大雅堂旧跡 (京都市東山区)
Ruins of Taigado(Ruins of Ikeno,Taiga Residence)
大雅堂旧跡 大雅堂旧跡 
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「大雅堂旧跡」の石碑


「和光同塵」の石碑


「名勝 圓山公園」の石標
 大雲院の通りを隔てた東向かいに、石碑2基が立つ。一基は「大雅堂旧跡(たいがどう-きゅうせき)」、もう一基には「和光同塵」と刻まれている。
 かつてこの付近、真葛原(まくずがはら)には、江戸時代の南画家・池大雅(いけの-たいが/いけ-たいが)の草庵があった。
◆歴史年表 江戸時代、この付近に池大雅(1723-1776)、妻・玉瀾の草庵が結ばれた。草庵「葛覃居(かつたんきょ)」は、現在の大雲院の西南端付近だったという。
 1784年、門人の僧・月峯、凪夜らは、師の没後、遺墨品を整理し、双林寺内に師夫妻を偲び「大雅堂」を建立した。
 近代、1886年以来、円山公園の拡張工事が行われる。
 1903年、大雅堂は消失した。
◆池大雅 江戸時代中期の文人画家・池大雅(いけの-たいが/いけ-たいが、1723-1776)。名は無名、字は公敏、貸成、別号は烏滸釣叟、霞樵、竹居。京都上賀茂深泥ヶ池に生まれた。家は深泥池の農家で、父は西陣の扇屋「菱屋」であり、京都銀座役人中村氏手代を勤めた。3歳で既に「金山」の文字を書く。4歳で父を亡くし、7歳の時、萬福寺で書を披露し「神童」といわれる。1737年、15歳で家業を継ぎ、扇屋の袖亀堂(二条樋口町)を開く。16歳で彫印店を開き篆刻をした。文人画家・柳沢淇園(ぎえん)に指墨画を学ぶ。20歳で聖護院門前に移る。1748年、富士山を踏破、1749年、白山、立山、1750年、紀州の祇園南海を知る。30歳頃(24歳とも)に画家・玉瀾(町)と結婚し、知恩院袋町、祇園真葛原に住した。草堂前は門前市の賑わいになる。
 舶載を独学し、中国南宋画を学び、琳派、西洋画も取り入れる。文人画(南画)大成者のひとりになる。中国の故事、名所、日本の風景などを描いた。書家、俳人としても知られる。作品は40歳代に描いた「黄檗山萬福寺東方丈障壁画」30数面、与謝蕪村と共作した「十便十宜図」(1771)などがある。日本南画の祖とされた。54歳。
 遺言により養家・菱屋の菩提寺である浄光寺(上京区)に葬られた。
◆池玉瀾 江戸時代中期の女性画家・歌人・池玉瀾(いけの-ぎょくらん、1727-1784)。本姓は徳山、名は町、別号は松風、遊可、遊雅、室号は葛覃居、海棠窩。京都生れ。母は祇園(八坂神社南門前)の名物茶屋「松屋」の2代目・百合女(百合)だった。母より和歌を学ぶ。店は祖母・梶(かじ)、母、玉瀾の3人が歌を詠むため、「女歌人茶屋」と呼ばれた。父は江戸の元旗本・徳田某という。柳沢淇園(きえん)に学び、その号・玉桂より玉の一字を与えられ玉瀾と号した。池大雅に絵を学ぶ。26歳で大雅と結婚し、真葛原に住んだ。1776年、夫没後は、茶屋を守った。山水の扇面画にすぐれた。代表作「便面図巻」。57歳?。
 墓は黒谷墓地(左京区)にある。
◆葛覃居 ◈ 「葛覃居(かつたんきょ)」には、夫妻が暮らした。現在の碑の西、現在の大雲院の西南端付近にあったという。
 ◈ 「大雅堂」は、夫妻の没後、弟子37人が両人を偲んで建てた。「歌仙堂」とも呼ばれる。 歌人・木下長嘯子(きのした-ちょうしょうし、1569-1649)の歌仙堂遺構を移している。二階建、6畳間があり、別室に金銅製の観音像を安置した。庭には、長嘯子遺愛の石造手水鉢があった。近代、1903年に円山公園の開設に伴い失われた。
◆碑 道の東側の土手上に、「大雅堂旧跡」の石碑が立つ。
 その隣に「和光同塵」の石碑がある。揮毫は大雅の友人、相国寺慈雲庵主・大典顕常(だいてん-けんじょう、1719-1801)禅師による。大雅の遺徳を偲び立てられた。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都隠れた史跡100選』、『おんなの史跡を歩く』、『京を彩った女たち』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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大雅堂旧跡 〒 京都市東山区下河原鷲尾町、円山公園の音楽堂南   
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