勝軍地蔵堂跡・照高院宮跡碑 (京都市左京区)  
ruins of Shogun-jizodo Temple
勝軍地蔵堂跡・照高院宮跡碑 勝軍地蔵堂跡・照高院宮跡碑
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勝軍地蔵参道


勝軍地蔵跡の御堂


【参照】勝軍地蔵、甲冑姿に右手に剣、左手に軍旗を掲げ、騎乗していたという。瓜生山山上の説明板の絵では半跏坐、岩坐で描かれていた。



「照高院宮址」碑


「事君不忠非孝也」の石碑


智成親王書の「事君不忠非孝也」


「石工共和組紀念碑」



付近よりの大文字山の眺望
 北白川の丸山丘陵に、勝軍地蔵跡(しょうぐん-じぞうどう-あと)がある。いまは、御堂跡だけが残されている。かつて、勝軍地蔵堂には、戦勝祈願の勝軍地蔵が安置されていたという。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 南北朝時代、1361年、瓜生山(左京区)山頂に勝軍地蔵が安置されたともいう。
 室町時代、近江・戦国大名の六角定頼(1495-1552)により、勝軍地蔵が祀られたともいう。
 また、1520年、12代将軍・足利義晴の配下の幕府管領・細川高国が、六角定頼とともに山城に入城し、細川澄元の軍を撃破した。その際に、山頂に高国の祈願による勝軍地蔵を祀ったともいう。
 江戸時代、地蔵尊は痘瘡無難の信仰を集めたという。 
 1762年/宝暦年間(1751-1764)、山頂にある地蔵尊への参詣が困難なことから、忠誉法親王は、地蔵尊を南の西山(丸山)の勝軍地蔵堂(左京区北白川山ノ元町)に遷した。
 近代、1902年、勝軍地蔵堂の東付近に「照高院宮址碑」が立てられた。
 1909年、勝軍地蔵堂付近に、智成親王書による「事君不忠非孝也」の碑が立てられた。
 近年、地蔵尊はほかへ遷されたという。
◆六角定頼 室町時代後期の戦国大名・六角定頼(ろっかく-さだより、1495-1552)。通称は四郎、号は江雲寺。近江国(滋賀県)守護・六角高頼の次男。1504年、相国寺・慈照院に入り、光室承亀と称した。1508年、10代将軍・足利義稙の将軍擁立に関わる。1516年、伊庭氏の乱で近江に帰り、兄・氏綱に代わり討つ。1518年、氏綱の死去により、還俗し六角家を継ぐ。1521年から細川高国とともに前将軍義澄の子・義晴(よしはる)を援助して再三上洛した。1527年、武佐に義晴を8カ月迎えた。1532年より、京都から避難した義晴を3年間にわたり定頼の居城・観音寺城下(現・安土町)の桑実寺に迎えた。本願寺焼討に加わる。1534年、義晴の婚礼が観音寺で行われた。1536年、美濃・斎藤利綱への援軍を行う。1540年、伊勢・長野氏攻撃を行った。1546年、坂本で、義晴の子・足利義藤(義輝)の元服に管領代として加冠役を務め従四位下になった。1549年、江口の戦いで三好長慶と戦う。北近江の領主・浅井久政とも戦い、箕浦、小谷(おだに)城に攻め、蒲生氏の内紛に関与し、六角氏の盛期を築いた。58歳。
 領国城下で楽市を設けた。
◆細川高国 室町時代後期の武将・細川高国(ほそかわ-たかくに、1484-1531)。通称六郎、法名は道永、常桓(じょうかん)、道号は松岳。官途は民部少輔、右京大夫、武蔵守など。備中(岡山県)守護・政春の子。管領・細川政元の養子になる。政元の家督相続を巡る養子・澄之と養子・澄元との争いで、1507年、政元が澄之に暗殺され、高国は澄元に就き澄之討伐に功を挙げた。その後、澄元と不和になり、大内義興(よしおき)、足利義稙(よしたね)を盛り立て、澄元、三好之長(ゆきなが)らに対抗した。1508年、伊丹元扶、内藤貞正らの国人を味方に将軍・義澄、澄元を近江に追う。周防に逃亡中の前将軍・足利義材(義稙)が義興に擁されて上洛し、将軍に復帰すると、右京大夫、管領に任じられ、左京大夫・義興と共に支えた。1518年、義興が帰国し、澄元を擁する三好之長に一時入京を許す。その後奪回した。1521年、義稙を廃し、義澄の子・義晴を擁立した。足利義維(よしつな)、三好元長と対立する。1526年、細川尹賢の讒言により香西元盛を殺害した。元盛の兄弟・波多野稙通、柳本賢治が挙兵し、阿波国から三好勝長・政長が堺に上陸する。之長の孫・元長が足利義維と細川晴元(澄元の子)を擁し堺に上陸し、高国政権は崩壊した。1528年、元長らに京都を追われ、1531年、摂津天王寺で元長らに敗れ、尼崎で捕らえられ、自刃した。48歳。
◆忠誉入道親王  江戸時代中期-後期の皇族・天台宗の僧・忠誉入道親王(ちゅうよ-にゅうどうしんのう、1722-1788) 。俗名は忠篤(ただあつ)。第114代・中御門天皇の第3皇子、母は典侍園常子。1732年、親王になる。1733年、聖護院で出家した。後に門跡になる。1738年、園城寺長吏、1788年、准三宮。白川・照高院に移る。北白川門跡・照高院二品。67歳。
◆智成法親王 江戸時代後期-近代の皇族・天台宗の僧・智成親王(さとなり-ほうしんのう、1856-1872)。伏見宮邦家親王第9子、母は鷹司政煕の娘、生母は堀内信子。1860年、第121代・孝明天皇の養子になり、聖護院門跡雄仁法親王(後の聖護院宮嘉言親王)附弟になる。1866年、親王宣下を受け、聖護院に入り、落飾し信仁入道親王と称した。1868年、照高院宮を称した。還俗し、再び智成親王を称した。その後、聖護院宮を継承した。1869年、三品に叙せられる。1870年、所在地に因み北白川宮に改称し、初代になる。16歳。
 墓は照高院跡(左京区)の北西近くにある。
◆勝軍地蔵 石造の「勝軍地蔵(白川勝軍地蔵、将軍地蔵)」(71.6㎝)は、かつて瓜生山山頂の石窟に祀られていた。江戸時代、1762年に忠誉法親王により丸山丘陵(左京区北白川山ノ元町)に遷された。
 戦勝祈願の地蔵尊は、平安京の東にあり、都の守護の意味があった。西の愛宕山にも同様の地蔵尊が祀られ、平安京の東西に2つの勝軍地蔵が安置されていたという。かつて、聖護院門主の大峯入りの前には、地蔵尊前で護摩供を行っていたという。江戸時代には、痘瘡(天然痘)平癒の信仰も集めた。
 室町時代作という。地蔵菩薩を半跏像に浮き彫りし、甲冑姿に右手に剣、左手に軍旗を掲げ、騎乗している。これは、仏敵降伏の三昧に住する姿という。
◆地蔵菩薩立像 かつて「地蔵菩薩立像」も安置されていたという。「見目美(みめよし)地蔵」とも呼ばれた。山中越の石窟(左京区北白川琵琶町)内に祀られていたという。伝承として、平安時代の漢学者・三善清行(みよし-ぜんこう、847-918)の墳(つか)とされていた。
 椋大木の根元に塚があり、「見目美地蔵」と呼ばれる地蔵尊があった。この「みめよし」とは、「みよし(三善)」よりの転訛ともいう。近代、1923年にこの地が三善の奥津城(おくつき、神道墓)とされ、新たに墓石が立てられた。その後、地蔵尊は勝軍地蔵堂内に遷され安置されていたという。 
 南北朝時代-鎌倉時代作ともいう。等身大、胡粉彩色、寄木造、玉眼入。 
◆石碑 丸山山頂(左京区北白川山ノ元町)、勝軍地蔵跡の東、近くの森の中に3基の石碑、石標が立てられている。
 ◈右端の「照高院宮址碑」は、近代、1902年に立てられている。照高院は、安土・桃山時代に創建された天台宗の寺院だった。江戸時代に北白川に再興され、親王が住して「白川御殿」、「雪輪御所」などとも呼ばれた。近代に入り廃絶している。
 ◈中央の智成(ともなり)親王(北白川宮)書の「事君不忠非孝也」の碑は、1909年に立てられた。
 いずれも、元照高院宮坊官で北白川宮旧臣・士族・近藤親正の建立による。
 ◈左端には「石工共和組紀念碑」の大きな石標が立つ。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『京都大事典』、『京都の地名検証』 、『歴史家の案内する京都』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」 


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map 勝軍地蔵跡・照高院宮址碑 〒606-8273 京都市左京区北白川山ノ元町40
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