小沢蘆庵邸宅跡・蒲生君平仮寓跡 (京都市左京区)
The ruins of the residence of Ozawa, Roan
小沢蘆庵邸宅跡・蒲生君平仮寓跡  小沢蘆庵邸宅跡・蒲生君平仮寓跡
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「贈正四位 蒲生君平先生仮寓御趾」の石標


「小沢蘆庵宅址」の石標


 岡崎入江町の北側に「小沢蘆庵宅址」、「贈正四位 蒲生君平先生仮寓御趾」の2つの石標が並んで立てられている。
 ここにはかつて江戸時代の歌人・国学者・小沢蘆庵の旧宅があり、一時、儒学者・蒲生君平が寄寓した。
◆歴史年表 江戸時代、1793年頃、小沢蘆庵は太秦蚕の社付近の十輪寺より現在地、岡崎の庵に移る。 
 1800年、蘆庵は茶室に一時、蒲生君平を匿う。
 1801年、蘆庵はこの地で亡くなる。
◆小沢蘆庵 江戸時代中期-近代の歌人・歌学者・国学者・小沢蘆庵(おざわ ろあん、1723-1801)。玄中、帯刀。芦庵。 難波生れ。父は牢人・小沢喜八郎実郡(実邦とも)。13-14歳で、京都・粟田に住み込み歌を詠む。尾張犬山竹腰家の京留守・居本荘氏に入婿になり、本庄八郎と称した。1752 年頃、公家歌人で堂上派の冷泉為村の門に入る。武者小路実岳に歌を学ぶ。1757年、小沢姓に復し、鷹司家に仕えた。1765 年、鷹司輔平に付き江戸に下り、出仕を止められる。京都に戻り隠棲した。『古今和歌集」を重んじ、平易な詞でありのままに詠む「ただこ(ご)と歌」を唱え、1773 年頃、為村に破門される。京都の各所に移る。1788年、天明の大火で焼け出された。太秦・広隆寺・十輪院に住む。1789年(1792年とも)、岡崎の図南亭(となんてい)に移った。
 伴蒿蹊(ばん こうけい)、本居宣長、上田秋成、蒲生君平らと交友した。弟子に香川景樹がある。寛政期(1789-1801)の地下(じげ)和歌四天王(ほかに澄月、伴蒿蹊、慈延)の一人。直弟子は250人にのぼる。矢部正子など女性も多かった。国学者として尊王論を唱えた。歌論『蘆かび』、家集『六帖詠草』などを著した。
 墓は心性寺跡(左京区)にある。
◆蒲生君平 江戸時代後期の儒学者・蒲生君平(がもう くんぺい、1768-1813)。尊王論者、海防論者。下野国宇都宮の生まれ。父は油屋・農業・福田又右衛門正栄。6歳頃延命院住職・良快和尚により四書五経などを学ぶ。1788年、祖先が会津藩主・蒲生氏郷との家伝により姓を改めた。15歳で儒学者・鈴木石橋の麗澤舎入塾、勤皇思想に傾斜した。黒羽藩士・鈴木為蝶軒に学び、水戸藩勤王志士・藤田幽谷の尊王思想の影響を受ける。曲亭馬琴、本居宣長らを知る。23歳で高山彦九郎を慕い陸奥を旅し、林子平を訪ねた。1795年、ロシア軍艦の出現により陸奥へ向かう。1796年、上洛、1800年、京都・小沢蘆庵の邸に滞在した。1799-1800年、荒廃していた天皇陵(古墳)調査の旅に出る。松阪・本居宣長を訪れた。江戸に移り塾を開く。1801年、文献考証、2度の現地調査を経て『山陵志(さんりょうし)』を著し、古墳形状を「前方後円」と表記した。大学頭・林述斎に文教振興を建議した。1807年、北辺防備を唱え『不恤緯(ふじゅつい)』を著し、幕閣献上したが警戒され閑居となる。
 「寛政の三奇人」(ほかに林子平、高山彦九郎)の一人とされた。墓は江戸谷中・臨江寺にある。
◆建築 小沢蘆庵の旧宅はtzwかつて残されていたという。
 蒲生君平が匿われた茶室は明治期(1867-1912)に、ほかへ移されたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都隠れた史跡100選』『古代史研究の最前線 天皇陵』、ウェブサイト「コトバンク」


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小沢蘆庵邸宅跡・蒲生君平仮寓跡 〒606-8322 京都市左京区岡崎入江町 
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