白幽子寓居跡 (京都市左京区) 
The ruins of residence of Hakuyushi
白幽子寓居跡  白幽子寓居跡
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「白幽子厳居之跡」、現在は屏風岩とその前にわずかな敷地跡のみが残っている。


富岡鉄斎揮毫による「白幽子巌居之蹟」の七字、現在は字の一部が抉られている。


山中にある「白幽子厳居之蹟」への道標


白幽泉、いまもわずかに湧水している。


泉近くの石垣、石工関連の小屋跡?。


切り出された石材が山中に置かれたままになっている。


石柱状のもの。


燈籠の基礎、返花部分。



白川砂、山の斜面に砂が流れ出している。瓜生山


清沢、川底に白川砂が堆積している。
 瓜生山(301m)へ向かうには、仕伏町(しぶせ)登山口から「北白川史跡と自然の道」に入る。大山祇(おおやまずみ)神社を通り過ぎ、谷川の清沢沿いに細い山道を登る。 
 やがて、江戸時代の伝説的な人物、白幽子(はくゆうし、1646-1709)が使っていたという井戸跡(白幽泉、長命水)と、さらに登ると白幽子が晩年に過したとされる「白幽子寓居跡(はくゆうし-ぐういあと)」に辿り着く。
 この地は、白幽子と臨済中興の祖・白隠(はくいん)が対面したという旧跡地になる。白隠の著書、『夜船閑話』発祥の地であり、京都の白隠ゆかりの唯一の史跡になる。
 この山路は、白幽子、白隠、富岡鉄斎、小沢芦庵、瓜生山山頂にあった山城を巡る攻防戦に加わった将兵、戦勝祈願に勝軍地蔵に参詣した武将たちも辿った。
◆歴史年表 江戸時代初期、白幽子(1646-1709)は晩年を瓜生山山中に過したという。
 1710年、臨済宗中興の祖・白隠は、美濃の霊松院より白幽子のもとを訪ねた。白隠は過度の禅修行に伴う禅病(神経症)、結核により心身困憊(こんぱい、疲労)していた。白幽子は内観の法、観想法の「軟酥(なんそ)の法」を白隠に伝え、病を3年間で平癒させたという。
 江戸時代末期-近代の皇族・北白川宮(北白川宮智成親王、1856-1872)が白幽子のもとを訪れ、治療法を聞いたともいう。北白川宮は山の池にあったジュンサイを好んだという。その後、東都に移り池は埋められたという。ただ、白幽子と北白川宮は同時代の人ではない。
 近代、1906年、日本画家・富岡鉄斎は白幽子寓居跡、白幽子と白隠が対面したとされる旧跡地に、顕彰のために建碑した。
 現代、1960年、碑の表面の七文字が削られ損傷される事件が起きた。その後、寓居跡地の周辺約一町七反余りが、土地所有者により臨済宗妙心寺派法輪寺に寄進された。
  その後、臨済宗妙心寺派法輪寺の伊山和尚(1894?-1963)と各山により、寓居跡の保存が行われている。
◆白幽子 江戸時代前期-中期の隠遁者・白幽子(はくゆうし、1646-1709)。名は慈俊、白幽子仙人、白川の仙人。石川丈山の弟子・石川克之(克)の弟という。自らも丈山の弟子に入り、1672年、丈山の臨終に際して死に水を取ったという。晩年、北白川瓜生山中、清沢口の岩窟に住み、常に金剛経を誦したという。1709年、没した。同年、白川の山中を出たともいう。64歳。
 書に秀で、天文、医道、仙術にも通じたという。伝承として数百年生きたという。
 1710年/宝永年間(1704-1711)、臨済宗中興の祖・白隠(白隠慧鶴)は、瓜生山の白幽子を訪ね、結核と神経症で心身困憊していたのを白幽子の内観の法、観想法の「軟酥(なんそ)の法」により快復させたという。
 白幽子の遺骸は吉田神楽岡中山で火葬され、乗願寺(北白川仕伏町)の神楽岡東墓地(吉田芝ノ墓地、吉田惣墓、田神楽岡町)に埋葬された。その後、墓は盗難に遭う。1943年、法輪寺(上京区)の後藤伊山住職が東京・青山墓地内に白幽子の墓石を見つけた。持ち帰り法輪寺境内に墓を移した。旧地神楽岡東墓地には、1903年に富岡鉄斎により再建された墓碑が残っている。
◆白隠慧鶴 江戸時代前期-中期の臨済宗の僧・白隠慧鶴(はくいん-えかく、1685-1768)。旧姓は長沢、号は鵠林、勅諡号は神機独妙禅師、正宗(しょうじゅう)国師。駿河国(静岡県)の生まれ。幼い頃より、地獄、極楽の説法に魅せられたという。1700年/1699年、15歳で駿河・松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家し、慧鶴と名付けられた。沼津・大聖寺息道に師事した。1703年、清水・禅叢寺で修行する。雲棲袾宏(うんせい-しゅこう)の『禅関策進』により開眼し、諸国を巡る。1704年、美濃・瑞雲寺の馬翁宗春に付く。1708年、越後高田・英巌寺の性徹などに参じた。信州飯山・正受庵の道鏡慧端(正受老人)の法嗣になる。1710年、病になり京都の白幽子に内観法を学び完治し、後に『夜船閑話』を著した。白幽子と会ったことについては創作説もある。1716年/1717年、松蔭寺に還る。1718年、妙心寺第一座になり白隠と号した。この時、法兄・透鱗を法嗣とした。1763年/1758年、三島・龍澤寺を中興開山する。1768年、松蔭寺に戻り亡くなる。漢詩文、法話、俚謡など多く著し、書画も遺した。著『遠羅天釜(おらてがま)』など。84歳。
 墓は松蔭寺、三島・龍澤寺、比奈・無量寺にある。
 托鉢で老婆に竹箒で打たれ悟ったという。生涯を黒衣で通し、庶民、女性にも平易な禅を説いた。隻手音声の公案(片手の音を問う)で指導をしたという。臨済宗十四派の中興の祖といわれた。弟子に東嶺円慈、遂翁元盧、峨山慈棹などあり、一派は「鵠林派」と呼ばれた。
◆小沢蘆庵 江戸時代中期-後期の歌人・歌学者・国学者・小沢蘆庵(おざわ-ろあん、1723-1801)。名は玄仲(はるなか)、通称は帯刀、別号は孤鴎、観荷堂。難波生れ。父は牢人・小沢喜八郎実郡(実邦とも)。13-14歳で、京都・粟田に住み込み歌を詠む。尾張犬山竹腰家の京留守・居本荘氏に入婿になり、本庄八郎と称した。1752年頃、公家歌人で堂上派の冷泉為村の門に入る。武者小路実岳に歌を学ぶ。1757年、小沢姓に復し、鷹司家に仕えた。1765年、鷹司輔平に付き江戸に下り、出仕を止められる。京都に戻り隠棲した。『古今和歌集」を重んじ、平易な詞でありのままに詠む「ただこ(ご)と歌」を唱え、1773年頃、為村に破門される。京都の各所に移る。1788年、天明の大火で焼け出された。太秦・広隆寺・十輪院に住む。1789年/1792年、岡崎の図南亭(となんてい)に移った。
 伴蒿蹊(ばん-こうけい)、本居宣長、上田秋成、蒲生君平らと交友した。弟子に香川景樹がある。寛政期(1789-1801)の地下(じげ)和歌四天王(ほかに澄月、伴蒿蹊、慈延)の一人。直弟子は250人にのぼる。矢部正子など女性も多かった。国学者として尊王論を唱えた。歌論『蘆かび』、家集『六帖詠草』などを著した。79歳。
 墓は心性寺跡(左京区)にある。
◆富岡鉄斎  江戸時代後期-近代の南画家・富岡鉄斎(とみおか-てっさい、1836-1924)。名は猷輔、道節、百練。字は無倦(むけん)、号は裕軒、鉄斎、鉄崖、鉄道人など多い。京都生まれ。三条室町の法衣商・十一屋伝兵衛・富岡維叙(これのぶ)の次男。家は石門心学を家学とした。15歳頃、平田篤胤門人・大国隆正に国学、岩垣月洲に儒学を学ぶ。19歳頃、大角南耕、窪田雪鷹に南画を学ぶ。20歳頃(15歳頃とも)、心性寺(しんしょうじ)の大田垣蓮月の学僕として住み込み影響を受けた。春日潜庵に陽明学を学ぶ。梅田雲浜に学ぶ。勤王家と親交があった。頼三樹三郎、板倉槐堂、藤本鉄石、山中信天翁、木戸孝允、貫名海屋、中島棕隠らと親交する。近代以降、各地を旅行し、奈良・石上神宮、和泉・大鳥神社、嵯峨・車折神社宮司(1888-1896)になる。1881年、京都に帰り画業に専念した。1896年、田能村直入、谷口藹山らと日本南画協会を発足させた。1917年、帝室技芸員、1919年、帝国美術院会員に任ぜられる。
 国学、漢学、仏教、詩文を学び、博学多識であり、稀覯書の収集も行う。余業の絵は、神社復興の費用捻出に役立てた。独学で南画、明清画、大和絵、写生を学ぶ。風景、花鳥、人物など2万点以上を描く。書画叢談と称し、晩年に傑作を残す。代表作「不尽山全頂図」「旧蝦夷風俗図」など。89歳。
 墓は是住院(西京区)にある。
◆後藤伊山 近現代の僧・後藤伊山(1894?-1963)。山田無文に師事した。1933年、法輪寺第10代に就く。20年をかけ『白隠和尚全集』32巻(1934)を編纂した。白隠の旧跡と墨書を求め全国を行脚した。
 白幽子は乗願寺(北白川仕伏町)の神楽岡東墓地(吉田芝ノ墓地、吉田惣墓、田神楽岡町)に埋葬されている。だが、墓はその後盗難に遭う。1943年、伊山は東京・青山墓地内に白幽子の墓石を見つけ、持ち帰り法輪寺境内に移した。
◆北白川宮智成親王 江戸時代後期-近代の皇族・北白川宮智成親王(きたしらかわのみや-さとなり-しんのう、1856-1872)。伏見宮邦家親王第13王子。1860年、第121代・孝明天皇の養子になり、聖護院門跡雄仁法親王(後の聖護院宮嘉言親王)附弟となる。1866年、親王宣下を受け、聖護院で落飾、信仁入道親王と称した。近代、1868年、照高院宮と称し還俗、智成親王に戻る。聖護院宮を継承し、1870年、北白川宮に改称し初代になる。16歳。 
◆白幽子と白隠 江戸時代、1710年、臨済宗中興の祖・白隠は、美濃の霊松院より「白川の山裏」(瓜生山? )の白幽子を訪ねる。白隠は過度の禅修行により「禅病(神経症)」と結核により心身困憊していた。白幽子は洞窟内に住していたという。洞窟入り口に芦の簾を下げ、床には柔らかな草を敷き、家財は何もなく、机には『中庸』『老子』などの本が置かれていたという。白幽子は内観の法、観想法の「軟酥(なんそ)の法」を白隠に伝え、その病を3年で快復させたという。白隠は経緯を仏教書『夜船閑話』(1757)、『遠羅天釜(おらでがま)』に記した。
 白幽子と白隠が会った事実はないともいう。そもそも白幽子とは、白隠が創作した理想の架空人物ともいう。現在の寓意跡の碑は、白隠の熱烈な崇敬者だった富岡鉄斎の推定により立てられている。
◆瓜生山 瓜生山は、東山三十六峰の一つに数えられる。北白川大山祇神社に鎮座した牛頭天王が木瓜を好んだことから、瓜生山の地名が生まれたという。
 南北朝時代、1336年、新田義貞が瓜生山城を築き、足利勢に勝利する。
 1361年、甲冑を身に付け、騎乗した勝軍地蔵が祀られたという。以後、山は勝軍地蔵山、勝軍山と俗称された。
 室町時代、1520年、細川高国が山城に陣を構えた。また、1527年に城を築いたともいう。その戦勝記念として将軍地蔵を勧請したともいう。また、聖護院門主が大峰入りする際に、必ずこの山の地蔵菩薩の前で護摩を修したという。 
 1531年、細川高国の自害により炎上、東山新城と共に細川晴元の軍に奪取される。
 1546年、第12代将軍・足利義晴と細川晴元が対立、義晴が北白川城を大幅改修した。
 1547年、義晴は晴元を討つため、子・義輝とともに山に籠城する。晴元家臣・三好長慶軍が相国寺に陣を敷き、周辺を焼き討ちした。足利軍は自ら山城に火を放ち近江坂本へと逃れた。その後、義輝は如意ヶ獄に中尾城を築いたともいう。
 1561年、将軍地蔵山の戦いでは、六角義賢の軍と三好長慶の軍が交戦し、松永久秀が城の六角方武将・永原重澄を攻め、破った。
 江戸時代、1762年、聖護院宮忠誉親王により、将軍地蔵は現在地の丸山(左京区北白川瓜生山町)に遷される。
◆白川石 瓜生山の一帯は各所に花崗岩の岩盤が露頭し、白川砂が流砂している。清沢の細い川筋にある清沢口からは、かつて白川石が切り出されていた。山道を猫車に載せた石材は、牛に曳かせて降ろされていたという。現在も山道の傍らに、当時の石材が苔むして残されている。 


*山道で周囲に人家はありません。山中には幾かの分かれ道がありますのでご注意ください。道案内は数か所にあります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『事典 日本の名僧』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『知られざる京のミステリースポット 巻の一 洛東編』 、ウェブサイト「コトバンク」


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白幽子寓居跡  京都市左京区北白川清沢口1番11 
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