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老ノ坂峠子安地蔵(峠地蔵・旧大福寺) (京都府亀岡市) Oinosakatoge-koyasujizo |
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老ノ坂峠子安地蔵 | 老ノ坂峠子安地蔵 |
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かつて山城国と丹波国を結んだ山陰街道(現在の国道9号線)沿い、石垣上に小堂の地蔵堂が建てられている。安置されている老ノ坂峠子安地蔵(おいのさかとうげ-こやすじぞう)は、古くより安産守護の地蔵尊として崇敬されてきた。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 平安時代、大福寺(だいふくじ)(現在の老ノ坂トンネル西口付近)が開かれ、恵心僧都(源信、942-1017)が刻んだという子安地蔵尊が安置されていたという。 近代、1933年-1936年、国道9号線の老ノ坂トンネル工事の際に、大福寺は廃寺になる。地蔵尊は現在地に遷されている。 ◆源信 平安時代中期の天台宗の僧・源信(げんしん、942-1017)。恵心(慧信)僧都、横川僧都。大和国(奈良県)の生まれ。父・卜部正親(うらべ-まさちか)、母・清原氏。7歳で父没後、950年/956年、9歳で比叡山の良源に学んだともいう。955年、得度した。956年、15歳で『称讃浄土経』を講じ、第62代・村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。だが、母の諫言を守り、名声より聖人になるためとして横川の恵心院に隠棲し続けた。973年、広学竪義になり内供奉十禅師に補せられた。988年、覚超らと二十五三昧会を結び、浄土往生の行に励む。正暦年間(990-995)、霊山院を造営し、華台(けだい)院に丈六弥陀三尊を安置、迎講(むかえこう)を始めた。1004年、公卿・藤原道長の帰依により権少僧都になる。延暦寺六月会の探題になり、栄名を嫌い山門を出なかった。1005年、権少僧都を辞する。恵心院で亡くなる。臨終にあたり、阿弥陀如来像の手に結んだ糸を手にし、合掌しながら入滅したという。76歳。 良源門下四上足の一人に数えられた。天台宗恵心流の祖とされ良忍、法然、親鸞らに影響を与えた。宋でも高い評価を得る。浄土宗の基礎になり、地獄極楽観を説いた『往生要集』(985)の編者であり浄土教を大成した。「往生の業は、念仏をもって本となす」と説き、貴族、庶民に影響を与えた。著『一乗要決』『観心略要集』など。慶滋保胤(?-1002)と、仏典研究の「勧学会」を主宰し、庶民への仏法を説く。『源氏物語』第53帖、『宇治十帖』第9帖の「手習」巻では、宇治川に入水した浮舟を助けた「横川の僧都」といわれている。(良源弟子の覚超ともいう)。絵、彫刻に優れたという。源信作の和讃「極楽六時讃」がある。 ◆地蔵 老ノ坂峠子安地蔵は木造漆箔、蓮華座に結跏趺坐し、右手に錫状、左手を膝上にして宝珠を載せる。江戸時代作とみられる。像高65cm。 逸話が残されている。平安時代、かつて老ノ坂に市盛長者(いちもり-ちょうじゃ、佐伯郡の司秋高とその娘・桜姫とも)が住んでいた。一人娘が難産の末に亡くなる。比叡山横川の恵心僧都(源信、942-1017)が当家に投宿した際に、娘の亡霊が現れる。 亡霊は冥土の苦しみを僧都に訴え、救済を請う。僧都が仏法を説くと、娘の苦しみが消えたという。娘はその報恩として、地蔵尊を造り安置すれば、以後、産婦の難産死を救うと約束した。僧都はそれに従い、娘の塚に生えていた柏の木で地蔵尊を刻み、これを安置したという。これが大福寺の始まりとされ、以後、安産守護の地蔵尊として信仰を集めたという。(『都名所図会』『桑下漫録』) 地蔵尊は、かつて首塚大明神付近にあり、その後、遷された。 *普段、門扉は施錠されている。地蔵尊は仁和寺に遷されたとも。? *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都市の地名』、『新版 京のお地蔵さん』、『史跡探訪 京の七口』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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