小倉山荘跡・旧二条墓 (京都市右京区嵯峨)
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小倉山荘跡・旧二条墓 小倉山荘跡・旧二条墓
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かつての山荘の建つ敷地の一角とみられる一帯の空き地、旧二条墓地の南西方向になる。奥に小倉山などが見える。


付近より見た小倉山


【参照】二條家蔵跡、二尊院の墓地内にある。
 藤原定家ゆかりの小倉山荘(おぐらの-さんそう)のあった場所については、諸説があり特定されていない。嵯峨周辺には複数の山荘跡が存在している。
 山荘は、近年まであった二条家の墓(二条墓)付近に存在したともいう。かつて墓碑が立てられていた。現在は宅地化し、痕跡はない。
◆歴史年表 鎌倉時代1205年、藤原定家は、冷泉高倉第より「小倉山荘(嵯峨草庵)」を訪れた。(『明月記』)。定家は山荘を姉・健寿女より譲られている。
 後に、定家は、山荘敷地の東半分を藤原頼綱(蓮生、1172-1259)に譲る。頼綱は敷地に「中院山荘(中院草庵)」を新築した。
 1241年、定家が亡くなり、その後、小倉山荘、敷地は、定家の子・為家に譲られる。為家は、頼綱の敷地も伝領した。為家は晩年に、妻・阿仏尼とともに山荘に暮らした。
 後に、為家は、山荘、敷地を孫娘・九条左大臣女(1251?-?)に譲る。
 その後、九条左大臣女は、山荘、敷地を娘・禖子(?-?)に譲る。  
 後に、禖子は、公卿・二条兼基(にじょうかねもと、1267-1334)の室となり、その後、山荘、屋敷は二条家に伝領された。  
 南北朝時代-室町時代、二条家は敷地の東北部に、二条家の墓地を設けた。
 戦国時代、山荘、敷地は次第に失われた。
◆藤原定家 平安時代後期-鎌倉時代中期の公卿・歌人・古典学者・藤原定家(ふじわら-の-ていか/さだいえ、1162-1241)。男性。初名は光季、季光、京極黄門、京極中納言、法名は明静(みょうじょう) 。父・歌人・藤原俊成、母・美福門院加賀(藤原親忠の娘)の次男。1178年頃、賀茂別雷社の歌合に出詠した。1180年/1179年、内昇殿が認められる。この頃、漢文日記『明月記』を記し始めた。1181年、親しく仕えていた第80代・高倉天皇が亡くなる。1183年、父が後白河上皇(第77代)の命により編纂した『千載和歌集』を手伝う。1185年、殿上での闘乱事件により除籍される。父のとりなしにより、1186年、摂政・九条兼実に仕えた。1200年、百首歌を企画し、後鳥羽上皇(第82代)に見出される。1201年より、和歌所の寄人に選ばれ、『新古今和歌集』の編纂に加わる。1202年、中将、1211年、公卿になる。1220年、内裏二首御会での作が、後鳥羽院の逆鱗に触れ閉門を命じられた。1232年、権中納言に昇る。第86代・後堀河天皇の勅により『新勅撰和歌集』を単独で編じた。1233年、病を得て出家する。晩年、古典研究に没頭する。日記『明月記』(1180-1235)、和歌自選集『拾遺愚草』、歌論『近代秀歌』、『源氏物語奥入』 、物語『松浦宮物語 』など多数。80歳。
 正二位権中納言。鎌倉時代初期の歌壇の中心になる。最上の歌体とされる「有心(うしん)体」を提唱し、新古今調を大成した。九条良経、慈円、女房大輔、徳大寺家、西行などと交流した。源実朝から和歌の指導を求められた。後世、歌道の師とされる。墨蹟は「定家風」と呼ばれた。邸宅は京内に数カ所あり、晩年は一条京極に移る。嵯峨に山荘を営み『小倉百人一首』を編んだ。
 墓は相国寺・普広院(上京区)にある。
◆宇都宮蓮生 平安時代後期-鎌倉時代中期の武将・宇都宮蓮生(うつのみや-れんしょう、 1172/1178-1259)。男性。頼綱、通称は弥三郎、実信房、法名は蓮生、宇都宮入道、小倉入道、宇都宮検校など。父・宇都宮成綱、北条時政の女婿。宇都宮5代城主、鎌倉幕府御家人になる。1194年、祖父・朝綱の公田掠領の罪に連座し配流される。まもなく許された。1205年、平賀朝雅の将軍擁立という北条時政の陰謀事件に関連して疑いをかけられた。下野で出家し、宇都宮蓮生と称した。この時、郎党60余人も出家した。摂津箕面・勝尾寺で法然に会う。弟・信生(塩谷朝業)と共に法然の弟子になる。1212年、法然没後はその高弟・証空に師事し、西山往生院の復興を行う。1227年、天台衆徒より法然遺骸を護った一人になる。藤原定家より歌を学び、定家の子息・為家に娘を嫁がせた。二尊院近くの小倉山麓に「中院山荘」を構える。1235年、山荘障子に貼る色紙の執筆を定家に依頼し、定家は天智天皇以来の一首ずつを綴り、「小倉百人一首」の原型になる。1257年、三鈷寺で不断念仏を始める。西山上人13回忌の準備途中で亡くなる。『新勅撰集』以下の勅撰集に入集している。88歳。
 遺言により、西山上人石塔の横に蓮生の石塔を建てて供養した。現在、三鈷寺・華台廟に西山上人と共に祀られている。
◆藤原為家 鎌倉時代前期-中期の公家・歌人・藤原為家(ふじわら-の-ためいえ、1198-1275)。男性。別称は中院禅師、民部卿入道、法名は融覚。父・藤原定家、母・内大臣・西園寺実宗(さねむね)の娘の長男。妻は宇都宮頼綱の娘。1205年、元服し伯父・西園寺公経の猶子になる。当初、蹴鞠に執心し父を嘆かせた。蹴鞠により後鳥羽院(第82代)、順徳院(第84代)の寵を受ける。建保年間(1213-1219)、歌作に努め「為家卿千首」を詠じた。1221年、後鳥羽上皇による討幕である承久の乱で、順徳天皇の佐渡配流の供奉者に応じなかったという。乱後、1223年、「為家卿千首」を詠じる。後嵯峨院(第88代)歌壇の中心になる。1226年、参議として公卿に列した。1236年、権中納言、1241年、父の死後に後継者になる。権大納言に昇る。後嵯峨院の撰集下命により、1251年、『続後撰(しょくごせん)和歌集』を単独で撰じた。1252年頃、阿仏尼(安嘉門院四条)と知り合い嵯峨に同棲した。1256年、出家する。1263年、後妻・阿仏尼が為相を産み溺愛した。1265年、『続古今和歌集』を藤原基家ら4人と共撰する。慈円より励まされる。知家蓮性、光俊(真観)らの抵抗にあう。実際には嫡男・為氏に一任したという。勅撰集に入集、家集『為家集』、歌論書『詠歌一体 』など。78歳。
 権大納言・民部卿、正二位。 父の歌風を継ぎ、二条派、御子左家(みこひだりけ)を確立し、後嵯峨院歌壇歌人として活躍した。鞠道、絵画にも秀でた。没後、遺領相続の件で御子左家は、子・為氏(ためうじ、1222-1286、二条家の祖)(母は宇都宮頼綱の娘)、為教(ためのり、1227-1279、京極家の祖)(母は宇都宮頼綱の娘)、為相(ためすけ、1263-1328、冷泉家の祖)(母は阿仏尼)により歌道家の3家分立になる。
 墓は厭離庵(右京区)にある。
阿仏尼 鎌倉時代前期-後期の歌人・阿仏尼(あぶつ-に、1222-1283)。女性。北林禅尼。父・武士・平度繁(たいら-の-のりしげ)養女/娘。夫・源顕定より離別された。14歳-15歳で安嘉門院に仕え、妻ある人との失恋後出家したともいう。西大寺末の尼寺・法華寺に住み慈阿弥陀仏と称した。この頃3人の子があった。1252年、30歳頃、公卿・藤原為家(1198-1275)の娘に呼ばれ、『源氏物語』の書写をした。1253年、為家の側室となり、冷泉為相、為守を産む。阿仏尼54歳の時に為家が亡くなる。この後、出家し大通寺に住んだ。播磨細川荘の相続をめぐり正妻、その子・為氏と阿仏尼の子・為相が争う。当初は六波羅に訴えた。1279年、阿仏尼は幕府に訴えるために鎌倉に向かう。その紀行、鎌倉の出来事を記したものが『十六夜日記』となる。鎌倉で武士らに歌を教えたという。鎌倉で没したとも、大通寺で余生を送り亡くなったともいう。60余歳。
 歌論書『夜の鶴』、失恋記『うたたね』を著し、勅撰和歌集に入集。大通寺に阿仏塚がある。1313年、為相が細川荘の地頭職に決まり母・阿仏尼の悲願達成になった。
◆九条左大臣女 鎌倉時代中期の歌人・九条左大臣女(1251?-?)。詳細不明。女性。父・九条左大臣(九条道良)、母・大納言典侍(藤原為家の娘)。早くに両親を亡くした。祖父・為家に育てられる。後、関白・九条忠教に嫁す。1278年、『続拾遺集』に初入集、1299年-1303年、京極派の歌合に参加し、伏見院三十首歌に詠進した。
◆二条禖子 鎌倉時代の二条禖子(?-?)。詳細不明。女性。父・公卿・九条忠教(くじょう-ただのり、1248-1332)、母・不明。公卿・二条兼基(にじょう-かねもと、1267-1334)の室になる。  
◆小倉山荘 小倉山荘の場所については特定されていない。
 定家は「小倉山荘(嵯峨草庵)」を姉・健寿女より譲られた。山荘は、廃寺になった往生院(祇王寺)の東にあったという。愛宕神社に向かう愛宕路が山荘の西、南に接していた。敷地は8000坪あり、小さな山荘は南西に建てられていたという。山荘は、室町時代前期には「時雨第(しぐれてい)」と呼ばれる。後に「時雨の亭(しぐれのちん)」とも称された。
 後に、定家は敷地の東半分を藤原頼綱(蓮生)に譲る。頼綱は「中院山荘(中院草庵)」を新築した。定家は、小倉山荘、中院山荘をたびたび訪れた。鎌倉時代中期、1235年、頼綱は、中院山荘の障子に貼る色紙和歌の選定、執筆を定家に依頼する。定家は「百人秀歌」を編している。定家は、「古今集」以下の勅撰集より選び、色紙に第38代・天智天皇以来の名歌人の作を書いたという。定家晩年のことになる。これが、「小倉百人一首」「小倉山荘色紙形和歌(小倉山荘色紙和歌)」と呼ばれた。1241年に、定家が亡くなり、その後、山荘敷地は子・為家に譲られる。為家は、頼綱の敷地も譲られる。為家は頼綱の女婿になる。為家は晩年に、後妻・阿仏尼とともに山荘に暮らした。阿仏尼は、山荘で『源氏物語』を書写したという。
 後に、為家は、孫娘・九条左大臣女(1251?-?)に山荘、土地を譲る。その後、九条左大臣女は、娘・よし子(?-?)に譲る。後に、よし子は公卿・二条兼基(にじょう-かねもと、1267-1334)の室となり、山荘、屋敷は二条家に伝領された。南北朝時代-室町時代に、二条家は山荘の東北部に二条家の墓地を設けた。
 その後、戦国時代、山荘、敷地も失われる。二条家の墓はその後も残り、二条墓(嵯峨二尊院門前往生院町)として伝えられた。近年、墓地は宅地化された。小倉山荘は、旧墓地の南西付近にあったとみられる。
 往生院町の北に隣接する善光寺町に、「二条家古墓」があったともいう。竹薮の中に塚が造られていた。良基、良実、師忠、兼基、道平、良基、師嗣、満基、持基、持通、政嗣、尚基、尹房が葬られていたという。
◆小倉山 小倉山は大堰川を挟んで嵐山の東に位置している。ただ、嵐山を指したともいう。
 歌枕にもなっている。「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも」(『万葉集』巻八、秋雑歌、岡本天皇、一五一一)、「如何せむをぐらの山の郭公おぼつかなしと音をのみぞなく」(「『古今集』秋下、紀貫之、三一二」)。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『平安京散策』、『平安の都』、『京都大事典』、『京都の地名検証』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、ウェブサイト「コトバンク」


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