前川(松ヶ崎) (京都市左京区)
Maekawa River
前川 前川 
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前川、背景は東山


前川沿いにある「せせらぎ通り」の碑



高野川沿い山端(やまばな)の懐石料理屋・料理旅館の平八茶屋創業は、安土・桃山時代の1576年、旧若狭街道沿いに建つ街道茶屋で、丹波篠山産のつくね芋を使用した麦飯とろろ汁が伝承料理。「かま風呂」もある。
 壬生狂言演目『山端とろろ』は、この店が舞台となっている。店に盗人が押し入り、とろろの鉢がひっくり返り、賊は足を滑らせるという話。
 江戸時代の儒学者・頼山陽『山陽詩鈔』、夏目漱石『虞美人草』、徳富蘆花 『思い出の記』にも店の名が登場する。幕末の頃、勤王志士の会合場として店が使われ、新選組の嫌がらせによって付けられたという刀傷が母屋の入口にいまも残る。
◆松ヶ崎 かつて松ヶ崎は、山城国愛宕郡栗錦部郷に属した。平安遷都(794)の際に、奈良平城京の百姓百軒(松ヶ崎百人衆)が、皇室向けの米作りのためにこの地に移住したともいう。
 松ヶ崎の地名の由来は、北山の崎(端)にあり、虎の背山といわれる西山、林山、東山、城山などに松林があったことによる。また、古くからの景勝地であり、和歌や『源氏物語』第4帖「夕霧」巻にも登場する。 
 さらに、主水司所管の天然氷の所蔵所「松崎氷室」(ひむろ)もあったといわれている。その場所は、宝ヶ池の東、丈ヶ谷の奥付近ともいう。
 平安時代、嵯峨天皇は松ヶ崎川で禊払いをしたという。(『日本後記』、810年の項)
◆前川 五山の送り火で知られる松ヶ崎の「妙」(万灯龍山、西山、標高133m)、「法」(大黒天山、東山、標高187m)を北にして、前川は「せせらぎ通り」の街並みを、東から西に流れている。
 水源は、子供の楽園の東、高野川の井出ケ鼻井堰から引かれている。松ヶ崎から下鴨を「今海道川」「泉川」となって流れ、下鴨神社の境内、糺の森を経て、賀茂川と高野川の合流する三角州の葵公園から、再び高野川に注いでいる。この泉川は現在は高野川から引かれているが、かつての水源はこの松ヶ崎にあったという。
 前川の名称も、「前の川」「かんちょかわ」「大川」「古川」「川の(之)町川」「平田川」ながある。また、分流には「談所川」「タテ(たて)川」という呼び名もある。
 松ヶ崎では、三川となり西へ流れていた。①北には樋ノ井があり、中流からは談所川となる。②上の井は中流で前川、川之町川、平田川となった。③下の井は中流で「たて川」となった。三川はやがて泉川に合流し、下鴨へと流れていた。
 前川は、かつては灌漑用の水路だった。また、生活用水、防火用水としても利用され、庭園にも水が引き入れられていた。水車場もあり、精米も行われていた。家々には、川に降りられる「使い場(つかいば)」があり、かつてはここで野菜を洗い、顔を洗ったりしていた。
◆水争い 上流には、高野、修学院、一乗寺、田中(高野)の村、下流には下鴨などの村々があり、前川は、古くより近隣の田畑を潤してきた。だが、八瀬から高野の辺まで、水を取り入れる井堰は40箇所以上もあり、水飢饉の際には水量をめぐって村同士で度重なる水争いが生じた。
 特に、太田井堰を巡っては、松ヶ崎を含む周辺6村で問題が生じた。水量の少なくなる高野川西岸の松ヶ崎、下鴨が井堰の破壊、新しい分水路を築いたりしたため、京都町奉行所への訴訟(10回以上)も相次いだ。また、松ヶ崎と下鴨の間にも分水割合を巡り対立が生じた。その時には、村役による話し合い、水役による村人の仲裁も行われた。
 また、川の維持管理のための作業もあった。村には、「松ヶ崎定法(じょうほう)」「若衆条目」「座中間条目」などの取り決めがあった。
 江戸時代、松ヶ崎村では、山を越えた村の北部に、灌漑用の溜池・宝が池を確保している。水争いは、明治の頃まで続いたという。
◆松ヶ崎浮菜蕪 松ヶ崎浮菜蕪(まつがさきかぶら)は、明治期(1868-1912)初期、松ヶ崎で栽培されていた。糠漬けに用いられた。
 現在は、「京の伝統野菜」として種子保存されている。


*参考文献  『松ヶ崎のはなしとことば』『松ヶ崎』『京の伝統野菜』 


  宝ヶ池公園     涌泉寺     氷室神社        


高野川の井出ケ鼻井堰

 松ヶ崎 京都市左京区
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