谷ヶ堂・延朗堂 (最福寺・法華山寺旧跡) (京都市西京区)
Taniga-do Temple
谷ヶ堂・延朗堂 谷ヶ堂・延朗堂
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谷ヶ堂最福寺 開山延朗上人旧跡地


谷ヶ堂(延朗堂)、建立当時は七堂伽藍を誇ったという。「奇樹怪石の池上に、都卒の内院を移して四十九院の楼閣を並べ、十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引き、恰も極楽丈殿七宝荘厳の優姿』(『太平記』)

谷ヶ堂(延朗堂)、「延朗上人」の扁額


かすがい観音、延朗800年大遠忌祈念に建立。


「平治、元弘、応仁、元亀の乱 戦火ゆかりの地」の碑





蹲踞に「松尾山寺、尊鏡大法師像安置」とある。この地は、松尾山寺の旧地ともいう。尊鏡大法師は、奈良時代後期、782年、101歳で大法師となる。平安時代、849年、168歳で亡くなったという。



「延朗上人八百回大遠忌記念」の碑



松尾明神が坐したという坐禅石、松尾明神に関わる石は西芳寺にもある。



宝篋印塔
 西山、鈴虫寺北東近く、延朗寺山の麓、竹林の下に小堂・谷ヶ堂(たにがどう)がある。延朗堂(えんろうどう)とも呼ばれる。 
 付近は、旧丹波道の入口に当たる。この地は、最福寺(さいふくじ)、法華山寺(ほっけさんじ)の旧跡とされる。最福寺は谷堂(たにどう)とも呼ばれた。
 延朗上人木像を安置している。
◆歴史年表 奈良時代末期、この地には松尾山寺があったという。
 平安時代、1159年、松尾山寺は平清盛と源義朝の対立に、院近臣らの争いが加わった平治の乱により焼失したという。
 1176年、延朗は、松尾山麓、神宮寺に住し、松尾山寺の旧地に、峯堂(法華山寺、法花山寺、両界曼荼羅を安置)、天台宗寺門派の最福寺(谷ヶ堂、谷の堂)を建立したという。七堂伽藍が建ち並んでいた。49院の楼閣、五重塔があったという。(『塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)』『太平記』『京師巡覧集』)。谷堂と呼ばれたのは、この地(西芳寺川の谷口)が谷郷(たにごう)と称されたことに因む。
 平安時代後期、源義経(1159-1189)が、寺の興隆のために、丹波国亀岡篠村(亀岡市篠町)を寺領として施入し、寺は栄えたという。
 鎌倉時代、1208年、延朗の没後、伽藍は次第に整備される。
 鎌倉時代初期、源頼朝(1147-1199)も施入に倣ったともいう。
 1219-1222年、延朗の弟子・慶政により、最福寺の南隣の丘陵地に法華山寺が開山されたという。「峰の堂」とも呼ばれた。関白・九条道家は寺領を寄進し、大伽藍になる。最福寺、法華山寺は、西岡屈指の大刹になる。
 1331年、第96代・後醍醐天皇の勢力を中心とした鎌倉幕府討幕の元弘の乱により、最福寺、隣接した法華山寺は焼失する。その後、しばらくして両寺は復興された。
 1332年、法華山寺(下山田西ノ山上)は、千種頭中将の兵火により焼失したともいう。(『山州名跡志』)。その後、小堂を再建した。後、野火によりこれも焼失する。
 1333年、隠岐を脱した後醍醐天皇の命を受けた千種忠顕が、聖護院静尊法親王を立て、篠村より西山峰堂に入り布陣したという。軍勢20万騎あり、周辺に陣取る。忠顕は幕府方の六波羅を攻め、敗退、幕府方の反撃により峰堂の本陣を捨て丹波に逃れた。谷堂、峰堂は破却され、火を放たれた。(『太平記』)
 南北朝時代、1353年、南朝方・山名時氏は、西山法華寺辺に駐屯し、足利義詮の勢を牽制した。(『園太暦』)
 1336年、建武政権を離れた足利尊氏は、後醍醐天皇方の反撃により一度九州に逃れる。その後、東上し、西岡の土豪・革島、林らに命じ、峰の堂を警固させた。(『徴古雑抄』「革島家文書」)
 1355年、南朝方・山名時氏は、丹波よりの尊氏方・仁木頼章の牽制のため、法華山寺に派遣される。(『建武三年以来記』)。その後、義詮の軍が山崎で南朝方を破り、法花山寺辺に移る。(『園太暦』)
 1360年、足利義詮の一隊がこの地に逃れた。
 1391年、明徳の乱では、山名満幸の反乱軍に対して、丹波守護代・小林上野介が付近に布陣した。幕府軍は勝利し、反乱軍は丹波に逃れる。(『明徳記』)
 室町時代、1433年、伏見宮貞成親王(第102代・後花園天皇の父)は、西芳寺、最福寺、法華山寺に参詣した。法華山寺について「仏閣多建」などと記されている。(『看聞御記(看聞日記)』)。
 1461年、第8代将軍・足利義政は、西芳寺、法華山寺に参詣した。(『蔭凉軒日録』)
 1468年、応仁・文明の乱(1467-1477)で、東軍・山名右馬助らが最福寺(谷堂)に布陣(谷ノ城)した。西軍は鶏冠井(かいで)に城を構える。西軍が攻め、谷の堂だけは死守する。
 1469年、最福寺、法華山寺、西芳寺などは嵯峨に陣を敷いた西軍・畠山義就に攻められ焼失する。東軍は、唐櫃峠より丹波に逃れた。(「見聞雑記」)。最福寺、法華山寺は以後、再建されなかったともいう。
 1527年、武将・柳本賢治は、丹波より西岡に進出し、野田城を陥落させ、法華山寺も炎上し、その後、荒廃したともいう。(『言継卿記』)
 1534年、寺跡地には峰城が築かれた。細川氏被官・茨木長隆は、一向一揆などに備え、荘園よりの徴収米を峰城米として用いるように配下に命じている。(「茨木長隆奉書案」)
 1571年、織田信長が比叡山を焼討した元亀の乱でも焼失したという。その後、再興はされなかったという。
 江戸時代、1727年、第112代・霊元天皇の最福寺への行幸があったともいう。
 現在は、小堂のみが建つ。
延朗 平安時代後期-鎌倉時代の天台僧・延朗(えんろう、1130-1208)。但馬に生まれた。伝承として八幡太郎源義家4世の孫ともいう。幼くして父母を喪い、1144年、出家、奈良・比曾寺、園城寺の永証に師事、延暦寺でも学ぶ。1159年、平治の乱で源氏のため平清盛に追われ、陸奥松島に逃れたという。丹波国亀岡篠村施入に際し、延朗はやむなくこれを受けたという。村人には、免租や富民の善政を施し、流行っていた悪病難病の治療のために寺に浴室を造り、自ら病人を癒した。多くの民衆の救済に献身し、人々は「松尾の上人」と呼び尊敬を集めたという。
 延朗については『元享釋書』『太平記』『三井寺続燈記』『雨月物語』に記されている。
◆慶政 鎌倉時代の学僧・慶政(けいせい、生没年不詳)。証月房慶政(しょうげつぼう よしまさ)、勝月。当初は園城寺に入り、能舜に学ぶ。延朗の弟子になる。後に栂ノ尾の明恵に薫陶を受けた。南宋に留学する。帰国後、1219-1222年、松尾の奥に法華(花)山寺を開山したという。同寺に、延朗の墓(廟所)を立てたという。
◆法華山寺 法華山寺(ほっけさんじ)は、峰ヶ堂(峰堂)とも呼ばれた。西山峰ヶ堂花山寺ともいう。開山は延朗の弟子・学僧・慶政(けいせい)による。
 創建は、南宋より帰国後の、鎌倉時代、1219-1222年とされる。最福寺の南隣にあり、大寺院を誇った。慶政は師・延朗を弔うために同寺に墓所を立てたという。山陰道が眼下にある要衝地であり、南北朝時代の内乱、1391年の明徳の乱の戦場になる。室町時代、1469年、応仁・文明の乱(1467-1477)に際して、西軍により攻められ焼失する。以後、再建されなかった。
 場所は、峰山(丹波国王子村より上った峰)(『山城名勝志』『元亨釈書』)、下山田の西峰の衣笠山(地蔵山)(『増補大日本地名辞書』)、唐櫃越の一峰中腹(『新修京都叢書』)という。浄住寺(葉室)の西600m地点にあった峯ノ堂という山腹より、1933年に鎌倉時代の石塔、瓦などが出土した。この付近に法華山寺(峰ヶ堂)があったとみられている。現在、西京区御陵峰ヶ堂の地名が残る。
◆仏像・木像 延朗堂に開山の「延朗上人坐像」(77㎝)が安置されている。鎌倉時代作であり、写実性に富む。寄木造、彩色、玉眼入。
 旧西福寺本堂の「阿弥陀像」は、嵯峨・正定院(右京区)に遷されたという。当堂近くの華厳寺(鈴虫寺)には、遺物の瓦が伝えられている。大枝・称念寺の本尊・阿弥陀如来は、最福寺より遷されたともいう。
 大枝・地福寺の本尊は、藤原時代(平安時代中期-後期)初期作であり、峰堂(法華山寺)より遷されたともいう。
 桂上野町・観世寺の平安時代末の地蔵菩薩立像も遺仏という。
◆建築 谷ヶ堂(延朗堂)は、方一間単層による。
◆廟所 延朗弟子の慶政は、葉室山(衣笠山)、唐櫃(からと)峠の山中に、一宇を建立し、師の廟所にしたという。
◆年間行事 「延朗上人、さしのべ観音 竹とうろう祭」(11日の夕刻に演奏会、甘酒の接待など。延朗の命日の12日に、青竹とうろうの焚き上げ供養が行われる。)(2月11日-12日)。
 谷ヶ堂(延朗堂)開帳(毎月12日午後1時より)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 案内板、『洛西歴史探訪』『京都大枝の歴史と文化』『古佛』『京都の地名検証』『昭和京都名所図会 4 洛西』


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宝篋印塔、墓石

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