正林寺 (京都市東山区)
Shorin-ji Temple
正林寺  正林寺
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楼門、3間1戸。


扁額「小松谷」、江戸時代、明和年間(1764-1772)、関白・九条尚実の筆による。










圓光大師旧跡


小松谷御坊旧跡地・正林寺の碑



上馬町 小松谷地蔵尊



開山堂


開山堂



開山堂、「法生殿」



本堂(大師堂)



本堂、「正林寺」の扁額、



鐘楼



阿弥陀経石




宝篋印塔



境内からの東山の眺望



【参照】「渋谷街道(渋谷越)」の石標


【参照】渋谷街道(渋谷越)の旧道 
 京都と山科を結ぶ渋谷通(しぶたにどおり、苦集滅路 [くずめじ])沿いに正林寺(しょうりんじ)は建つ。「小松谷御坊(こまつだに-ごぼう)」ともいう。院号は、光明真言院、山号は清涼山という。
 浄土宗、本尊は円光大師像。 
 法然上人(円光大師)二十五霊場第14番。
◆歴史年表 平安時代末期、この地には、武将・平重盛(1138-1179)の「小松殿」とその殿内に念仏堂があったという。
 鎌倉時代初期、政治家・九条兼実(1149-1207)が別邸「小松殿」を建立した。後に一宇を建立し寺坊にした。法然を招き、法談を聞いたという。
 1202年、この地は、法然が剃髪した旧跡ともいう。
 1207年、3月、法然が讃岐に配流される際、この地より出立したともいう。「小松殿の御堂」「小松谷の御房」と記されている。同年、寺は廃絶する。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477で小松殿は焼失した。その後、荒廃する。
 江戸時代、正徳年間(1711-1716)、知恩院の義山が復興する。また、復興を志ざしたが果たせなかったともいう。
 1733年/享保年間(1716-1736)、僧・恵(慧)空が中興したという。また、恵(慧)空が師・義山の遺命に従い、九条家の援助を得て正林寺(北野真盛辻子、上京区真盛町)を当地に移し、小松谷坊(小松谷正林寺)を再興したという。
 1734年/1735年、九条家より堂舎の寄進を受け、伽藍が整えられる。
 宝暦年間(1751-1764)、源空の遺跡二十五霊場の一つに数えられる。
◆平重盛 平安時代末期の武将・平重盛(たいら -の-しげもり、1138-1179)。通称は小松内府、灯籠大臣、小松殿。清盛の長男、母は右近将監・高階基章の娘。1150年、蔵人になる。1156年、保元の乱で、第77代・後白河天皇側として父とともに源為朝と戦う。1159年、平治の乱でも戦功をあげ、伊予守に任じられる。1163年、後白河上皇の蓮華王院(三十三間堂)造営に伴い、従三位に叙される。公卿に列し近臣になる。1165年、参議になる。1167年、従二位権大納言、東国、西国の山賊・海賊追討を命じられた。1168年病により官を辞した。1171 年、権大納言に復した。1177年、左大将、従二位内大臣になる。平家打倒の謀議、鹿ケ谷事件で、妻・建春門院新大納言は首謀・藤原成親の妹であり、平家一門内で孤立した。事件後、清盛が後白河法皇を幽閉しようとし、諫めたという。(『平家物語』)。1179年、職を辞し出家、静蓮(じょうれん、証空とも)と号した。
 信仰厚く、燈籠堂では毎月14日、15日に融通大念仏会を行ったという。平家、他家の美貌の女房を堂に集め称名念仏を行い、燈籠大臣と呼ばれた。遺体は六波羅第に葬られた。平氏都落ちの際に焼き捨てられる。42歳。
 東山小松谷、五条坊門万里小路に邸があった。浄教寺は、小松殿の東山燈籠堂の後身といわれている。
◆九条兼実 鎌倉時代の政治家・九条兼実(くじょう-よしみち、1149-1207)。月輪殿、後法性寺殿。父は摂関家の藤原忠通、母は女房加賀(藤原仲光の娘)。1166年、右大臣になる。1156年、異母姉の皇嘉門院の猶子になる。1158年、兄・基実の猶子として元服した。左近衛権中将、権中納言、左近衛権中将、権大納言・右近衛大将、内大臣を経て、1166年、右大臣に進み、1174年、従一位に昇る。1179年、平清盛の権力奪取後、1185年、頼朝内覧の宣旨により、1186年、摂政・藤原氏長者になる。1187年、記録所を設ける。1189年、太政大臣、1190年、娘・任子を入内させ、第82代・後鳥羽天皇中宮にさせる。1192年、後白河法皇(第77代)没後、頼朝に征夷大将軍を宣下する。だが、1196年、政変により失脚した。弟の天台座主・慈円の後見になり仏教界に影響を及ぼす。息子、妻を亡くし法然に帰依した。1202年、出家、円証と号した。山荘の月輪殿に隠棲する。
 和歌に親しみ、藤原俊成・定家らの庇護者になる。40年間の日記『玉葉』がある。 
 九条家を興した。内山に葬られた。墓は現在、東福寺内にあり、1881年に公爵・九条道孝が「発見」したという。ただ、確定されていない。59歳。
 法然の弟子・親鸞の妻は、兼実の娘であり、親鸞は晩年に兼実の花園別邸に過ごし、亡くなったともいう。弟・慈円(1155-1225)を4度、天台座主とするなど権勢をふるう。妻の死を契機に法然を戒師にして出家した。兼実は、法然のために小松殿内に小松谷房を用意し、1206年、法然を招いたという。法然は四国配流に際して、この小松殿から旅立ったという。
◆法然 平安時代末期-鎌時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。諱は源空、勅諡は円光大師、明照大師、通称は黒谷上人、吉水上人、幼名は勢至丸。美作国に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒した。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り、黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場になる。1186年(1189年とも)、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)になる。1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。翌1212年、ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。80歳。
 法然の専修念仏とは、誰もがひたすら祈ることで極楽往生できるとし、既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。
◆弁長 平安時代末期-鎌倉時代初期の浄土宗の僧・弁長(べんちょう、1162-1238)。俗姓は古川、字は弁阿、通称は鎮西上人、筑紫上人、二祖上人、号は聖光(しょうこう)房、勅諡は大紹正宗国師。筑前国に生まれた。1168年、7歳で出家、筑紫・観世音寺で登壇受戒する。白巌寺の唯心、明星寺の常寂に天台を学ぶ。1183年、比叡山東塔南谷の観叡、東塔東谷の証真(宝地房)に師事した。禅を大日能忍に学ぶ。1190年、帰郷し九州油山の学頭になる。弟・三明房の死後、浄土教に傾倒した。1197年、上洛の際に法然の弟子になった。その後、法然の命で伊予国に勧化に行き、再び法然のもとで専修念仏を学ぶ。1199年、再び上洛した。1204年、帰郷し筑前、筑後、肥後などで布教し、1212年、筑前・善導寺を建立している。 48寺を建立したという。浄土宗の第2祖、鎮西流の祖。著『浄土宗要集』『徹撰択集』。77歳。
 弟子・良忠(りょうちゅう)らを育てた。
◆恵空 江戸時代前期の真宗の僧・恵空(えくう、1644-1722)。字は得岸、俗姓は川那辺、号は光遠房、秀光堂、諡号は光遠院。近江国生まれ。善立寺信空の子。1661年、比叡山に上る。その後、山を下り、誓源寺で真宗を学び、その後本山に出仕した。河内国・光徳寺、1680年、京都・西福寺に入寺した。1683年、御堂衆の職務を解かれた。1699年頃、京都・真宗の円智に師事する。1700年、東本願寺・琢如により御堂衆に採用される。1715年、東本願寺学寮(大谷大学の前身)の初代講師に任じられたともいう。著『無量寿経講義』。78歳。
◆仏像・木像 ◈本堂の本尊の「円光大師(法然)像」は、法然自作ともいう。脇に「藤原(九条)兼実像」、「僧聖光弁阿像」を祀る。
 ◈開山堂に「恵空像」を祀る。
 ◈阿弥陀寺(山科区)の「阿弥陀如来坐像」、福應寺(山科区)の「地蔵菩薩」は、当寺から遷されたという。
◆建築 表門、大玄関、大師堂(本堂)、開山堂、鐘楼、庫裡などが建つ。
 「本堂(大師堂)」は、かつて九条家の河原御殿を移して改修したという。唐破風向背がつく。
◆文化財 本堂に掲げられている扁額「正林寺」は、江戸時代末期-近代の公卿・九条尚忠(1798-1871)筆による。
燈籠堂 平安時代後期、承安年間(1171-1175)初め、武将・平重盛は東山小松谷の邸内に燈籠堂を建立している。
 48間(87.2m)の精舎を建て、各柱間毎に一体ずつ全部で48体の阿弥陀仏を安置していた。また、1間ごとに6官女(全体で280人)を置き念仏を唱えさせ、48個の燈籠を掲げたことから燈籠堂と呼ばれた。このため、重盛は「燈籠大臣」と呼ばれた。(『平家物語』)
◆経石 境内に「阿弥陀経石」が立てられている。江戸時代作であり、入母屋造の本瓦型の笠石、台石、基礎に返花蓮華、定印の阿弥陀坐像が彫られ、「弥勒四十八願」中の三願、背面に「仏説阿弥陀経」、「無量寿仏説往生浄土呪」を陰刻する。京都市内に現存する阿弥陀経石は2つしかなく、その一つになる。高さ2m、水成石製。
 阿弥陀経石の逸話がある。平重盛は一族の後生安堵のために、宋国阿育王山に砂金を送る。鎌倉時代、1198年、返礼として宋国より阿弥陀経石が送られた。重盛はすでになく、平家も滅亡しており、宗像大社宮司屋敷に置かれた。(『平家物語』巻三、『源平盛衰記』)。
 後世、江戸時代、1648年、有志により重盛ゆかりの当寺に建立されたという。また、江戸時代、1746年に、模刻した経石を有志によりこの地に建立したともいう。
◆渋谷通・苦集滅路・馬町 渋谷越(しぶたにごえ)は、五条橋口(六条坊門末)より清閑寺山、阿弥陀ヶ峰の谷を通り山科、東海道に通じる間道だった。現在の五条通(国道1号線)とほぼ同じ道に重なる。旧道は、急坂の難所だった。渋谷は、「しるたに」とも呼ばれ、「滑谷」、「瀋谷」、「汁谷」とも記された。これらは、ぬかるんだ道を形容したという。
 古くは「苦集滅路(くずめじ)」と呼ばれた。初期仏教の根本的な教義「苦集滅道(くじゅうめつどう)」に因む。「久久目路(くくめじ)」とも記された。三井寺の教待和尚は、清水寺の行叡居士と親しく、大山崎の別業を訪ねる際に、木履が「苦集滅路」と響いたように聞こえたことから名付けたともいう。また、東国に左遷される際に、「四諦の法(したいのほう)」を観じたことによるともいう。四つの真理の意であり、苦諦、集諦(じつたい)、滅諦、道諦の総称、苦集滅道をいう。
 上下の馬町(うままち)の地名が残る。かつて、渋谷通で用いられた馬借の馬屋が道筋に建ち並んでいたためともいう。また、平安時代、1193年、淡路国より源頼朝に9つの足を持つ馬が献上されたという。人々が見物に殺到し、地名由来になったともいう。(『菟芸泥赴(つぎねふ)』)。六波羅探題の頃、この付近が馬の繫留地だったためともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の石造美術めぐり』『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『京都古社寺辞典』『京都の寺社505を歩く 上』『日本の名僧』『京都大事典』 『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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正林寺 〒605-0927 京都市東山区上馬町553,渋谷通東大路東入ル3丁目   075-541-8388
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