九品寺 (京都市南区) 
Kubon-ji Temple
九品寺 九品寺
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「圓光大師法然上人光明橋址」の石標
 南区東九条に九品寺(くぼんじ)がある。山号は来迎山という。法然縁の地とされている。
 浄土宗鎮西義。本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 平安時代、後鳥羽上皇(第74代、1180-1239)が鳥羽殿(鳥羽離宮、山城紀伊郡竹田村、伏見区中島)に建てた阿弥陀堂(成菩提院)に始まるという。上皇は、9か寺を建て、安養九品仏を安置した。その一寺という。当初は天台宗だった。
 その後、鳥羽殿の衰退とともに衰える。
 鎌倉時代(1192-1333)初期、法然高弟・覚明坊長西により、洛北(北野神社西、紙屋川に架かる高橋の東北付近)に再建された。以後、浄土宗九品寺の本寺になる。
 鎌倉時代(1192-1333)中期、貞翁の時、九条家邸宅跡の現在地に移る。
 室町時代、1471年、現在地に移されたともいう。
 その後、衰微する。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、袋中により中興された。越後上杉家家臣・野村氏の外護を受ける。
 江戸時代(1603-1868)中期、知恩院末になる。
 1807年、尼寺になる。
◆法然 平安時代後期-鎌倉時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。諱は源空、勅諡は円光大師、明照大師、通称は黒谷上人、吉水上人、幼名は勢至丸。美作国(岡山県)に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となる。1186年/1189年、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)となり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。翌1212年、ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。80歳。
 法然の専修念仏とは、誰もがひたすら祈ることで極楽往生できるとし、既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。
◆覚明房長西 平安時代後期-鎌倉時代中期の浄土宗の僧・覚明房長西(かくみょうぼう-ちょうさい、1184-1266)。俗姓は藤原、号は覚明房。讃岐国(香川県)に生まれた。1192年、上洛、1202年、法然弟子になる。師没後、一時故郷の三谷に戻る。再度上洛し、洛北に九品寺を開く。念仏本願と諸行本願を唱え、諸行本願義、九品寺流の祖。著『浄土依憑経論章疏目録』。83歳。
 弟子に、澄空、道教、阿弥陀、空寂、影響を受けた凝然などがいる。
◆九条兼実 平安時代後期-鎌倉時代前期の政治家・九条兼実(くじょう-よしみち、1149-1207)。通称は月輪殿、後法性寺殿、法名は円証。父は摂関家の藤原忠通、母は女房加賀(藤原仲光の娘)。1166年、右大臣になる。1156年、異母姉の皇嘉門院の猶子になる。1158年、兄・基実の猶子として元服した。左近衛権中将、権中納言、左近衛権中将、権大納言・右近衛大将、内大臣を経て、1166年、右大臣に進み、1174年、従一位に昇る。1179年、平清盛の権力奪取後、1185年、頼朝内覧の宣旨により、1186年、摂政・藤原氏長者になる。1187年、記録所を設ける。1189年、太政大臣、1190年、娘・任子を入内させ、第82代・後鳥羽天皇中宮にさせる。1192年、後白河法皇(第77代)没後、頼朝に征夷大将軍を宣下する。だが、1196年、政変により失脚した。弟の天台座主・慈円の後見になり仏教界に影響を及ぼす。息子、妻を亡くし法然に帰依した。1202年、出家、円証と号した。山荘の月輪殿に隠棲する。後法性寺殿、月輪殿と称された。
 和歌に親しみ、藤原俊成・定家らの庇護者になる。40年間の日記『玉葉』がある。 
 九条家を興した。内山に葬られた。墓は現在、東福寺内にあり、1881年に公爵・九条道孝が「発見」したという。ただ、確定されていない。59歳。
◆袋中 室町時代後期-江戸時代前期の浄土宗の僧・袋中(たいちゅう、1552-1639)。良定(りょうじょう)、弁蓮社入観。磐城国(福島県・宮城県)に生まれた。父は佐藤定衡。14歳で陸奥・能満寺の存洞により出家、如来寺、専称寺、円通寺・名越檀林で浄土教学を学んだ。1577年、江戸・増上寺で浄土宗白旗派に学び、足利学校で禅学も修めた。1581年、故郷の成徳寺13世になる。1599年、平城主・岩城貞隆の帰依により城内に称名道場を開く。1603年、入明を試みたが上陸を許されず、琉球に漂着した。琉球・尚寧王の帰依を得て、城外に桂林寺を開く。琉球に初めて浄土宗を布教した。1611年、京都・檀王法林寺を再興する。1619年、氷室谷、東山五条(菊ヶ谷)に袋中菴を建立する。1622年、奈良・念仏寺を建て移る。1624年、瓶原(木津川市)に心光庵を建てた。1637年、綴喜郡飯岡(京田辺市)の西方寺に住み、終焉の地になった。著『琉球神道記』『琉球往生』など。88歳。
 20余寺を建立したという。古記録、書写本の収集・整理に努め、一部は名越派檀林円通寺(大沢文庫)に寄贈された。袋中生誕の霊異として、母の口中に月輪が入り、胎内揺動し身籠ったという。
◆本尊・木像 阿弥陀如来像は、平安時代、1115年、白河法皇が白川阿弥陀堂御所に安置した九体阿弥陀如来像の一体ともいう。
 脇壇に長西坐像を安置する。
◆寺名 再建した覚明坊長西が住した洛北・九品寺の寺号を継ぐものともいう。
◆鳥羽殿 11世紀末、第72代・白河天皇(1053-1129)は、退位後の後院として平安京の南に鳥羽殿(とばどの)を造営した。平安京とは鳥羽作道で結ばれていた。東殿・北殿・南殿、後に鳥羽上皇(第74代、1103-1156)により田中殿御所が建立され、14世紀頃まで存在した。安楽寿院は東殿の一院になる。
◆光明橋 門前脇に「圓光大師法然上人光明橋址」の石標が立つ。
 法然に深く帰依した九条兼実は、時折九条邸に法然を招いた。近くを流れていた溝川には、小橋(光明橋)が架かっていた。
 ある時、法然を見送った兼実は、橋の辺で法然の背より円光が放たれているのを見たという。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都古社寺辞典』、『事典 日本の名僧』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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九品寺 〒601-8015 京都市南区御霊町(九品寺前)30,東九条上ル   075-691-3298
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