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桜井水 (京都市左京区) Sakuraisui |
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桜井水 | 桜井水 |
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![]() ![]() ![]() 法華題目の石標 |
宝ヶ池近く、狐坂下の林山(171m)に桜井水(さくら-すい)はある。古くより湧水があり、旱魃の際にも涸れなかったという。 現在も湧水は続き、涌泉寺の墓参者の供え水として使われている。 ◆歴史年表 平安時代、1000年頃、「桜井」と記されている。(『枕草子』) ◆行慶 平安時代後期の僧・行慶( ぎょうけい、1101-1165)。男性。通称は桜井僧正、狛僧正。父・第72代・白河天皇、母・源政長の娘。大僧正行尊に天台を学ぶ。1135年、摂津四天王寺別当、権僧正になる。1152年、第76代・近衛天皇の護持僧、園城寺長吏になった。65歳。 ◆覚仁法親王 鎌倉時代前期-中期の皇族・覚仁法親王(かくにん-ほうしんのう、1198-1266)。男性。桜井宮。父・第82代・後鳥羽天皇、母・滝。法住寺に入る。1218年、親王、同年/1242年、園城寺長吏、1248年、熊野三山・新熊野検校になり、後嵯峨上皇(第88代)の熊野行幸の先達をした。1221年、承久の乱で流された弟・頼仁親王と備前・尊滝院で、五流修験再興に尽くしたという。69歳。 ◆桜井水 ◈平安時代中期の清少納言(966?-1025?)の『枕草子』(168段)には、「井は、ほりかねの井。走り井は逢坂なるがをかしき。山の井、さしも浅きためしになりはじめけむ。飛鳥井『みもひも寒し』とほめたるこそをかしけれ。玉の井、少将ノ井、櫻井、后町の井。千貫の井。」と記されている。 ただ、この「櫻井」が当地に当るかについては異説もある。 ◈平安時代中期の紫式部(?-?)は、詞書「古歌に 六月ばかり 桜井の聖のもとに 行きたりしに」とし、「鶯の鳴きしに 春めける声に聞こえし 鶯は また桜井にすめるなりけり」(『日記歌』)と詠んだ。 ◈この地は、白河天皇皇子・桜井僧正(行慶)、後鳥羽天皇皇子・覚仁法親王(桜井宮)の旧跡ともいう。 ◆石碑 井の上に「南無妙法蓮華経」の法華題目が彫られた石柱(2m)が立つ。 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『昭和京都名所図会 3 洛北』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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