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福勝寺 (京都市上京区) Fukusho-ji Temple |
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福勝寺 | 福勝寺 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 寺紋「下がり松」 ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 玄関 ![]() ![]() サクラ ![]() 十三重塔 ![]() 十三重塔 |
七番町(しちばん-ちょう)の福勝寺(ふくしょう-じ)は、「桜寺(さくら-でら)」、「瓢箪寺(ひょうたん-でら/ひさご-でら)」とも呼ばれている。山号は竹林山(ちくりん-ざん)という。 真言宗善通寺派、本尊は薬師如来。 本堂脇壇の聖観世音菩薩は、洛陽三十三観音巡礼第29番札所の札所本尊。峰薬師は、京都十二薬師霊場会第6番札所の札所本尊。京の通称寺霊場10番、瓢箪寺。 病気平癒、夫婦円満、融通、商売繁盛、現世利益、開運出世などの信仰がある。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 平安時代?、空海(774-835)が河内国古市郡中村(大阪府羽曳野市)に創建したという。(『坊目誌』)。その後、衰微する。 鎌倉時代、正嘉年間(1257-1259)、醍醐寺・覚済により油小路五条坊門(下京区)に移された。その後、京中を移転する。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で荒廃した。 安土・桃山時代、豊臣秀吉(1536/1537-1598)が武運を祈願し、千成瓢箪を寄進した。戦勝の度に千成瓢箪を旗印に頂いた。秀吉は、天下統一後に自作の木像を当寺に納め、寺領を寄進したという。以来、「瓢箪寺」「瓢寺(ひさごでら)」とも呼ばれる。 第107代・後陽成天皇(在位:1586-1611)の勅願所になる。 江戸時代、1701年、焼失する。 その後、寺町通丸太町下ル(中京区)、出水通六軒町(上京区)を経て、現在地(出水通千本西入ル)に移された。 第111代・後西天皇(在位:1655-1663)は勅願寺とする。「観世音菩薩」の名号と紫宸殿の左近の桜の分木を分栽し当寺に移植した。以後、「桜寺」の別称が生まれた。 現代、2005年、「平成洛陽三十三所観音」が復興された。 2012年、平安時代に始まったという京都十二薬師霊場めぐりが復活する。 ◆空海 奈良時代-平安時代前期の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。男性。弘法大師。讃岐国(香川県)の生まれ。父・豪族の佐伯田公(義通)、母・阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥になり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず太宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都となる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり、東峰に葬られた。62歳。 ◆恵果 中国唐代の密教僧・恵果(えか/けいか、746-806)。男性。姓は馬。京兆府昭応・陝西(せんせい)省の生まれ。長安の青龍寺の曇貞(どんてい)、大興善寺の不空三蔵(ふくう-さんぞう)に師事し密教を学ぶ。代宗の帰依を受け、内道場の護持僧になり、青龍寺の東塔院に住した。徳宗(とくそう)、順宗(じゅんそう)と三代の皇帝の帰依を受け「三朝の国師」と仰がれた。門下に義明(ぎみょう)、義円(ぎえん)らを輩出した。805年、門人の空海は青龍寺で恵果から金剛界、胎蔵界の灌頂を受け、付法の弟子になった。恵果没後、空海は恵果追悼の碑文「大唐青竜寺故三朝国師碑」を書き、帰国して真言宗を開いた。日本の真言宗では、恵果は「真言付法の八祖」中の第七祖になる。著『十八契印(げいいん)』など。60歳。 ◆覚済 鎌倉時代前期-後期の僧・覚済(かくぜい、1227-1303)。男性。山本僧正、峰僧正。父・中山兼季(かねすえ)。真言宗醍醐寺の源運らに師事し、1248年、金剛王院の実賢により灌頂をうける。正嘉年間(1257-1259)、福勝寺が再建される。醍醐寺座主、80世・東寺長者、1293年、45世・醍醐寺座主に再任された。著『秘鈔口決』など。77歳。 金剛王院流の一派山本流の祖。 ◆中山玄亭 江戸時代後期の医者・中山玄亭(?-1779)。詳細不明。 墓は福勝寺(上京区)にある。 ◆古高俊太郎 江戸時代後期の攘夷派志士・古高俊太郎(ふるたか/こたか-しゅんたろう、1829-1864)。男性。湯浅喜右衛門。近江国(滋賀県)の生まれ。父・大津代官所の手代・古高周蔵、母・公家・広橋家家来の娘。父が山科毘沙門堂門跡従者になり京都へ移住した。俊太郎も門跡近習になる。烏丸光徳に和歌を学び、公家と交流した。尊皇攘夷の梅田雲浜に入門し、勤王志士と知り合う。同志・湯浅五郎兵衛の依頼で湯浅喜右衛門の養子になり、1861年、京都河原町四条上ル東で諸藩御用達「枡屋」を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗る。小道具(薪炭商、馬具も)を商い、宮部鼎蔵・有栖川宮・長州との連絡をとる。1864年、店に新撰組が踏み込み捕縛される。壬生屯所で土方歳三に土蔵から、逆さに吊るされる激しい拷問を受けた。1863年、八月十八日の政変後の長州によるクーデタ、テロ計画を自白したとされる。詳細は不明。自白をもとに、同日夜、新撰組が池田屋に集結した尊攘派志士を急襲撃破する。(池田屋事件)。古高は六角獄舎に収容される。1864年、長州藩尊攘派による禁門の変が起こり、獄舎に迫ったどんどん焼けの騒乱に乗じ、幕吏により獄中で斬首された。36歳。 粟津義風、前川茂行と親交があった。没後、1891年、正五位追贈。 遺骸は西ノ刑場跡に葬られ、竹林寺(上京区)に改葬された。霊山(東山区)に墓碑がある。福勝寺(上京区)にもある。 ◆古高智恵 江戸時代後期-近代の古高智恵(?-1882)。女性。父・大津代官所の手代・古高周蔵、母・公家の広橋家家来の娘。古高俊太郎の妹。鷹司家政所の女官になる。1861年、和宮降嫁に際して、兄が俊太郎と知れ、随列より外された。和宮御用掛・田村家に嫁いだ。1864年俊太郎の遺体より衣服の端切れを持ち帰り、福勝寺(上京区)に葬った。 智恵の墓も福勝寺にある。 ◆仏像 ◈本尊の秘仏「薬師如来」は、「峰の薬師」ともいわれる。かつて洛西の峯の堂(西京区、法華山寺)にあり、鎌倉時代後期、1331年の後醍醐天皇らによる元弘の乱の際に遷されたという。鳳来寺(愛知県)、法来寺(羽曳野市)本尊と同木ともいう。京都十二薬師の一つに数えられる。60年に一度だけ開帳される。 ◈本堂脇壇の「聖観世音菩薩」は、厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)作ともいう。第111代・後西天皇の勅願を受けた。その願いが成就されたため、観世音菩薩の名号を贈られる。また、紫宸殿左近の桜を下賜され分木し当寺に移したという。以来、当寺は「桜寺」とも呼ばれる。 ◈「聖歓喜像」は、唐の青龍寺、三蔵国師・恵果和上が臨終間際に空海が伝授したものという。 ◈「不動明王」は空海作ともいう。「牛皮不動」とも呼ばれた。名不動の一つに数えられた。 ◆建築 山門はかつて、九条家屋敷の門だったという。寺紋「下がり藤」は九条家菩提寺であったことに因む。節分会(2月3日)にだけ開門されている。 ◆文化財 ◈紙本墨書「観世音菩薩名号」1幅は、江戸時代、17世紀に第111代・後西天皇が福勝寺に帰依し、名号を寄贈した。縦63.3×横18.7㎝。 ◈絹本著色「地蔵菩薩・不動明王像」1幅は、鎌倉時代-南北朝時代、14世紀作という。地蔵菩薩は湧雲上の踏分蓮台に、不動明王は岩座に立ち、4分の3正面で相対する。両尊の同体説に因む構図とみられ珍しい。縦73.8×横39.7㎝。 ◈絹本著色「鏡君三才御影」1幅は、江戸時代前期、1709年作になる。鏡君(?-1709)は、九条輔実(1669-1730)の子であり、随心院に入寺し夭逝した。近侍していた朝山忠常夫妻が診察した医師・岡法橋に描かせた。鏡君は、白衣を纏い水晶の数珠を手にしている。縦82.6×横33.4㎝。 ◈紙本墨書「宝寿院譲状」巻子装1巻は、室町時代後期、1521年作になる。9世・宝寿院弘清(?-1557)が綾小路堀川などの坊領を、10世・正光坊弘清(?-1570-1573)に譲渡するとした文書になる。縦27×横39.3㎝。 ◈紙本墨書「細川晴元元奉行人奉書」1幅は、室町時代後期、1543年に、僧・覚秀に五条坊門綾少路(綾小路)の支配を認めた文書になる。縦27.7×横45.5㎝。 ◈紙本墨書「細川晴元元奉行人奉書」1幅は、室町時代後期、1543年に五条坊門綾少路の当地百姓中宛ての文書になる。縦30.5×横43.5㎝。 ◈紙本墨書「六角氏奉行人連署禁制」1巻は、室町時代後期、1561年作になる。この時、細川晴之・六角義賢と三好長慶が対峙していた。自軍・ほかの者の乱暴狼藉、放火・竹木伐採・田畠刈り取り、非合法の税・負担を禁じている。縦30.5×横43.5㎝。 ◈紙本墨書「伝・解脱上人筆切(ひつぎれ)・添書」1葉・1枚は、江戸時代後期、1795年作になる。筆切に普光述『俱舎論記』巻26の一部が記されている。添書には平安時代後期-鎌倉時代前期の上人(1155-1213)の経歴・親族を記している。 筆切は縦24.7×横7.2㎝、添書は縦24.5×横34.7㎝。 ◆桜寺 桜寺の異名もある。江戸時代、第111代・後西天皇(在位:1655-1663)が聖観音菩薩に祈願したお礼として、御所紫宸殿前の左近の桜を寄進した。以来、当寺は桜寺とも呼ばれた。現在も境内には、桜の巨木が植えられている。 ◆墓 ◈江戸時代の医者・中山玄亭(?-1779)の墓がある。 ◈尊攘派の町人・古高俊太郎(戒名「凉岳院綺音院正順居士」)の墓がある。俊太郎の妹・智恵の墓がある。 ◆節分会 節分の日に限り授与されるお守りがある。正式には「宝珠尊融通御守」という。融通がきく、意のままに様々な願いをかなえる宝の意味という。空海は唐の師・青龍寺の恵果より、霊験を表すとされる如意宝珠と歓喜天の秘法を伝授されたという。源頼朝(1147-1199)もこの修法を受けて将軍職に就いたという。 貧苦の衆生を救済する「如意宝珠の修法」により、大寒より7日間の祈祷を行った瓢箪を節分会で授与する。宝珠は、下部が球形で上部が円錐形に尖った形で表されている。これが、球形を二つ重ねた瓢箪の形に似ていることから、鎌倉時代から御守に瓢箪が用いられるようになったという。 安土・桃山時代、豊臣秀吉は出陣の度に武運長久を願い、当寺で祈願した。寺領を寄進し、寺に瓢箪を奉納する。それらにより「千成瓢箪」の旗印が作られたという。 ◆年間行事 節分会(山門開戸、瓢箪公開、ひょうたん守りの授与が行われる。)(2月3日)。 聖歓喜天縁日(本堂参拝可)(毎月1日、16日)。 *非公開 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『おんなの史跡を歩く』、『京都歴史案内』、『京都市の地名』、『文化財と遺跡を歩く 京都歴史散策ガイドブック』、『京都大事典』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『洛陽三十三所観音巡礼』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都観音めぐり洛陽三十三所の寺宝』、『秀吉の京をゆく』、『新選組と幕末の京都』、『京都ご利益徹底ガイド』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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