白幽子の墓 (京都市左京区) 
grave of Hakuyushi
白幽子の墓  白幽子の墓
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松風窟白幽子之墓


松風窟白幽子之墓


松風窟白幽子之墓、「白川山居穏士」と刻まれている。


藤貞幹の墓


藤貞幹の墓、「無佛斎」と刻まれている。


「南無阿弥陀佛」名号石碑




地蔵尊


墓地の東に大文字山が見える。
 神楽岡東墓地(吉田芝墓、吉田芝ノ墓地、吉田惣墓、田神楽岡町)に、江戸時代初期の白幽子(はくゆうし)の墓碑が立つ。
 江戸時代後期の考証学者・国学者・藤貞幹(とう-ていかん)も葬られている。
◆歴史年表 江戸時代、1709年、7月25日、白幽子は亡くなる。遺骸は吉田神楽岡中山で火葬され、乗願寺(北白川仕伏町)の神楽岡東墓地に埋葬された。
 1797年、8月19日(新暦10月8日)、藤貞幹が亡くなり、当墓地に葬られた。
 近代、1901年、白幽子の墓石柱が盗難に遭い、台石のみになる。
 1903年、現在地の神楽岡東墓地に、富岡鉄斎により再び墓石柱が立てられた。現在はその墓碑が残っている。
◆白幽子 江戸時代前期-中期の隠遁者・白幽子(はくゆうし、1646-1709)。名は慈俊、白幽子仙人、白川の仙人。石川丈山の弟子・石川克之(克)の弟という。自らも丈山の弟子に入り、1672年、丈山の臨終に際して死に水を取ったという。晩年、北白川瓜生山中、清沢口の岩窟に住み、常に金剛経を誦したという。1709年、没した。同年、白川の山中を出たともいう。64歳。
 書に秀で、天文、医道、仙術にも通じたという。伝承として数百年生きたという。
 1710年/宝永年間(1704-1711)、臨済宗中興の祖・白隠(白隠慧鶴)は、瓜生山の白幽子を訪ね、結核と神経症で心身困憊していたのを白幽子の内観の法、観想法の「軟酥(なんそ)の法」により快復させたという。
 白幽子の遺骸は吉田神楽岡中山で火葬され、乗願寺(北白川仕伏町)の神楽岡東墓地(吉田芝ノ墓地、吉田惣墓、田神楽岡町)に埋葬された。その後、墓は盗難に遭う。1943年、法輪寺(上京区)の後藤伊山住職が東京・青山墓地内に白幽子の墓石を見つけた。持ち帰り法輪寺境内に墓を移した。旧地神楽岡東墓地には、1903年に富岡鉄斎により再建された墓碑が残っている。
◆白隠慧鶴 江戸時代前期-中期の臨済宗の僧・白隠慧鶴(はくいん-えかく、1685-1768)。旧姓は長沢、号は鵠林、勅諡号は神機独妙禅師、正宗(しょうじゅう)国師。駿河国(静岡県)の生まれ。幼い頃より、地獄、極楽の説法に魅せられたという。1700年/1699年、15歳で駿河・松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家し、慧鶴と名付けられた。沼津・大聖寺息道に師事した。1703年、清水・禅叢寺で修行する。雲棲袾宏(うんせい-しゅこう)の『禅関策進』により開眼し、諸国を巡る。1704年、美濃・瑞雲寺の馬翁宗春に付く。1708年、越後高田・英巌寺の性徹などに参じた。信州飯山・正受庵の道鏡慧端(正受老人)の法嗣になる。1710年、病になり京都の白幽子に内観法を学び完治し、後に『夜船閑話』を著した。白幽子と会ったことについては創作説もある。1716年/1717年、松蔭寺に還る。1718年、妙心寺第一座になり白隠と号した。この時、法兄・透鱗を法嗣とした。1763年/1758年、三島・龍澤寺を中興開山する。1768年、松蔭寺に戻り亡くなる。漢詩文、法話、俚謡など多く著し、書画も遺した。著『遠羅天釜(おらてがま)』など。84歳。
 墓は松蔭寺、三島・龍澤寺、比奈・無量寺にある。
 托鉢で老婆に竹箒で打たれ悟ったという。生涯を黒衣で通し、庶民、女性にも平易な禅を説いた。隻手音声の公案(片手の音を問う)で指導をしたという。臨済宗十四派の中興の祖といわれた。弟子に東嶺円慈、遂翁元盧、峨山慈棹などあり、一派は「鵠林派」と呼ばれた。
◆藤貞幹 江戸時代中期-後期の考証学者・国学者・藤貞幹(とう-ていかん、1732-1797)。本姓は藤原、名は好古、通称は叔蔵、字は子冬、号は無仏斎、亀石堂など。京都の生まれ。仏光寺・久遠院権律師・玄煕の妾腹の子。11歳で得度し、18歳で還俗した。諸国を遍歴し、和歌は日野資枝、有職故事は高橋宗直、書は持明院宗時、儒学は後藤芝山、柴野栗山に学ぶ。儒者・高芙蓉、書家・篆刻家・韓天寿と親交した。水戸藩の『大日本史』(1657-1906)の編纂にも関わる。著『衝口発(しょうこうはつ)』(1781)は、本居宣長が『鉗狂人(けんきょうじん)』中で批判した。(唐心論争)。1789年、寛政内裏復旧再建、有職故実家・裏松光世の著『大内裏図考証』(1797)にも協力した。著『好古小録』『好古日録』など。反復古神道家。66歳。
 墓は神楽岡東墓地(左京区)にある。
 考古学、考証、儒学、国学、和歌、書、有職故実、篆刻、各地の金石文(銘文)、古文書、器物、書画などを実地調査した。
◆墓 ◈白幽子の墓は墓域の南端にある。江戸時代、1709年に白幽子は亡くなる。遺骸は吉田神楽岡中山で火葬され、乗願寺(北白川仕伏町)の神楽岡東墓地に埋葬された。近代、1901年に墓石柱が盗難に遭い、台石のみになる。その後、1903年に現在地に、江戸時代-近代の文人画家・富岡鉄斎(1837-1924)により再び墓石柱が立てられた。
 現在はその墓碑が残る。墓石には鉄斎筆により、「松風窟白幽子之墓」と刻まれている。なお、盗まれた墓はその後、発見され、いまは法輪寺(上京区)にある。
 なお、墓地内にある名号石碑「南無阿弥陀佛」は、白幽子の揮毫によるという。
 ◈藤貞幹の墓は、東部上段にあり、「無仏斎先生之墓」と刻まれている。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『知られざる京のミステリースポット 巻の一 洛東編』、『事典 日本の名僧』、『京都大事典』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、ウェブサイト「コトバンク」


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