二条天皇 香隆寺陵 (京都市北区)  
Imperial mausoleum of Emperor Nijo
二条天皇 香隆寺陵 二条天皇 香隆寺陵
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 平野八丁柳町(ひらの はっちょうやなぎちょう)に、香隆寺陵(こうりゅうじ の みささぎ)はある。
 平安時代中期の第78代・二条天皇(にじょう てんのう)が葬られている。
◆歴史年表 平安時代、1165年、7月28日、二条天皇は亡くなる。8月7日、香隆寺(こうりゅうじ)の東北の野で火葬にされた。遺骨は香隆寺境内の三昧堂に納められた。葬儀は寂しいものだったという。(『顕広王記』)
 1166年、7月26日、香隆寺境内の三昧堂が完成する。
 1170年、5月17日、遺骨は三昧堂に遷され納められた。
 その後、香隆寺、陵の所在は不明になる。
 江戸時代、陵地は船岡山北麓ともされた。
 元禄年間(1688-1704)、幕府の探陵では発見できなかった。
 1862年-1863年、文久の修陵でも陵は決定されず、修陵されなかった。
 近代、1889年、6月3日、平安時代の公家・藤原宗忠の日記『中右記』(1087-1138)の記載より、推定された現在地が卜定(ぼくじょう)され陵として決定した。
◆二条天皇 平安時代中期の第78代・二条天皇(にじょう てんのう、1143-1165)。守仁(もりひと)。第77代・後白河天皇の第1皇子。母は大納言・藤原経実(つねざね)の娘・贈皇太后・源懿子(いし) 。養母・美福門院(藤原得子、鳥羽天皇皇后)に養育された。僧籍にあり、仁和寺覚性法親王(鳥羽天皇皇子)の弟子になった。1155年、第76代・近衛天皇は後嗣(こうし)の決めず早世した。祖父・鳥羽上皇(第74代)、美福門院、関白・藤原忠通らは、守仁親王の皇位を推した。父・雅仁(まさひと、後白河天皇)を差し置いて実現できなかった。同年、父の即位に伴い還俗し、践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)後に親王宣下、皇太子になる。だが、叔父・崇徳上皇の怒りを誘い、1156年、保元の乱の要因になる。1158 年、即位した。父・上皇の院政を否定し、関白・藤原基実らと天皇親政を行おうとして上皇と対立する。後白河上皇・信西(しんぜい)らの院政派と二条天皇らの親政派が併立する。1160年、平治の乱では、藤原信頼、源義朝らに黒戸御所に幽閉された。平清盛らの助けで脱出し、清盛の六波羅邸に入る。乱後、清盛らに官爵を与えた。同年、二条天皇は、周囲の反対を押し切り、近衛天皇の皇后だった藤原多子(たし)を強引に再入内させた。多子は「二代后(にだいのきさき)」と称された。1165 年、病に冒され、2歳の皇子・順位(のぶひと) 親王(第79代・六条天皇) に譲位した。その翌月に亡くなる。23歳。
 争乱によって衰微していた歌壇を復興し、『続詞花和歌集』を編纂させる。『平家物語』に登場する。二代后・藤原多子の再入内を強要した父に従わない天皇として描かれている。
 陵墓は香隆寺陵(北区)になる。
◆陵墓 陵は円丘であり、ほぼ南面している。方形陵域(間口70m、奥行50m)に拝所、その背後に方形の小土堤、中央に円丘(径1.7m)が築かれている。
 平安時代、1165年7月28日、二条天皇は亡くなる。8月7日、香隆寺(こうりゅうじ)の東北の野で火葬にされた。遺骨は香隆寺境内の三昧堂に納められた。葬儀は寂しいものだったという。(『顕広王記』)。1166年7月26日、香隆寺境内の三昧堂が完成する。1170年5月17日、遺骨は三昧堂に遷され納められた。その後、香隆寺、陵の所在地は不明になる。江戸時代、陵地は船岡山北麓ともされた。元禄年間(1688-1704)、幕府の探陵でも発見できなかった。1862年-1863年、文久の修陵でも陵は決定されず、修陵されなかった。
 近代、1889年5月25日、諸陵寮は、諸陵助・足立正声の意見により陵跡の発見は不可能とした。6月3日、平安時代の公家・藤原宗忠の日記『中右記』(1087-1138)の記載より、推定された現在地(大北山村字宇多川)の小高い茶畑が卜定(ぼくじょう)され、陵として決定した。廟陵造営の建議を経て陵が造営された。
◆香隆寺 葬送菩提の寺だった香隆寺(こうりゅうじ)の詳細は分かっていない。
 現在の等持院(北区)の北にあり、真言宗の寺院だった。空海弟子・教日の創建ともいう。平安時代、天暦年間(947-957)、寛空(884-972)が宇多法皇(第59代)の勅願時として再興したという。仁和寺に属したとみられている。当寺で、第73代・堀河天皇(1079-1107)の火葬が行われ、遺骨が仮安置された。平安時代には、付近一帯は皇室の荼毘所になっている。中世(鎌倉時代-室町時代)に廃絶したという。その後、寛空が兼帯していた上品蓮台寺(北区)に合併されたという。その後、室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失、紫野十二坊に移された。
 また、平安時代、貞観年間(859-877)、常住寺の十禅師伝灯法師延庭が、北山に興隆寺(こうりゅうじ)を創建した。この興隆寺とは、香隆寺の旧号ともいう。


74 鳥羽天皇 (在位:1107-1123)→75 崇徳天皇 (在位:1123-1141)→76 近衛天皇(在位:1141-1155)→77 後白河天皇(在位:1155-1158)→78 二条天皇(在位:1158-1165)→79 六条天皇(在位:1165-1168)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『京都・山城寺院神社大事典』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 二条天皇 香隆寺陵 〒603-8345 京都市北区平野八丁柳町26
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