|
|
三条台若中会所 (京都市中京区) Sanjodai-wakaju-kaisho |
|
三条台若中会所 | 三条台若中会所 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() |
武信稲荷神社の斜め辻向かいに、祇園祭の神輿御渡に関わっている三条台若中会所(さんじょうだい-わかじゅう-かいしょ)がある。 ◆歴史年表 江戸時代、1604年、二条城築城に伴い、この付近は二条御廻りと呼ばれた。 江戸時代、元禄(1688-1703)-享保(1716-1735)、三条台村という地名に改変される。 1690年頃より、八坂神社の祇園祭・神輿御渡に「三条台若中」が奉仕し、神輿渡御に関わった。 1832年、民家を会所に定める。 1862年、建物が改築される。 近代、明治期まで三条台若中は中御座・東御座・西御座の三座ともに関わっていたという。 1905年、三若組(現在の三若神輿会)と、祇園祭を維持運営している祇園会に改変された。三若神輿会は現在、中御座を担いでいる。 1927年、現在の建物が建替えられている。 ◆三条台若中 「三条台若中(さんじょうだい-わかじゅう)」は、現在の「三若神輿会(三若)」の前身になり、3基の神輿の舁手(かきて、輿丁[よちょう])の内で最も古い歴史を持つ。 中世(鎌倉時代-室町時代)-安土・桃山時代までは、大坂・今宮の蛤売り商人(今宮神人)が八坂神社の祇園祭・神輿御渡の舁手だった。 江戸時代前期、1690年頃から、三条台若中は神輿渡御に関わるようになる。三条台村は、現在の八坂神社御供社(又旅社)(中京区)のある三条大宮一帯にあった。この地には、神輿3基を奉安した斎場があった。 三条台若中は、この地域の地主・材木商などの旦那衆で構成された寄合組織だった。神輿舁手は、付近の農民・材木運搬車が担った。なお、江戸時代中期、1729年に、「三条台村」の名が記されている。(「山城国高八郡村名帳」) 近代、明治期(1868-1912)初期まで、三条台若中は、中御座・東御座・西御座の3座に関わり、取りまとめていたという。 1905年、「三若組(現在の三若神輿会)」と、祇園祭を維持運営する「祇園会」に改変される。1930年にそれぞれ「三若神輿会」と「祇神会」に編成された。 三若神輿会は現在は中御座を舁いている。輿手700人と下部組織の「三若みこし会」10に分かれている。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 説明板、『祇園祭-その魅力のすべて』、『京都市の地名』 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|