勝念寺 (京都市伏見区)
Shonen-ji Temple
勝念寺 勝念寺 
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身代り釜


身代り蛙
 勝念寺(しょうねんじ)は、安養山往生院と号する。「かましきさん」「かえる寺」「萩の寺」「えんまさんの寺」とも呼ばれている。
 門前碑に「天明義民柴屋伊兵衛墓所」が立つ。ただ、境内に伊兵衛の墓はなく、その両親、祖先の墓がある。
 浄土宗知恩院末、本尊は阿弥陀如来。
 「通称寺の会」に、「かましきさん」として属する。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1587年、織田信長が帰依した聖誉貞安により開創された。第106代・正親町天皇の勅命による。信長・信忠父子の菩提を弔うために、豊臣秀吉の城下町・伏見丹波橋に開かれ、以来、布教の拠点になる。
 1595年、現在の地蔵堂が建てられた。
 江戸時代、1779年、火災により本堂、庫裏、創建当初の本尊・阿弥陀三尊坐像、過去帳、文物などが焼失する。山門、地蔵堂は難を逃れた。
 1781年、本堂、庫裏が再建された
 文政年間(1818-1830)、当寺の14世・一蓮社諦譽上人隆阿義禅の時、その師・専念寺17世・常恭敬院殿順阿隆圓より、身代釜敷地蔵尊・閻魔法王自作霊像のお札版木を贈られた。以来、身代釜敷地蔵尊の信仰が広まる。
 近代、1881年、本尊が再建される。
 1916年、当寺が伏見義民の一人・柴屋伊兵衛のゆかりの寺であることが発見され、門前に碑が立てられた。
 現代、1976年、現在の本堂が再建された。
◆貞安 室町時代-江戸時代前期の浄土宗の僧・貞安(ていあん、1539-1615)。聖誉貞安。相模国の生まれ。父は後北条氏の一族・北条能登守満教、母は大江正時の娘。4歳で母、5歳で父と死別し、姨母に養育された。7歳で、小田原・大蓮寺・一蓮社堯誉上人還魯文宗の室に入り、11歳で剃髪した。14歳で師に従い下総・飯沼の弘経寺へ移る。同寺7世・見誉善悦の法を継ぐ。1572年、香衣綸旨拝載のために上京した。1573年、弘経寺の首座になる。1575年、能登七尾・西光寺にあり、上杉謙信の穴水城攻より逃れ、1576年、近江・妙金剛寺へ移る。織田信長の帰依を受けた。1579年、貞安の斡旋により、知恩院は信長より寺領100石の加増を受ける。貞安は、信長より安土田中に寺領を得た。能登七尾・西光寺に倣い、龍亀山西光寺を建立した。信長の命により、安土・浄厳院(じょうごん)での宗論に参加し、霊誉玉念らと法華経の日晄らを論破する。以後、信長の信任を得る。1582年、本能寺の変で信長没後、1583年、上洛して淨教寺に入る。1585年、第106代・正親町天皇の勅請で御所参内し、「選擇集」を講じ、僧伽梨大衣を贈られる。1586年、紫宸殿で陽光院親書の「阿弥陀経」を贈られる。1587年、正親町天皇の勅命により、信長、信忠父子の菩提を弔うために、大雲院、伏見・勝念寺を創建した。1594年、石川五右衛門の処刑前に引導を渡す。1595年、豊臣秀次の切腹に伴い、妻妾、幼児などは三条河原で打首になる。貞安は刑場の一隅に地蔵尊を運び、子女らに引導を授けた。1599年、大雲院移転により、「百瓶華会」を催す。1615年、二条城で徳川家康に謁した。大雲院・栖養院に隠棲する。
 勝念寺に貞安上人供養塔、位牌がある。
◆安譽貞保 安土・桃山時代の浄土宗の僧・安譽貞保(生没年不詳)。詳細不明。貞安の弟子。1601年、貞安は、西光寺の貞保に閻魔法王自作霊像を譲与した。後、貞保は勝念寺2世になる。
◆柴屋伊兵衛 江戸時代の薪炭商・柴屋伊兵衛(?-1785)。詳細不明。1785年、伏見奉行の悪政に耐えかねた、京都伏見の町人・文殊(もんじゅ)九助らが幕府に直訴し捕らえられた。伊兵衛も六角獄舎に投獄され、拷問の末に獄死したという。
 1916年、勝念寺が伊兵衛のゆかりの寺であることが発見され、門前碑が立てられた。伊兵衛は直訴当時、すでに高齢だったという。江戸に向った九助、九兵衛らに伏見の様子を知らせていたという。勝念寺には両親、先祖の墓がある。罪人になった本人は、他所に葬られた。戒名は「正譽義山淨因信士」。
◆仏像・木像・位牌 現在の本尊「阿弥陀如来」は、江戸時代、1780年に造像された。住職の師・小松谷義柳の念持仏だったという。蓮台は二つに割れ、光背に両側に迦稜頻伽、上方に化仏が彫られている。
 「閻魔法王自作霊像(十王像)」は、慈悲相の小像(1寸8分、5.5cm)になる。伝承として、摂津国・清澄寺の慈心房尊恵が、閻魔庁の法会に招かれた。その時、閻魔が松材に自刻したものという。織田信長が平氏織田を名乗った際に、始祖・平清盛の追善法要を行った。信長より、導師を務めた貞安に霊像は譲られた。1579年、信長の命により、貞安は、西光寺(安土田中)を開く。1601年、貞安は、西光寺の弟子・安譽貞保(後の勝念寺2世)に霊像を譲る。また、貞安が勝念寺を貞保に譲った際に、霊像も西光寺より遷されたという。
 「多羅観音菩薩坐像(金銅天竺仏坐像)」は、「多羅仏母」、「救度仏母」とも呼ばれる。戦国時代に異国よりもたらされたという。「多羅」とは梵語で瞳を意味する。苦しむ衆生の多さに観音菩薩は、瞳より涙を流した。その涙により生まれた。女性の姿をしており、苦しむ衆生を救済するために右足を前に差し出す。
 「宗祖法然上人像」は、二条専念寺順阿隆圓和尚より贈られた。江戸時代、1694年、知恩院本尊の写しという。
 「身代釜敷地蔵尊」は、「かましきさん」とも呼ばれている。地蔵菩薩は、地獄で釜茹での責めに苦む人々の身代りになり、自ら煮えたぎった釜の中に入ったという。地獄とこの世で苦しむ衆生の苦を取り除き、幸福へと導く。江戸時代より信仰を集めた。
 貞安上人の位牌が祀られている。「柴屋伊兵衛の位牌」は、施主・伏見義民會による。「伊兵衛の両親の位牌」は、伊兵衛が両親のために納めた。
◆閻魔法王像 閻魔法王像にまつわる伝承がある。
 平安時代、1172年、摂津国・清澄寺(現・宝塚清荒神)の慈心房尊恵が亡くなり、閻魔庁の法会に招かれた。閻魔法王は、世の多くの人々が悪行により地獄に堕ちることを憂い、尊恵に世に示すように告げる。法王自ら偈文を書き、尊恵に託した。尊恵は法王の真の姿を請うと、法王は松の木の枝に自刻する。法王は、平清盛が天台慈恵僧正(元三大師)の生まれ変わりであり、仏法護持のために再誕したと告げた。
 やがて、尊恵は蘇生し、清盛に法王の言葉を告げる。清盛は大いに喜び、尊恵に律師の位を授けた。尊恵は霊像を清盛に献上した。平家滅亡後、霊像は密かに平家ゆかりの者が伝えてきた。
 戦国時代、織田信長は一時期「平氏織田」を名乗る。平家の祖・清盛の追善法要を行う。導師は、平家の系譜である貞安に命じた。信長は貞安に霊像を贈った。霊像はその後、弟子の2世・安譽貞保に授けられ、当寺に伝えられてきたという。
◆文化財 「閻魔像譲与状」は、安土・桃山時代、1601年、十王像(閻魔像)を貞安が弟子・安誉へ譲り渡す書状になる。
 「勝念寺由緒書」は、江戸時代、1823年、14世諦譽義禅(一蓮社諦譽上人隆阿義禅上人)が著した。織田信長より贈られた閻魔法王自作霊像の縁起について記している。
 「開山聖譽貞安上人像」。
◆身代り釜・蛙 地蔵堂前に「身代り釜」が納められている。かましきさん(身代わり釜敷地蔵尊)が、身代わりに苦、厄災を受ける。
 境内には多くの「身代り蛙」の置物が置かれている。身代り、代える、蛙と転訛した。
◆萩 境内に10数種、100株の萩が植えられ、9月頃には境内が開放され「萩振る舞い」と呼ばれている。
◆墓 五輪塔の貞安上人供養塔が立つ。
 伏見義民の一人で獄死した柴屋伊兵衛の両親、先祖の墓(江森氏族墓)がある。伊兵衛は、直訴にあたり死を覚悟し、永代回向料として薮地を寄進し、両親と先祖の墓を残したという。墓裏に「永代常回向並墓所花卉 爲糧藪地寄附之」と刻まれている。
◆年間行事 釜敷地蔵尊供養会・花まつり(身代り釜敷地蔵尊を供養、身代り釜敷地蔵尊・閻魔法王自作霊像・多羅観音菩薩坐像(金銅天竺仏坐像)の開帳、古い版木より摺った、釜敷地蔵尊・閻魔法王の御影が授与される。甘茶接待がある。)(4月8日)、盂蘭盆施餓鬼会(8月2日)、棚経(8月5日-15日)、精霊送り(8月16日)、萩振る舞い(境内が開放される。)(9月中旬)、十日十夜法要(双盤を打ち、皆で大念珠を繰る「百万遍大念仏数珠繰り」が行われる。)(10月)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
 
*参考文献 京都市の駒札、当寺サイト


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子安延命地蔵尊

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ヒガンバナ

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 勝念寺 〒612-8319 京都市伏見区石屋町521   
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