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阿弥陀寺 (京都市山科区御陵) Amida-ji Temple |
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阿弥陀寺 |
阿弥陀寺 |
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![]() 山門 ![]() 「浄土宗 阿弥陀寺」の寺号板 ![]() 「吉祥山 無量寿院 阿弥陀寺」 ![]() 山門、化粧瓦 ![]() 阿弥陀寺の由来プレート ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂、山号扁額「吉祥山」 ![]() 鎮守社 ![]() 子育て地蔵尊 ![]() 地蔵苑 ![]() 「天徳町」の地名 |
阿弥陀寺(あみだ-じ)は、第38代・天智天皇陵の南東、旧東海道の北に位置している。境内北側には、JR東海道本線の高架、北西には京阪京津線が通じている。山号院号は「吉祥山
無量寿院」という。 浄土宗、知恩寺末寺、本尊は阿弥陀如来像。 ◆歴史年表 奈良時代、728年、僧・行基は、興福寺の前身の山階寺跡地を訪れ、荒れ果てた墓地を整備し堂(阿弥陀寺の前身)を建立したという。(『山洲名跡志』) 平安時代、天台宗に属し「叡山三千坊の随一」といわれる別院だった。 1177年、平重盛は、東山の小松谷に堂を建て、48躰の阿弥陀仏像を安置した。その際に当寺の本尊・阿弥陀仏を遷し祈念したとされる。その後、当寺に戻され安置される。 南北朝時代、1357年、旧3月27日、知恩寺11世・円(圓)智が、阿弥陀寺を天台宗別院から浄土宗に改宗する。(『読史備要』『宇治郡名勝誌』)。円智は阿弥陀寺の中興開基になる。 室町時代、1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で、阿弥陀寺は焼亡する。本尊・阿弥陀仏のみは難を免れる。 江戸時代、1663年、画家・狩野岑信筆の「釈迦三尊像」が阿弥陀寺に所蔵される。 1684年、阿弥陀寺が記されている。陵村にあり、浄土宗で寺物多しとある。(『雍州府志』) 1711年、阿弥陀堂について記されている。同所北方南向きにあり、行基の開基による。北2町余に葬所三昧あり、行基が開き、堂は葬所の本師堂という。(『山州名跡志』) 1849年、第49世・輪誉和尚が知恩院門跡・尊超法親王の扁額下賜を願い出る。旧12月、認められ門跡直筆の寺号扁額が下賜される。 近代、1907年、阿弥陀寺門前に桜が植えられた。 1924年、6月28日、浄土宗開宗750年記念大会事業に貢献したとして、阿弥陀寺は、総本山知恩院寺務所より感謝状を受ける。 現代、2017年、桜が伐採される。 ◆行基 飛鳥時代-奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。男性。百済系の渡来人・高志(こし)氏。河内国(大阪府)の生まれ。父・高志才智、母・蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受けた。畿内に道場、寺を建立し、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で、詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれた。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し太宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見した。743年、東大寺大仏造営の勧進になった。745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられる。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。 80/82歳。 ◆源信 平安時代中期の天台宗の僧・源信(げんしん、942-1017)。男性。恵心(慧信)僧都、横川僧都。大和国(奈良県)の生まれ。父・卜部正親(うらべ-まさちか)、母・清原氏。7歳で父没後、950年/956年、9歳で比叡山の良源に学んだともいう。955年、得度した。956年、15歳で『称讃浄土経』を講じ、第62代・村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。だが、母の諫言を守り、名声より聖人になるためとして横川の恵心院に隠棲し続けた。973年、広学竪義になり内供奉十禅師に補せられた。988年、覚超らと二十五三昧会を結び、浄土往生の行に励む。正暦年間(990-995)、霊山院を造営し、華台(けだい)院に丈六弥陀三尊を安置、迎講(むかえこう)を始めた。1004年、公卿・藤原道長の帰依により権少僧都になる。延暦寺六月会の探題になり、栄名を嫌い山門を出なかった。1005年、権少僧都を辞する。恵心院で亡くなる。臨終にあたり、阿弥陀如来像の手に結んだ糸を手にし、合掌しながら入滅したという。76歳。 良源門下四上足の一人に数えられた。天台宗恵心流の祖とされ良忍、法然、親鸞らに影響を与えた。宋でも高い評価を得る。浄土宗の基礎になり、地獄極楽観を説いた『往生要集』(985)の編者であり浄土教を大成した。「往生の業は、念仏をもって本となす」と説き、貴族、庶民に影響を与えた。著『一乗要決』『観心略要集』など。慶滋保胤(?-1002)と、仏典研究の「勧学会」を主宰し、庶民への仏法を説く。『源氏物語』第53帖、『宇治十帖』第9帖の「手習」巻では、宇治川に入水した浮舟を助けた「横川の僧都」といわれている。(良源弟子の覚超ともいう)。絵、彫刻に優れたという。源信作の和讃「極楽六時讃」がある。 ◆平 重盛 平安時代後期の武将・平 重盛(たいら -の-しげもり、1138-1179)。男性。通称は小松内府、灯籠大臣、小松殿。父・平清盛、母・右近将監・高階基章の娘の長男。1150年、蔵人になる。1156年、保元の乱で、第77代・後白河天皇側として父とともに源為朝と戦う。1159年、平治の乱でも戦功をあげ、伊予守に任じられる。1163年、後白河上皇の蓮華王院(三十三間堂)造営に伴い、従三位に叙される。公卿に列し近臣になる。1165年、参議になる。1167年、従二位権大納言、東国、西国の山賊・海賊追討を命じられた。1168年病により官を辞した。1171 年、権大納言に復した。1177年、左大将、従二位内大臣になる。平家打倒の謀議、鹿ケ谷事件で、妻・建春門院新大納言は首謀・藤原成親の妹であり、平家一門内で孤立した。事件後、清盛が後白河法皇を幽閉しようとし、諫めたという。(『平家物語』)。1179年、職を辞し出家、静蓮(じょうれん、証空とも)と号した。 信仰厚く、燈籠堂では毎月14日、15日に融通大念仏会を行ったという。平家、他家の美貌の女房を堂に集め称名念仏を行い、燈籠大臣と呼ばれた。遺体は六波羅第に葬られた。平氏都落ちの際に焼き捨てられる。42歳。 東山小松谷、五条坊門万里小路に邸があった。浄教寺は、小松殿の東山燈籠堂の後身といわれている。 ◆円智 鎌倉時代後期-南北朝時代の浄土宗の僧・円智(えんち、?-?)。詳細不明。男性。圓智。1357年、旧3月、西阿の法灯を継ぎ知恩院11世になる。山科・阿弥陀寺を天台宗別院から浄土宗に改宗し、中興開基になる。後、誓阿普観に跡を譲り、鳥羽・法伝寺に幽棲した。法伝寺は、当初、法田寺と号し真言宗だった。1360年、円智は岩屋金峰寺の不動明王の霊夢を感得し、阿弥陀堂を建立し、念仏弘通に努め法伝寺に改めたという。 1324年開版の『和語灯録』・『決疑鈔』の刊記を記したとみられている。 ◆狩野 岑信 江戸時代前期の画家・狩野 岑信(かのう-みねのぶ、1662-1709)。詳細不明。男性。幼名は吉之助・主税。織部、号は随川、覚柳斎。父・狩野常信、母・安信の娘の次男。兄・如川周信、弟・随川甫信。尚信の孫。1688年、甲府藩主・後の6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)に召し出され、御画御用を勤める。1690年、15人扶持を下し置かれる。1704年、家宣の江戸城西の丸入城に従う。1708年、西の丸土圭の間番を仰せ付けられ、切米100俵、役料50俵、金60両、時服を下し置かれる。家宣は松平氏を下し、岑信は恐れ多いとし辞退する。松本氏を賜り随川を友盛に改めた。これにより岑信は狩野派最上位の「狩野総上席」になる。1709年、奥医師並になり切米100俵、7人扶持加増により、200俵7人扶持になった。作品「七福神図巻」「紫式部像」など。47歳。 浜町(はま-ちょう)狩野家の祖。 墓は池上本門寺(東京都)にある。 ◆輪誉 江戸時代後期の浄土宗の僧・輪誉(?-?)。詳細不明。阿弥陀寺第49世。1849年、知恩院門跡・尊超法親王の扁額下賜を願い出、門跡直筆の寺号扁額が阿弥陀寺に下賜される。 ◆尊超 入道 親王 江戸時代後期の皇族・尊超 入道 親王(そんちょう-にゅうどう-しんのう、1802-1852)。男性。父・有栖川宮織仁親王、母・家女房・安藤清子の8男。1809年、第11代将軍・徳川家斉の猶子になる。1810年、親王宣下を受け、知恩院へ入寺、得度、福道と称した。1817年、二品に叙せられた。知恩院の門主に就く。江戸の徳川家慶、その子・家祥らに授戒した。後に第120代・仁孝天皇、第121代・孝明天皇にも授戒した。知恩院家来・池内大学に漢学を学び、文才に優れたという。51歳。 一心院内、知恩院宮墓地(東山区)に葬られた。 ◆仏像 本尊・阿弥陀如来坐像は、平安時代中期-後期の源信(942-1017)作ともいう。(『宇治郡名勝誌』)。坐像8尺(2.4m)あり、飛鳥時代-奈良時代の行基(668/667-749)作ともいう。(『山洲名跡志』)。 平安時代後期の武将・平重盛(1138-1179)の念持仏だったともいう。(『宇治郡名勝誌』)。平安時代後期、1177年、重盛は、東山の小松谷に堂を建て、48躰の阿弥陀仏像を安置した。その際に、阿弥陀寺の本尊・阿弥陀如来坐像を遷し祈念したとされる。その後、本尊は阿弥陀寺に戻され安置される。室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)で阿弥陀寺は焼亡し、本尊のみは難を免れたという。 近代、明治期(1868-1945)の学術調査によれば、「美術上優等の作」と評された。現在は、修理を経て往時の黄金の仏として安置されている。 ◆建築 ◈「山門(赤門)」は、現代、2024年に修理完成した。門の化粧瓦には竹が描かれ、四隅には桃の瓦が配置されている。 ◈「本堂」は、江戸時代中期、1723年の建立とみられる。南面して建つ。 ◆文化財 ◈「寺号扁額」は、極彩色菊御紋付の堅額として本堂に掲げられている。 江戸時代後期、1849年に、第49世・輪誉和尚が知恩院門跡尊超法親王(1802-1852)の扁額下賜を願い出る。旧12月に認められ、門跡直筆の「寺号扁額」が下賜された。 ◈仏画「釈迦三尊像」3幅は、江戸時代前期、1663年に画家・狩野岑信(かのう-みねのぶ、1662-1709)筆によるという。狩野派の作ともいう。釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩を描く。令和期の修復が行われ、現代、2024年に95年ぶりに開帳された。 ◈総本山知恩院寺務所よりの「感謝状」は、近代、1924年6月28日に、浄土宗開宗750年記念大会事業に貢献したとして受けた。 ◆年間行事地蔵苑・子育て地蔵 山門脇に、現代、1979年の国際児童年を祈念し、地蔵苑・子育て地蔵尊が立てられた。 ◆年間行事 修正会(1月1日)、春季彼岸会(3月)、施餓鬼会(8月15日)、秋季彼岸会(9月)、お十夜(11月)。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「阿弥陀寺」、『京都・山城寺院神社大事典』、ウェブサイト「京都を彩る建物や庭園-京都市文化市民局」、ウェブサイト「新纂浄土宗大辞典」、『京都府宇治郡誌』、ウェブサイト「狩野岑信の伝記と浜町狩野家の家格に関する一考」、ウェブサイト「福井地方気象台」、ウェブサイト「コトバンク」、 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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