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水無瀬神宮 (大阪府三島郡島本町) Minase-jingu Shrine |
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水無瀬神宮 | 水無瀬神宮 |
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![]() ![]() 「水無瀬神宮」の社号標 ![]() ![]() 「水無瀬駒発祥の地」の石標 ![]() 水無瀬駒、説明板より ![]() 神門 ![]() 「洗心流華元」の石標 ![]() 神門、石川五右衛門の手形 ![]() 社紋 ![]() 手水舎 ![]() 手水舎 ![]() ![]() 離宮の水 ![]() 「名水百選 離宮の水」の石碑 ![]() 拝殿 ![]() 拝殿 ![]() 拝殿、中央奥が本殿 ![]() 後鳥羽天皇肖像画(複製額装) ![]() 客殿 ![]() 燈心亭、説明板より ![]() ![]() 稲荷神社 ![]() 星阪神社 ![]() 柿本神社 ![]() 春日神社 ![]() 土蔵 ![]() 山吹 ![]() 都忘れの菊 ![]() ![]() 【参照】水無瀬離宮の出土した軒平瓦(島本町立歴史文化資料館) ![]() 【参照】水無瀬離宮の庭園跡(島本町立歴史文化資料館) ![]() 【参照】「後鳥羽上皇水無瀬宮址」の石標 ![]() 【参照】水無瀬川 |
水無瀬神宮(みなせ-じんぐう)は、「水無瀨宮」とも呼ばれた。 旧官幣大社、現在は別表神社になる。 主祭神は第82代・後鳥羽天皇、その第一皇子・第83代・土御門天皇、その第3皇子・第84代・順徳天皇を祀る。 仏霊場巡拝の道第62番(大阪第21番)。 ◆歴史年表 鎌倉時代、この地には、公卿・源通親(1149-1202)の別業が営まれていた。 1199年頃、後鳥羽上皇は、別業を改めて離宮「水無瀬殿」を造営した。「皆瀬御所」「広瀬御所」と呼ばれた。上皇は「えもいきず面白き院作り」に度々訪れている。(『増鏡』)。離宮は、桜、山吹、菊の名所として知られた。 1200年、「内大臣水無瀬山荘」への後鳥羽上皇の行幸があったと記されている。(『玉葉』)、「皆瀬御所」とも呼ばれた。(『明月記』) 1202年、大洪水により被災する。上皇は内府上直盧(じきろ)に避難した。(『明月記』)。離宮では、「水無瀬釣殿当座六首歌合」「水無瀬殿恋十五首歌合」などの歌合が行われている。 1205年、上皇は大改修を行う。(『百練抄』)。長厳(ちょうごん)僧正が請け負う。藤原頼実は、上皇の御願寺「水無瀬御堂(蓮華寿院)」を造営した。上皇が寵愛した尾張局(おわりのつぼね)の追善のためであり、本尊は等身大の阿弥陀像だった。千体地蔵も祀られていた。(『源家永日記』) 1207年、国家鎮護の修二会(しゅにえ)が水無瀬御堂で催された。(『明月記』) 1211年、慈円が水無瀬御堂で如法仏眼法の修法を行う。(『門葉記』『華頂要略』) 1214年、「秋十種撰歌合」が催された。(『後鳥羽院御集』) 1216年、上皇は、自ら書写した「金泥瑜伽論」100巻を供養している。離宮の本御所(上御所)が大洪水により流出した。他所に新御所が造営されている。(『百練抄』『仁和寺日次記』) 1217年、新御所が山上に完成した。大納言・亜相が請け負う。 1239年、後鳥羽上皇は死の直前に、置文(水無瀬・井内両庄の知行、後世の弔い)を母方の水無瀬信成、親成父子に残した。上皇の没後、離宮内に御影堂(みえいどう、法華堂)が建てられる。皇の画像が祀られ菩提を弔う。 南北朝時代、両朝より領地寄進がある。 1336年、光厳上皇(北朝初代)は、後鳥羽上皇の置文通りに、水無瀬・井内両庄の知行に間違いのないようにとの院宣(いんぜん)を下した。 室町時代、1488年、1月、後鳥羽院250年遠忌に、連歌師・宗祇、高弟・肖柏、宗長が水無瀬御影堂法楽のために「何人百韻」を作る。初句「ゆきながら山本かすむ夕かな」(宗祇)。 1494年、第103代・後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、「水無瀨神」の神号を奉じた。以来、50年忌毎の「聖忌」に、御法楽和歌が献じられた。 安土・桃山時代、1596年、大地震により御影堂は倒壊する。 1600年、朝廷の寄付により御影堂が再建された。 江戸時代、1631年、焼失した。 1848年、禁裏の小御所で水無瀬宮に向かい、御法楽和歌が詠みあげられていた。(『孝明天皇紀』) 近代、1868年まで、「水無瀬御影堂」と呼ばれ、神仏混淆の行事が行われていた。その後、神仏分離令後の廃仏毀釈により、社僧が廃される。吉峰坊、蔵王寺、千手院、寿徳院、阿弥陀院、多聞院、豊楽寺、寂定院などが廃される。 1873年、官幣中社「水無瀬宮」に改められる。祭神に後鳥羽上皇、土御門天皇、順徳天皇が祀られ、隠岐、阿波、佐渡より神霊が遷され、上皇の御鎮座祭が執り行われた。これらは、崇徳上皇を祀った御霊社の白峯神社(京都市)に倣ったという。 1874年、順徳天皇の佐渡よりの奉還が行われる。 1939年、後鳥羽上皇700年忌を機会に、官幣大社に列格し、「水無瀬神宮」と改称される。 現代、1985年、「離宮の水」は、環境庁認定「名水百選」に選ばれた。 ◆後鳥羽天皇 平安時代後期-鎌倉時代中期の第82代・後鳥羽天皇(ごとば-てんのう、1180-1239)。男性。諱は尊成(たかひら)、法名は良然、別名は顕徳院、隠岐院。京都の生まれ。父・第80代・高倉天皇の第4皇子。1183年、平氏は、第81代・安徳天皇(後鳥羽天皇の兄)を伴い都落ちする。都に天皇不在になり、祖父・後白河法皇(第77代)の詔により、神器のないままに4歳で践祚(せんそ)した。1184年、即位の式を挙げる。1192年、院政を敷いた後白河法皇の没後、4歳の後鳥羽天皇の親政になる。実権は関白・九条兼実、その失脚後は源通親が握った。1198年、幕府の反対を押し切り、第83代・土御門天皇(皇子)に譲位し院政を始める。以後、第84代・順徳天皇(土御門の弟)、第85代・仲恭天皇(順徳の子)と3天皇に23年に渡り院政を敷いた。1219年、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の暗殺後、上皇は幕府からの政権奪取を目指し、畿内、近国の兵を集める。1221年、執権北条義時追討の宣旨を出して挙兵、承久の乱になる。後鳥羽上皇は敗れ、出家し良然と称した。幕府は平氏に育てられ即位していない兄・後高倉院に院政をとらせる。仲恭天皇は退位、1221年、第86代・後堀河天皇(後高倉院の子)を即位させた。幕府は後鳥羽、土御門、順徳の3上皇を配流した。後鳥羽上皇は隠岐に流され、18年後に同地で没した。日記『後鳥羽天皇宸記』。60歳。遺骨は大原の勝林院(大原陵)に葬られる。 芸能(蹴鞠、琵琶、事)、武技、刀剣鍛造、和歌にも長じ、1201年、和歌所を設ける。『新古今和歌集』(1205)を勅撰した。白河に最勝四天王院を建て、水無瀬、鳥羽、宇治などに院御所を営んだ。1198年以来、熊野詣は28回に及ぶ。 上皇の死の前後に、1234年、第85代・仲恭天皇、第86代・後堀川天皇、1240年、北条時房、1242年、北泰泰時らが相次いで亡くなり、無念の死を遂げた上皇の怨霊による仕業と怖れられた。 ◆土御門天皇 鎌倉時代前期-中期の第83代・土御門天皇(つちみかど-てんのう、1195-1231)。男性。為仁(ためひと)。京都の生まれ。父・第82代・後鳥羽天皇、母・内大臣・源通親の娘(実父は法印能円)の在子(承明門院)の第1皇子。1198年、4歳で皇位に就き、父の院政下に置かれた。父・上皇は、異母弟・守成を寵愛し、その命により、1210年、守成親王(第84代・順徳天皇)に譲位した。1221年、承久の乱では、上皇の倒幕計画に関与しなかった。乱後、上皇の配流を聞き、自ら幕府に申請し土佐国に配流になる。後に阿波国に移り、同国で没した。土佐院、阿波院とも呼ばれる。和歌にすぐれ、『土御門院御百首』などがある。 阿波の池の谷で火葬され、墓所は金原陵(長岡京市)にある。 ◆順徳天皇 鎌倉時代前期-中期の第84代・順徳天皇(じゅんとく-てんのう、1197-1242)。男性。名は守成(もりなり)。京都の生まれ。父・第82代・後鳥羽天皇、母・藤原範季の娘・修明門院重子の第3(2とも)皇子。1199年、源頼朝の没後、 父・後鳥羽上皇は、1210年、第83代・土御門天皇(上皇の実子、順徳天皇の兄)に退位を迫り、14歳で順徳天皇を即位させた。順徳天皇は父の院制下にあり、父の鎌倉幕府打倒計画に参わる。1221年、皇子・懐成親王(第85代・仲恭天皇) に譲位後、挙兵し敗れた。(承久の乱) 。佐渡に配流になり、21年間後にその地で没した。自ら絶食して憤死したともいう。46歳。 和歌、詩、管弦、有職故実に秀でた。歌集『順徳院御集』など。配流後は佐渡院と称され、1249年、順徳院と追号された。 火葬塚(新潟県佐渡市)、当初は真野山に葬られ、その後、大原陵(左京区)に改葬される。 ◆藤原信実 平安時代後期-鎌倉時代中期の画家・歌人・藤原信実(ふじわら-の-のぶざね、1176?-1266頃)。男性。初名は隆実、法名は寂西。父・歌人・似絵絵師・藤原隆信、母・中務少輔藤原長重の娘。定家の甥。左京権大夫に任ぜられ、1231年、正四位下に叙せられた。似絵(にせえ)・記録画家として知られた。順徳天皇の中殿御会の参列者を描いた「中殿御会図」(1218)、水無瀬神宮に現存する2種の「後鳥羽上皇像」(1221)、「三十六歌仙絵巻」などの作者という。歌は藤原定家に師事し、「新勅撰和歌集」などに採歌。説話集「今(いま)物語」の作者とされる。1248年頃、出家し、寂西(じゃくせい)と号した。90歳?。 ◆水無瀬兼成 安土・桃山時代の公家・水無瀬兼成(みなせ-かねなり、?-1602)。男性。本名は親氏。英兼の養子、父・三条西公条。権中納言二位。水無瀬家13世。能書家であり、16世紀(1501-1600)後半、第106代・正親町天皇の命により、将棋の駒の銘を書いた。89歳。 ◆角南隆 近現代の建築家・角南隆(すなみ-たかし、1887-1980)。男性。岡山県の生まれ。1915年 東京帝国大学工学部建築学科卒業、1916年 明治神宮造営局勤務、1918年、内務省神社局、神祗院技師、この間に伊勢神宮式年遷宮造営にあたる。1945年より、明治神宮復興事業に関わる。1965年、勲三等旭日章を受章した。 作品は、長田神社(神戸市)、近江神宮(大津市)、明治神宮再建、平安神宮神楽殿(京都市)など多数。著『寺社建築』。93歳。 ◆建築 鳥居、神門、手水舎、拝殿、本殿、客殿、斎館、茶室「燈心亭」、洗心流本部、神徳館、社務所などが建つ。 ◈「神門」(大阪府指定重要文化財) は、安土・桃山時代、1592年-1596年(江戸時代前期、1615年-1661年とも)に建立された。柱に、盗賊首領・石川五右衛門(?-1594)が残したという手形が残されている。女梁に斗、男梁を支持、梁上に長い撥束を立て、斗と実肘木で棟木を受ける。北方潜戸付、4本柱、切妻、一間、薬医門造、本瓦葺。 間口2.8m 総延長5.0m、 ◈「本殿」(登録有形文化財)は、江戸時代前期、1615-1661年に建立された。京都御所の旧内侍所の材を用いた。江戸時代前期、寛永年間(1624-1644)に移築される。内部は内陣、外陣がある。外陣は折上小組格天井、正側面に板唐戸を開く。四方に縁を廻らし脇障子、前面に浜床を設ける。柱上に舟肘木、二軒繁垂木。3間2間、木造、入母屋造、平屋建、現代、1974年に銅板葺(かつて瓦葺、近代、1929年に檜皮葺)、面積89㎡。 ◈「客殿」(重文)は、安土・桃山時代に建立された。豊臣秀吉の寄進により、造営奉行・福島正則という。江戸時代には、「宸殿」・「広間」と呼ばれていた。4室ある。広間(18畳)の北に上段の間(6畳)、床(1間半)、床脇(3尺)に違棚・天袋、右に付書院、西に12畳、その北に9畳がある。南、西に広縁付。6間5間、桁行11.8m、梁間10.9m、一重、入母屋造、桟瓦葺。 ◈「神庫」は、近代、大正期(1912-1926)に建てられた。正面中央の戸口に下屋、漆喰塗の扉を開く。切石積基礎上に、正面に石階四級、外壁漆喰塗として水切一段を廻らせる。2間半2間、土蔵造2階建、寄棟造、桟瓦葺、建築面積24㎡。 ◈「拝殿」(登録有形文化財)は、江戸時代前期、1615-1661年に建てられた。この地にはかつて、「西殿」があり仏式の行事が行われていた。正面は板敷、両側は畳敷きで渡廊下で客殿に通じていた。神饌調理所は右側にあり、御影堂とは土間廊で繋がっていた。 近代、1875年に拝殿に改造される。1929年に国費により改築された。4間の入母屋造の正面に3間向拝、北側に庇状の張出し、神饌所、背面に2間の幣殿を設ける。土間式拝殿で基壇周囲に高欄を廻らせる。小屋を虹梁豕扠首、組物舟肘木、蟇股。設計は角南隆による。木造、台檜造、平屋建、銅板葺、建築面積149㎡ 。 ◈「渡廊」は、近代、1929年に建立された。 ◈「神饌所」は、近代、1929年に建立される。 ◈「手水舎」は、近代、大正期(1912-1926)に建立された。角柱に内法長押を廻らし、舟肘木、格天井、妻飾は木蓮格子に梅鉢懸魚。石製の手水鉢と井戸枠を置く。桁行3m、方一間平面、入母屋造、桟瓦葺。面積5.5㎡。 ◆燈心亭 ◈茶室「燈心亭(とうしんてい)」(重文)は、「燈心席」、近代、昭和期(1926-1989)初期以前には「七草の席」と呼ばれた。 江戸時代前期(1615-1660)に建立された。第108代・ 後水尾天皇より下賜されたという。西に三畳台目、手前座、東側に勝手の間(水屋の間)(3畳)、隅に大水屋がある。 茶室の「三畳台目」の正面(北)に、床(4尺)、欅の地板、張付壁に違棚があり、天袋二段、上段は小襖、銀箔押し、蜘蛛形引手、下段は板戸、鞣し皮引手、下に通し棚(裏に網目模様を透かした幕板)、棚の下は欅の地板になる。床寄りに障子引違の中敷窓、南側、西側に立桟吹寄の明障子、腰板内外に半割藤の水引結びの意匠があり、修学院離宮の窮邃亭(きゅうすいてい)の陶器意匠と同じという。格天井には山吹、木賊、葭、萩などを用いている。 「手前座」は、蒲天井、中柱(椎丸太)に袖壁、客座との境に無目敷居、袖壁の内側に2枚の釣棚(釣竹なし)、給仕口に曲木、茶道口柱に松竹梅を合わせる。 「勝手の間」は、手前座の裏に仮置棚(1間)があり、上段に引違襖、4枚の霞棚、下段は左に寄せて三段になる。東側に簀の子を張る。 縁側南正面に天袋を付けた洞床がある。板敷、風呂先窓が開く。 北側の土間庇に、化粧屋根裏に、垂木、竹、丸太、削木、葭などを用いる。 三方(西、南、東)に畳縁(入側)が廻されている。数奇屋風書院、桁行7.6m、梁間5.2m、一重、寄棟造、茅葺、東面庇付、杮葺。 ◆文化財 ◈紙本著色「後鳥羽天皇像」(国宝)1幅がある。直衣(のうし)像であり、鎌倉時代作(13世紀前半)になる。後鳥羽上皇は隠岐に配流される前に、絵師・藤原信実(1176-1265)に命じ、出家前の肖像画を描かせたという。似絵の技法による。(『吾妻鏡』)。俗体姿で座し、左を向いている。細い線で描かれ、着色は簡潔、鎌倉時代初期の肖像画の中で傑出しているとされる。像は、母・七条院に託された。その後、水無瀬離宮の法華堂(御影堂)に安置された。40.3×30.6㎝。 ◈「後鳥羽天皇法体像」は、上皇が自ら水鏡に写して描いたともいう。 ◈「後鳥羽天皇宸翰御手印置文(しんかんおていんおきぶみ)」(国宝)がある。鎌倉時代中期、1239年、隠岐に流されていた後鳥羽上皇が、亡くなる13日前に行在所で書いた。自筆の遺言状になる。もはや都に帰られる望みもなく、離宮跡を守っていた母方に繋がる参議・水無瀬信成、親成の父子に遺命をしたためた。文の上に、朱肉の上皇の両手手印(手形)が付されている。「暦仁二年(1239年)二月九日」の日付がある。実際には都で、この2日前に「延応」に改元されている。上皇は知らなかった。29.6×101㎝。 ◈「後鳥羽院置文」(重文)は、鎌倉時代中期、1237年に書かれている。上皇の死後の怨霊を暗示しているとされ、第96代・南朝初代・後醍醐天皇も目にしたという。一時、比叡山行幸の後に紛失したともいう。 「後鳥羽院宸翰消息」(重文)、「後村上天皇宸翰願文」(重文)、歴代天皇の宸翰、綸旨、院宣など。 ◆水無瀬離宮 水無瀬離宮(水無瀬殿)は、現在の水無瀬神宮付近(広瀬、桜井)にあり、広大な敷地を占め建物群があった。 公卿・源通親(1149-1202)の別業を、後鳥羽上皇(1180-1239)が御所に改めた。鎌倉時代、1199年頃に造営され、1期(1200-1205)、2期(1205-1216)、3期(1217-1221)にわたり整備された。上皇は離宮を愛し、度々訪れている。 当時は、「水無瀬殿」、「皆瀬殿」、「広瀬殿」と呼ばれる。東の淀川には水無瀬湊が開かれていた。東釣殿には、淀川より船で直接入ることができた。離宮の中核地として東に本御所、西の小山(百山)の麓、水無瀬川近くに新御所、その南に南御所(薗殿)があった。近臣の別邸なども建てられ、東西方向には直線の馬場、馬場殿があったとみられている。馬場の東の延長線上には石清水八幡宮がある。 御願寺として蓮華寿院などがあった。離宮の南西の桜井には、御所池があり、園地跡なども見つかっている。離宮では歌合、芸能、猿楽の披露、南庭では蹴鞠、馬場では競馬、笠懸などが催されていた。 鎌倉時代前期、1217年/1216年に、大洪水により殿舎が転倒流出したため、山上に建替えられる。この年、河陽(かや、水無瀬、山崎)には大規模な土木工事、土地分給、魚市も移設され、一帯は都市としても整備された。 上皇は、1221年に承久の変で隠岐に配流され、1239年、都に帰ることなく亡くなる。死の直前の上皇の置文には、離宮を守り続ける旨が記されていた。その後、御影堂(法華堂)が建てられ上皇の菩提を弔った。 ◆遺跡 ◈現在、離宮の遺構はほとんど残されていない。境内の西、百山近くの新御所付近に、「後鳥羽後上皇水無瀬宮跡」の石標が立つ。新御所の土堤遺構は、戦前に削り取られ、戦後に百山も削られた。 ◈境内西の「西浦門前遺跡」では2014年に、発掘調査が行われている。離宮の庭園跡とみられる遣水跡・滝組・景石遺構が見つかった。これらは、藤原定家の日記『明月記』に記された光景に重なる。現在は、島本町立歴史文化資料館に一部が保存されている。 ◈境内西の「越谷(こしたに)遺跡」では、御所池に隣接しており、縄文時代-室町時代の遺跡とされる。庭園池の岬状の州浜跡ではないかとみられている。2021年に、州浜地形の一部で13世紀前半の遺物を含む土層などが確認されている。 ◈ほかに、「広瀬遺跡」では建物跡、「尾山遺跡」では後期の青石を用いた泉跡が見つかっている。 ◆石川五右衛門の手形 神門の右の柱に、盗賊首領・石川五右衛門(?-1594)が残したという伝承の手形がある。 安土・桃山時代、文禄年間(1592-1596)、五右衛門は、当宮の宝物の名刀を盗もうとして、7日7夜に境外の竹藪に潜み、隙を窺った。だが、神威により門内へ一歩も入ることなく諦めたという。立ち去る時に改心の証として、手形を門に押し付けたという。現在は、網に覆われて残されている。その後、盗難除けの信仰が生まれた。 ◆洗心流 後鳥羽上皇は、菊花を好んだ。御影堂の頃より供花が行われた。 江戸時代後期、慶応年間(1865-1868)、聞法寺の住持・広小路嘯山(しょうざん)が「洗心流」と名付けた。華道洗心流が興された。 ◆水無瀬駒 当宮の神職、水無瀬家13世・兼成は能書家だった。安土・桃山時代、16世紀(1501-1600)後半、第106代・正親町天皇の命により、将棋の駒の銘を書いた。黄楊(つげ)材を用い、将棋駒の先が細く薄く、手前が肉厚幅広な高級駒が形作られた。 兼成は、737組もの将棋駒を制作している。その中には、「中象戯」(駒数92枚)、「大象戯」(108枚)、「大々大象戯」(164枚)、「摩可大々大象戯」(192枚)、「大将棋」(354枚)などがあった。後陽成天皇、豊臣秀次、足利義昭に贈られる。徳川家康には53組の駒が納められた。 その養子・親具も豊臣秀次の命により書く。江戸時代には、免許のない者は駒を使えなかった。以来、「水無瀬駒」(島本町指定文化財第一号)と呼ばれ、書体も「水無瀬流」としていまも継承されている。 ◆離宮の水 手水舎の湧水は、「離宮の水(りきゅうのみず)」と呼ばれている。神社の近くを流れる水無瀬川の伏流水が地下11mから湧出している。献茶式でも使用される。 1985年に環境庁認定「全国名水百選」に選ばれた。 ◆文学 谷崎潤一郎は『蘆刈(あしかり)』(1932)に記している。「わたし」は、水無瀬の宮の跡を訪ね、水無瀬、山崎付近の歴史、風景を描く。 ◆松囃神事 「松囃(まつばやし)神事」(1月3日)は、「さんやれ」とも呼ばれる。 午後7時より、広瀬の山本家、粟辻家の本家筋がそれぞれ奉仕する。裃姿で神前でお祓い後に、手に紙垂(しで)を付けた笹竹を持ち一列になり進む。先頭は太鼓を打ち、祝言「御戸を開かせ給へや、これも御祝よいねがとんだ‥」と吟唱・唱和し、客殿前庭の橘の周囲を巡る。 ◆菊・紅葉 客殿前に「都忘れの菊」が植えられている。後鳥羽上皇が配流された隠岐で愛でた白菊を移したという。 八重咲の山吹がある。第124代・昭和天皇御手植えの松がある。紅葉で知られている。 ◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、日供始祭(にっくはじめさい)(1月2日)、元始(げんし)祭・松囃(まつばやし)神事(1月3日)、成人祭(1月第2日曜日)、御火焚神事・神符注連縄焼納(しんぷしめなわやきのう)祭(1月16日)、節分祭(2月3日)、紀元祭(2月11日)、祈年祭(2月17日)、桃花祭(3月3日)、後鳥羽天皇祭(4月4日)、裏千家家元献茶式(4月5日)、宗徧流献茶祭(4月中旬)、昭和天皇祭(4月29日)、端午祭(5月5日)、大祓式(6月30日)、みたま祭(8月23日)、重陽祭(9月9日)、順徳天皇祭・裏千家家元献茶式(10月14日)、神嘗(しんじょう)奉祝祭(10月17日)、講社大祭(湯立神楽、献花展、太鼓などの奉納)(10月第3か第4日曜日)、明治祭(11月3日)、土御門天皇祭・武者小路家家元献茶式(11月13日)、七五三詣(11月中旬)、新嘗祭(しんじょうさい)(11月23日)、例祭(12月7日)、天長祭(12月23日)、大祓式・除夜祭(12月31日)。 月釜(毎月第2日曜日)、月次祭(毎月1・22日)(22日に洗心流献花)。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *参考文献・資料 『水無瀬神宮と周辺の史跡』、『都市歴史博覧』、『古社名刹巡拝の旅 19 淀川の岸辺 京都・大阪 石清水八幡宮・水無瀬神宮』、『京都で建築に出会う』、ウェブサイト「近代建築青空ミュージアム」、ウェブサイト「文化庁 国指定文化財等データベース - 文化遺産オンライン」 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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