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順徳天皇 大原陵 (京都市左京区) Imperial mausoleum of Emperor Juntoku |
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順徳天皇 大原陵 | 順徳天皇 大原陵 |
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![]() 大原陵 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 御陵の脇を流れる律川に架かる茅穂橋 |
大原勝林院町の木尾(きお)山の西南麓に大原陵(おおはらの-みささぎ)がある。平安時代-鎌倉時代の第84代・順徳天皇(じゅんとく-てんのう)、その父の第82代・後鳥羽天皇(ごとば-てんのう)の2人が葬られている。 ◆歴史年表 鎌倉時代、1242年、旧9月12日(新10月7日)、順徳天皇は配所の佐渡で亡くなる。翌旧13日、佐渡・真野山で火葬にされた。 1243年、旧4月、遺骨は侍臣により京都大原に遷され、旧5月13日、後鳥羽天皇陵(左京区)の法華堂に合祀された。(『百錬抄』) 近代、1889年、6月、石塔背後の高台を法華堂跡とした。順徳天皇陵とされる。後鳥羽天皇陵とともに大原陵と称された。 ◆順徳 天皇 鎌倉時代前期-中期の第84代・順徳 天皇(じゅんとく-てんのう、1197-1242)。男性。守成(もりなり)、佐渡院。京都の生まれ。父・第82代・後鳥羽天皇、母・藤原範季(のりすえ)の娘・修明門院重子(しゅうめいもんいん-じゅうし)の第3(2とも)皇子。卿二位邸で誕生した。範季が養育する。1199年、源頼朝の没後、 父・後鳥羽上皇は、王朝の権力を回復しようとした。1200年、兄・第83代・土御門天皇の皇太弟になる。1208年、元服する。1210年、後鳥羽上皇は、土御門天皇に退位を迫り、14歳で寵愛した順徳天皇を即位させた。即位後の内裏は閑院になる。後鳥羽上皇は院政を敷き、天皇は父の鎌倉幕府打倒計画にも参わる。1221年、皇子・懐成(かねなり)親王(第85代・仲恭天皇) に譲位後、挙兵し北条義時を中心とする幕府軍と戦い敗れた。(承久の乱) 。佐渡に配流になり、21年間を同地で過ごした。1242年、第87代・四条天皇の没後、皇嗣には承久の乱に関わらなかった土御門上皇の皇子・邦仁親王(第88代・後嵯峨天皇)が即位した。順徳上皇は、皇子・忠成(ただなり)親王が践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)されず、帰京の夢を絶たれた。失意のうちに同地で没する。自ら絶食して憤死したともいう。後に、その死は怨霊とされた。 和歌、詩、管弦、有職故実に通じ『禁秘抄(きんぴしょう)』を著し、後世に影響を与えた。歌集『順徳院御集』などがある。配流後は佐渡院と称され、1249年、順徳院と追号されている。佐渡(新潟県)で没した。46歳。 火葬塚(新潟県佐渡市)があり、当初は真野山に葬られた。「真野御陵(まのの-みささぎ)」と呼ばれる。江戸時代には松と桜が植えられ、崇敬を集めている。近代以降は政府が管理している。その後、大原陵(左京区)に改葬された。 ◆陵墓 順徳天皇陵は、後鳥羽天皇陵と同域内の大原陵にある。円丘墳であり、西面している。 鎌倉時代中期、1242年旧9月12日(新10月7日)、順徳天皇は配所の佐渡で亡くなる。翌旧13日、佐渡・真野山で火葬にされた。1243年旧4月、遺詔により遺骨は侍臣により京都大原に遷され、旧5月13日、後鳥羽天皇陵(左京区)の法華堂に合祀された。(『百錬抄』)。 鳥羽天皇皇子・尊快法親王(1204-1246)は、この頃、梶井宮第20代であり、母・修明門院(1182-1264、藤原重子)とともに、父の水無瀬御所の材を移して法華堂を建てたという。(『増鏡』) 近代、1889年6月、石塔背後の高台を法華堂跡とした。順徳天皇陵とされる。後鳥羽天皇陵とともに大原陵と称された。 ◆ミヤコワスレ 野春菊の「ミヤコワスレ(都忘れ)」の名は、順徳上皇の故事に因むという。 上皇は佐渡島に21年間流され、この地で亡くなった。上皇は、ある秋の日に、庭に咲いていた薄紫色の野菊を見て、この花は都の雅を忘れさせると語ったという。以来、花は「都忘れ」の名で呼ばれるようになったという。 花は、キク科の多年草ミヤマヨメナの園芸品種という。ユウガギク、シラヤマギク、ヤマシロギクではないかともいう。 ◆承久の乱 鎌倉時代前期、1221年に起きた承久の乱(じょうきゅう-の-らん)は、朝廷と鎌倉幕府との争乱になった。後鳥羽上皇(第82代)は、以前より公家勢力の回復を図り、鎌倉幕府打倒の機をうかがっていた。 1198年、上皇は院制を始める。1199年に初代将軍・源頼朝が亡くなり、有力御家人が相次いで反抗し幕府内が混乱した。1219年、朝廷重視に傾いていた3代将軍・源実朝の暗殺事件が起きる。犯行は、実朝の甥・公暁(実朝の兄・実朝の子)による。上皇は幕府の内紛に乗じ、1221年旧5月15日に2代執権・北条義時の追討(誅殺)命令を発し挙兵した。上皇軍は畿内周辺の武士・在京中の御家人1万9000騎が応じた。幕府軍は19万騎が東海道(10万)・東山道(5万)・北陸道(4万)の3方面に分かれ京都に進軍した。 幕府軍は北条政子・義時を中心に固く結束し、朝廷方は瀬田・宇治の戦いなど要所で敗れた。1カ月後の旧6月15日に上皇は謀臣に欺かれたとの院宣を出して降伏している。幕府は第85代・仲恭天皇の廃位、後鳥羽上皇・土御門上皇(第83代)・順徳上皇(第84代)の3上皇も配流にした。上皇らの荘園3000余が没収され、以後、朝廷の財政基盤は揺らぐ。朝廷方公卿・武士の所領も没収され、新補地頭が設置される。鎌倉時代後期、1319年-1322年頃に、幕府は朝廷監視のために六波羅探題の設置などを行った。 以後、公家政権は衰え、北条氏執権体制が進展した。幕府の勢力は一挙に西国にも拡大し、全国制覇の基礎を固めた。 82 後鳥羽天皇(在位 :1183-1198)→83 土御門天皇(在位 :1198-1210)→84 順徳天皇(在位 :1210-1221)→ 85 仲恭天皇(在位 :1221-1221)→86 後堀河天皇(在位 :1221-1232)→87 四条天皇(在位 :1232-1242)→88 後嵯峨天皇(在位 :1242-1246) *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『歴代天皇年号事典』、『京都市の地名』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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