藤原定家 京極邸跡 (京都市中京区)
Ruins of Fujiwara no,Teika Residence(Kyogoku-tei)
藤原定家 京極邸跡  藤原定家 京極邸跡
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「此附近 藤原定家京極邸址」の石標
 寺町通二条上ル西側に「此附近 藤原定家京極邸址(このふきん-ふじわら-の-ていか-きょうごくてい-あと)」の石標が立つ。
 この地には、鎌倉時代前期の歌人・藤原定家の京極邸があったという。定家は、邸地に因み「京極中納言」と称された。 
◆歴史年表 鎌倉時代前期、1202年、この地、京極二条(平安京左京二条四坊十三町)に、藤原定家が移り住む。京極邸と呼ばれた。邸宅では毎月、歌会が催され、招かれることが当時の歌人たちの誇りになっていた。
 その後、京極邸は定家の子・為家(1198-1275)に引き継がれた。晩年の定家は一条京極に移る。
 鎌倉時代中期、為家の子・二条為氏(1222-1286)に引き継がれた。
◆藤原定家 平安時代後期-鎌倉時代中期の公卿・歌人・古典学者・藤原定家(ふじわら-の-ていか/さだいえ、1162-1241)。初名は光季、季光、京極黄門、京極中納言、法名は明静(みょうじょう) 。歌人・藤原俊成の次男、母は藤原親忠の娘(美福門院加賀)。1178年頃、賀茂別雷社の歌合に出詠した。1180年/1179年、内昇殿が認められる。この頃、漢文日記『明月記』を記し始めた。1181年、親しく仕えていた第80代・高倉天皇が亡くなる。1183年、父が後白河上皇(第77代)の命により編纂した『千載和歌集』を手伝う。1185年、殿上での闘乱事件により除籍される。父のとりなしにより、1186年、摂政・九条兼実に仕えた。1200年、百首歌を企画し、後鳥羽上皇(第82代)に見出される。1201年より、和歌所の寄人に選ばれ、『新古今和歌集』の編纂に加わる。1202年、中将、1211年、公卿になる。1220年、内裏二首御会での作が、後鳥羽院の逆鱗に触れ閉門を命じられた。1232年、権中納言に昇る。第86代・後堀河天皇の勅により『新勅撰和歌集』を単独で編じた。1233年、病を得て出家する。晩年、古典研究に没頭する。日記『明月記』(1180-1235)、和歌自選集『拾遺愚草』、歌論『近代秀歌』、『源氏物語奥入』 、物語『松浦宮物語 』など多数。80歳。
 正二位権中納言。鎌倉時代初期の歌壇の中心になる。最上の歌体とされる「有心(うしん)体」を提唱し、新古今調を大成した。九条良経、慈円、女房大輔、徳大寺家、西行などと交流した。源実朝から和歌の指導を求められた。後世、歌道の師とされる。墨蹟は「定家風」と呼ばれた。邸宅は京内に数カ所あり、晩年は一条京極に移る。嵯峨に山荘を営み「小倉百人一首」を編んだ。
 墓は相国寺・普広院(上京区)にある。
◆藤原為家 鎌倉時代前期-中期の公家・歌人・藤原為家(ふじわら-の-ためいえ、1198-1275)。別称は中院禅師、民部卿入道、法名は融覚。藤原定家の長男、母は内大臣・西園寺実宗(さねむね)の娘。妻は宇都宮頼綱の娘。1205年、元服し伯父・西園寺公経の猶子になる。当初、蹴鞠に執心し父を嘆かせた。蹴鞠により後鳥羽院(第82代)、順徳院(第84代)の寵を受ける。建保年間(1213-1219)、歌作に努め「為家卿千首」を詠じた。1221年、後鳥羽上皇による討幕である承久の乱で、順徳天皇の佐渡配流の供奉者に応じなかったという。乱後、1223年、「為家卿千首」を詠じる。後嵯峨院(第88代)歌壇の中心になる。1226年、参議として公卿に列した。1236年、権中納言、1241年、父の死後に後継者になる。権大納言に昇る。後嵯峨院の撰集下命により、1251年、『続後撰(しょくごせん)和歌集』を単独で撰じた。1252年頃、阿仏尼(安嘉門院四条)と知り合い嵯峨に同棲した。1256年、出家する。1263年、後妻・阿仏尼が為相を産み溺愛した。1265年、『続古今和歌集』を藤原基家ら4人と共撰する。慈円より励まされる。知家蓮性、光俊(真観)らの抵抗にあう。実際には嫡男・為氏に一任したという。勅撰集に入集、家集『為家集』、歌論書『詠歌一体 』など。78歳。
 権大納言・民部卿、正二位。 父の歌風を継ぎ、二条派、御子左家(みこひだりけ)を確立し、後嵯峨院歌壇歌人として活躍した。鞠道、絵画にも秀でた。没後、遺領相続の件で御子左家は、子・為氏(ためうじ、1222-1286、二条家の祖)(母は宇都宮頼綱の娘)、為教(ためのり、1227-1279、京極家の祖)(母は宇都宮頼綱の娘)、為相(ためすけ、1263-1328、冷泉家の祖)(母は阿仏尼)により歌道家の3家分立になる。
 墓は厭離庵(右京区)にある。
◆二条為氏 鎌倉時代前期-中期の公卿・歌人・二条為氏(にじょう-ためうじ、1222-1286)。御子左(みこひだり)為氏、法号は覚阿。父は権大納言・藤原為家の長男。母は宇都宮頼綱の娘。祖父・藤原定家の寵愛を受けた。父に和歌を学ぶ。1247年、『百三十番歌合』に出詠。亀山上皇(第90代)の命で「続拾遺和歌集」を撰集した。1248年、『宝治百首』などに出詠。
 地名より二条家と称した。遺領を異母弟・冷泉為相(れいぜい-ためすけ)と争い、弟・京極為教とも対立した。このため、二条家、京極(為教)家、冷泉(為相)家の3家分裂になる。1285年、出家し覚阿と号した。正二位、権大納言。二条家の祖。65歳。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都 歴史案内』、『京都史跡事典』、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 藤原定家 京極邸跡 〒604-0916 京都市中京区要法寺前町716-1,寺町通二条上ル西側 古梅園京都支店脇 
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