慈眼堂 (京都市右京区)
Jigen-do Temple
慈眼堂 慈眼堂 
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千手観音立像(中院観音)、説明板より


地蔵尊

 小堂の慈眼堂(じげん-どう)は、「中院観音(ちゅういん-かんのん)」とも呼ばれている。御堂は、旧愛宕道に面し、一帯は中院(ちゅう-いん)と呼ばれている。かつて上嵯峨村に属した。 
 本尊は千手観音立像(中院観音)を安置する。
◆歴史年表 鎌倉時代前期、12世紀(1101-1200)末、藤原定家(1162-1241)は中院に山荘を構え、嵯峨のこの地を度々訪れたという。慈眼堂は定家の開基によるともいう。
 江戸時代、1822年、この地の豪農・浜松屋善助(浜善)が没落した。屋敷内に安置の定家の念持仏・千手観音像は、現在地に遷されて安置された。以後、町民により祀られている。
 現代、1985年、本尊は京都市指定有形文化財に指定された。
◆藤原定家 平安時代後期-鎌倉時代中期の公卿・歌人・古典学者・藤原定家(ふじわら-の-ていか/さだいえ、1162-1241)。男性。初名は光季、季光、京極黄門、京極中納言、法名は明静(みょうじょう) 。父・歌人・藤原俊成、母・美福門院加賀(藤原親忠の娘)の次男。1178年頃、賀茂別雷社の歌合に出詠した。1180年/1179年、内昇殿が認められる。この頃、漢文日記『明月記』を記し始めた。1181年、親しく仕えていた第80代・高倉天皇が亡くなる。1183年、父が後白河上皇(第77代)の命により編纂した『千載和歌集』を手伝う。1185年、殿上での闘乱事件により除籍される。父のとりなしにより、1186年、摂政・九条兼実に仕えた。1200年、百首歌を企画し、後鳥羽上皇(第82代)に見出される。1201年より、和歌所の寄人に選ばれ、『新古今和歌集』の編纂に加わる。1202年、中将、1211年、公卿になる。1220年、内裏二首御会での作が、後鳥羽院の逆鱗に触れ閉門を命じられた。1232年、権中納言に昇る。第86代・後堀河天皇の勅により『新勅撰和歌集』を単独で編じた。1233年、病を得て出家する。晩年、古典研究に没頭する。日記『明月記』(1180-1235)、和歌自選集『拾遺愚草』、歌論『近代秀歌』、『源氏物語奥入』 、物語『松浦宮物語 』など多数。80歳。
 正二位権中納言。鎌倉時代初期の歌壇の中心になる。最上の歌体とされる「有心(うしん)体」を提唱し、新古今調を大成した。九条良経、慈円、女房大輔、徳大寺家、西行などと交流した。源実朝から和歌の指導を求められた。後世、歌道の師とされる。墨蹟は「定家風」と呼ばれた。邸宅は京内に数カ所あり、晩年は一条京極に移る。嵯峨に山荘を営み「小倉百人一首」を編んだ。
 墓は相国寺・普広院(上京区)にある。
◆藤原為家 鎌倉時代前期-中期の公家・歌人・藤原為家(ふじわら-の-ためいえ、1198-1275)。男性。別称は中院禅師、民部卿入道、法名は融覚。父・藤原定家、母・内大臣・西園寺実宗(さねむね)の娘の長男。妻・宇都宮頼綱の娘。1205年、元服し伯父・西園寺公経の猶子になる。当初、蹴鞠に執心し父を嘆かせた。蹴鞠により後鳥羽院(第82代)、順徳院(第84代)の寵を受ける。建保年間(1213-1219)、歌作に努め「為家卿千首」を詠じた。1221年、後鳥羽上皇による討幕である承久の乱で、順徳天皇の佐渡配流の供奉者に応じなかったという。乱後、1223年、「為家卿千首」を詠じる。後嵯峨院(第88代)歌壇の中心になる。1226年、参議として公卿に列した。1236年、権中納言、1241年、父の死後に後継者になる。権大納言に昇る。後嵯峨院の撰集下命により、1251年、『続後撰(しょくごせん)和歌集』を単独で撰じた。1252年頃、阿仏尼(安嘉門院四条)と知り合い嵯峨に同棲した。1256年、出家する。1263年、後妻・阿仏尼が為相を産み溺愛した。1265年、『続古今和歌集』を藤原基家ら4人と共撰する。慈円より励まされる。知家蓮性、光俊(真観)らの抵抗にあう。実際には嫡男・為氏に一任したという。勅撰集に入集、家集『為家集』、歌論書『詠歌一体 』など。78歳。
 権大納言・民部卿、正二位。 父の歌風を継ぎ、二条派、御子左家(みこひだりけ)を確立し、後嵯峨院歌壇歌人として活躍した。鞠道、絵画にも秀でた。没後、遺領相続の件で御子左家は、子・為氏(ためうじ、1222-1286、二条家の祖)(母は宇都宮頼綱の娘)、為教(ためのり、1227-1279、京極家の祖)(母は宇都宮頼綱の娘)、為相(ためすけ、1263-1328、冷泉家の祖)(母は阿仏尼)により歌道家の3家分立になる。
 墓は厭離庵(右京区)にある。
◆仏像 ◈本尊「十一面千手観音立像」(京都市指定有形文化財)」が安置されている。鎌倉時代初期(12世紀末-13世紀初頭)作になる。「中院観音」とも呼ばれ、藤原定家の念持仏という。定家没後、子・為家に伝えられ、後に中院(愛宕神社の中院)の人々に与えられという。かつて、この地の豪農・浜松屋善助(浜善)の屋敷内にあった御堂に安置されていたという。江戸時代後期、1822年、浜善が没落し、千手観音像は現在地に遷されて安置された。以後、町民により祀られている。
 木造、寄木造、漆箔、彫眼。像高 58.1cm。
 ◈「毘沙門天立像」を安置している。
 ◈定家、為家、為相の位牌が祀られている。
◆年間行事 日待(ひまち)の行事(中院の人々が行う。定家、為家の法要も営む。)(1月14日夜-15日の日出)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 説明板、『昭和京都名所図会 4 洛西』、ウェブサイト「コトバンク」


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慈眼堂 〒616-8428 京都市右京区嵯峨二尊院門前北中院町13-1 
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