年、大阪信用組合(現在の大阪信用金庫)組合長(-1946)。1927年-1931年、石本喜久治と片岡・石本建築事務所を設立した。1934年-1936年、金沢市長になる。1940年-1943年、大阪商工会議所会頭になった。70歳。 日本都市計画研究の先駆者だった。現存作品として、大阪市中央公会堂(1918)(重文)、芦屋仏教会館(1927) 、大阪信用金庫旧本店(現在の同信金日本橋支店、1936) などがある。 ◆山本鑑之進 近代の建築家・山本鑑之進 (やまもと-かんのしん、?-?)。詳細不明。渡辺洪基、辰野金吾らが設立した工手学校(現在の工学院大学)の1期生であり、1889年、卒業した。1890年、工事総監督・金吾により日本銀行本店が着工され、工事主任の一人に鑑之進を抜擢した。1896年、日本銀行本店は竣工する。1911年、鑑之進は「山本鑑之進工務店」を設立した。 主な作品は京都の都ホテル(1900)、日本生命旧本館(1914)、日本興業銀行大阪支店(1914)などがある。1920年、山本鑑之進工務店は、藤木正一が設立した藤木工務店として継承された。 ◆建築 旧日本生命京都支店は、1914年に建てられた。設計は辰野片岡事務所(辰野金吾、片岡安)による。 外壁仕上げは赤煉瓦ではなく、灰白色の石材を貼っている。古典主義とともに、セゼッション風(分離派、過去の様式からの分離)の細部意匠を用いている。南東隅の屋根上に塔屋が立ち、スレート葺になっている。開口部上部、屋根には装飾が施されている。1983年に、南東角部、東側一部の1スパン(支柱間)のみを残して改築された。近代建築の部分保存例の先駆になる。 施工は山本鑑之進、煉瓦造2階建、屋根は鋼板・スレート仕上げ。建築面積65㎡。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「文化庁 文化財データベース」、『京都の洋館』、『京都のモダニズム建築』、ウェブサイト「藤木工務店」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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