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御手洗井 (京都市中京区) Mitarai-i(well) |
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御手洗井 | 御手洗井 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 小さな井戸は、祇園祭の期間限定で開放される 。 |
烏丸通東の御手洗井町(てあらいみず-ちょう)に、御手洗井(みたらし-い/みたらい-い)はある。 かつてこの地には、祇園社の御旅所があったという。井戸は地下水脈で八坂神社に繋がっているとされた。 ◆歴史年表 室町時代末、この地に、祇園社の御旅所があったという。その東側には祇園社御旅所社預・藤井助正の邸宅があった。庭前に牛頭天王社が祀られ、霊水が奉供されていた。 1568年、織田信長の上洛に際し、御旅所は現在地(寺町四条)に移転になる。その後も、祇園祭の際には人々に神水が施される。 安土・桃山時代、1590年、豊臣秀吉の「天正の町割」で、町民が秀吉に請い、御手洗井に因み町名を手洗水町に改名したという。(『明倫誌』) 近代、1912年、3月、烏丸通が拡張された際に、井戸は現在地に移転している。 ◆藤井助正 室町時代の藤井助正(?-?)。詳細不明。祇園社御旅所社預だった。 ◆御手洗井 室町時代末、この地に、祇園社の御旅所があったという。その東側には、祇園社御旅所社預・藤井助正の邸宅があった。庭前に牛頭天王社が祀られ、毎朝、邸内の井戸から霊水を汲みあげ奉供していたという。祇園会当日には、神輿供奉の人々の御手洗い・口漱ぎに用いられていた。 室町時代後期、1568年に、織田信長の上洛に際し、御旅所は現在地(寺町四条)に移転になったという。 その後も、井戸の鍵は町年寄が預かり、井戸は祇園会の際にのみ開けられていた。祇園会には、東裏にあった竹藪より竹2本を切り出し、山科郷の1丈6尺(4.85m)の松2本により井戸の鳥居に結んだという。 江戸時代前期、1665年には、毎年の祇園会(6月7日-14日)に井水を手水に使い、井戸には常に柵木が結いまわしてあると記されている。(『京雀』) 近代、1912年3月に、烏丸通が拡張された際に、井戸は東方に数間の現在地に移転している。 現在も祇園祭では竹と松により、鳥居に注連縄が飾られるのが慣わしになっている。 ◆井泉 井戸は、八坂神社の龍穴に関わりがあるとされる。井の龍神は、神幸祭の神輿に乗り、御旅所から八坂神社へ還幸し、再び井戸に戻るという。夏にこの水を飲むと疫病に罹らないと伝えられる。 1997年に京都市営地下鉄東西線が開通し、一帯の井戸が次々に涸れた。現在は、地下70mよりポンプで水を汲み上げている。飲料可。 ◆遥拝式 「遥拝式(井戸開き)」(7月15日早朝)の神事がある。井戸は普段は柵により閉じられている。 竹2本を建て注連縄を張り直す。粽・トビウオ・ウリ・お神酒を供え、手を清めた参列者が井戸に向かって拝む。井戸は祇園祭還幸祭(7月24日)まで開け放たれる。 かつて、織田信長(1534-1582)の命により祇園祭の期間のみ井戸が開かれるようになったという。また、井戸開きには長刀鉾稚児が参拝する習わしがあった。1970年代に、長刀鉾稚児の儀式が簡素化され途絶えたという。 ◆御手洗井町 御手洗井町(てあらいみず-ちょう)は、烏丸通(旧・烏丸小路)を挟んである。平安時代の平安京では、西側に左京四条三坊三保一一町東、東に同一四町西があった。平安時代中期以降は、四条坊門烏丸小路南になる。 安土・桃山時代、1590年に、豊臣秀吉の「天正の町割」で、町民が秀吉に請い御手洗井に因み、町名が手洗水町に改名されたという。(『明倫誌』) 江戸時代には、「手水ノ町」(「洛中絵図」1637年)、「てうず水町」(「平安城町並み図」1641年以前)、「手洗い水町」(「洛中絵図」元禄年間[1688-1704]末、『京町鑑』1762年)とあった。 ◆年間行事 井戸換(7月14日)、遥拝式(7月15日)、一般開放(7月14日-24日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 駒札、『京都市の地名』 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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