悟真寺 (京都市右京区) 
Goshin-ji Temple
悟真寺 悟真寺 
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本堂








円山応挙、一族の墓



応挙の墓「源応挙墓」「寛政七年(1795年)乙卯七月十七日卒」とある。



応瑞(右)、応立の墓



応震(左)、応誠の墓
 太秦の広隆寺の西に悟真寺(ごしんじ)は位置する。円山応挙とその一族の墓があり「応挙寺」とも呼ばれている。正式には、終南寺善導院悟眞寺という。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来像。
 洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第32番札所、札所本尊は養老地蔵を安置する。
◆歴史年表 鎌倉時代、永仁年間(1293-1299)/1272年、道光が開いた。創建の地は五条坊門とも不明ともいう。
 年代不詳、後に三条に移転する。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、四条大宮西入ルに移る。
 江戸時代、1611年、跡地に袋中が檀王法林寺を創建した。
 寛文年間(1661-1673)、僧・宝山が洛外、六地蔵以外の四十八か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の第32番霊場になる。
 現代、1951年、現在地に移る。
 2013年、本堂が再建される。内陣格天井に8代・円山慶祥、弟子・真祥が「極楽浄土宝華図」を制作した。
◆道光 鎌倉時代中期-後期の浄土宗の僧・道光(どうこう、1243-1330/1331)。望西楼了恵(ぼうせいろう-りょうえ)、了慧道光(どうこう)、蓮華堂。相模の宍戸常重の子。1253年、比叡山に上り尊恵に師事、後に浄土宗に改める。1272年、入洛する。五条坊門に悟真寺を建立した。1274年、法然語録『和語燈録(黒谷上人語燈録)』などを編纂した。1276年、上洛した良忠に師事し、法を嗣ぐ。1277年、洛陽華蔵寺で慈明より円頓戒を授けられた。1279年、良忠より円頓戒を授けられる。1280年、良忠より「末代念仏授手印」を授けられた。1284年、万寿禅院で覚空より円頓戒を受ける。1287年、良忠別伝を編した。90代・亀山天皇の質問に答えた『尊問愚答記』がある。第92代・伏見天皇に円頓戒を授けた。第96代・南朝初代・後醍醐天皇より広済和尚の諡号を贈られる。
 法然の遺文・法語・消息などを整理し、法然、弁長、証空伝記を作成した。三条の悟真寺で鎮西流正統の布教活動を続け、聖光・良忠が浄土宗正統であることを位置付けた。京都三派の一つになり、三条流、三条派、蓮華堂義と呼ばれた。浄忠、良禅、妙徳、妙実などがいる。15世紀半、白旗派に合流される。浄土宗三条派の派祖。79/80歳。
◆円山応挙 江戸時代中期-後期の画家・円山応挙(まるやま-おうきょ、1733-1795)。字は僊斎、仲選、号は一嘯、夏雲、仙嶺、通称は主水。丹波国桑田郡穴太(あのう)村(亀岡市)の農業・丸山藤左衛門の次男。1740年頃、近くの金剛寺に小僧として入る。1747年、15歳で呉服屋「岩城」、後に京都四条通柳馬場の高級玩具商「尾張屋中島勘兵衛」に入る。13-14歳で上京したともいう。17歳頃(15歳とも)で上京し、狩野派・石田幽汀に絵を学んだともいう。1759年、西洋渡来の覗き絵(浮絵)を制作する。遠近法を取り入れた風景画のからくり「眼鏡絵」の制作に携わる。1763年頃、宝鏡寺の蓮池院尼公を知る。1765年頃、円満院門主祐常と親交した。1766年頃、「応挙」と改名し、「応挙」の落款を用いる。中国宋末から 元初の画家・銭舜挙に応ずるの意という。1773年頃、「雲龍図」(東寺観智院旧蔵)を描く。1775年、「平安人物志」に画家部第一位で記載され、京都四条麩屋町西入ルに住んだという。1786年、紀州無量寺の障壁画を描く。1787年、一門とともに大乗寺障壁画(兵庫県香住町)を描く。(第一期)。1790年、禁裏造営で一門により障壁画を制作した。 1795年、一門とともに大乗寺障壁画を描く。(第二期)。
 土佐派、琳派、南蘋派、西洋伝来の「のぞきからくり」により遠近法を学ぶ。狩野派の衰微に代わり、写生画の技法を取り入れ人気を博した。上田秋成、三井家の引き立てもあり、呉春、長沢蘆雪など多くの弟子も得た。豪商三井家の支援を受ける。代表作は、「雪松図」(国宝、1765)、「竹図屏風」(重文、1776)など、祇園祭月鉾の「草花図」、保昌山の「胴幕図」などもある。63歳。 
 悟真寺(四条大宮西入)に葬られる。下宿していた先斗町の一文字徳右衛門の縁故によるという。
◆円山応瑞 江戸時代中期-後期の画家・円山応瑞(まるや- おうずい、1766-1829)。幼名は卯三郎、字は儀鳳、号は怡真堂、通称は右近、主水。円山応挙の長男、円山派の2代目。1787年、父、弟子とともに大乗寺障壁画制作に加わる。1790年、内裏造営に一門として加わる。『平安人物誌』『平安画工視相撲』に載る。64歳。
 墓は悟真寺(右京区)にある。
◆円山応震 江戸時代後期の画家・円山応震(まるやま-おうしん、1790-1838/1840)。字は仲恭、別号は百里、星聚館、方壷子。木下応受の子、円山応挙の孫。伯父・円山応瑞の養子。山水、人物、花鳥に秀でた。48/50歳。
 墓は悟真寺(右京区)にある。
◆円山応立 江戸時代後期-近代の画家・円山応立(まるやま-おうりゅう、1817-1875)。本姓は寺井、字は子道、号は方壺。京都の生まれ。友禅工・寺井久次郎の子。養拙流書法の祖・寺井養拙の玄孫。禁裏御所官人・島田近江守徳直の猶子、円山応震の養子になり、4代を嗣いだ。安政年間(1854-1859)の内裏障壁画制作に参加した。人物、花鳥に秀でる。59歳。
 墓は悟真寺(右京区)にある。
◆円山慶祥 現代の画家・円山慶祥(まるやま-けいしょう、1947-)。京都市に生まれる。1954年、西川純に学ぶ。1963年、縁戚・円山応祥(国井)に師事、1967年、京都成安女子短期大学意匠科卒業、1981年、慶祥と号する。1986年、大乗寺本堂、位牌堂天井絵「天舞四季花瑞鳥図」、1988年、大乗寺本堂、位牌堂、位牌壇地袋「蓮池図」制作、2003年、楞巌寺(綾部市)本堂天井絵「瑠璃光華曼荼羅図」、2013年、悟真寺本堂内陣格天井「極楽浄土寶華図」を制作する。
 円山応挙から8代目になる。
◆墓 円山応挙の墓がある。法名「円誉無之一居士」、墓碑は妙法院宮真仁法親王(1768-1805)が書いたという。
 2代・応瑞、3代・応震、4代・応立、5代・応誠の墓がある。
 2018年-2019年に応瑞、応震の墓が修復された。
◆年間行事 応挙忌(7月17日頃)。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都大事典』、『浄土宗大辞典』、『旧版 京のお地蔵さん』、『京都隠れた史跡100選』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『週刊 日本の美をめぐる 室町5 38 狩野派の流れ 元信 永徳 探幽』、『週刊 日本の美をめぐる 37 リアルに描く円山応挙』、ウェブサイト「円山慶祥・弟子真祥-円山応挙の画系八代」 、ウェブサイト「新纂浄土宗大辞典」、ウェブサイト「コトバンク」
 


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悟真寺 〒616-8161 京都市右京区太秦東蜂岡町5-1  075-861-1406
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