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熊谷蓮心 表徳碑 (京都市山科区) Memorial Monument for Kumagai, Renshin |
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熊谷蓮心 表徳碑 | 熊谷蓮心 表徳碑 |
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![]() 表徳碑 ![]() 「表徳碑」の題額。洛北比丘空心筆 ![]() 碑文、朝倉善解の撰・書 ![]() 西雲寺 ![]() 西雲寺 ![]() 妙見道 ![]() 京都刑務所 ![]() 京都刑務所の花畑 |
山科区東野(ひがしの)の西雲寺(さいうん-じ)山門脇左端奥に、「表徳碑(ひょうとく-の-ひ)」が立つ。 江戸時代後期の商人・社会事業家・熊谷蓮心(くまがい-れんしん)の功績を顕彰し、旧東野村民が立てた。 ◆歴史年表 江戸時代後期、1823年、日照りで東野村は水不足になり村人は窮乏した。 1824年、蓮心は費用を負担し、三之宮神社の長者池を総ざらいし、村人に池の魚を分け与えた。池には新たに小魚を放流し育てた。 1825年以来、蓮心は、老いて屠殺される牛馬を買い上げ、東野村に放牧場(現在の山科刑務所付近とも)を開き牛馬を放牧した。 1859年、蓮心は亡くなる。放牧場事業は、熊谷家7代当主・直孝に継がれる。 近代、1875年、熊谷家8代当主・直行の時に放牧場は閉鎖になる。 1888年、11月、新市町村令により東野村が山科村に改編される。旧東野村民(総代・安田伊右衛門[やすだ-いえもん] )らにより、蓮心の顕彰のために表徳碑が立てられた。 ◆熊谷 蓮心 江戸時代中期-後期の商人・社会事業家・熊谷 蓮心(くまがい-れんしん、1783-1859)。男性。直恭(ちょっきょう/ちょくきょう/なおやす)、通称は九右衛門。京都寺町通姉小路角で筆墨・薫香を商う「鳩居堂(きゅうきょどう)」の熊谷家4代目当主を継いだ。1825年以来、老いて屠殺される牛馬を買い上げ、山科東野村に放牧場を開き牛馬を放牧した。1836年、大飢饉に至るまで、一枚摺「麦飯のすすめ草」などを著し頒布した。大飢饉では、鴨川三条に「お救い小屋」を建て、15カ月間にわたり窮民1500人に施米し、窮民医療にも尽力した。天然痘予防のために医師を長崎に派遣し、治療法を学ばせた。1849年、京都で種痘の予防接種を実施し、子どもには無料で行う。1853年以来、虎列剌(コレラ)大流行に際し、1858年、隔離所「病人世話場」(一之入船町)を設けた。「急病予防方」を刷り頒布する。1859年、自らも虎列剌に罹患し、病人世話場で治療を受け亡くなった。77歳。 墓は大雲院(東山区)にある。 ◆放牧場 熊谷蓮心は、筆の材料を買い付けるために近江、山科を訪れていた。東野村にも度々訪れた。三之宮神社(三之宮大明神)の神宮寺・妙智院(みょうちいん)の講頭を務めている。江戸時代後期、1823年の日照りで村は水不足になり、村人は窮乏した。その年、村は年貢免訴になり、神社の秋の祭礼も延期になった。 1824年に蓮心は費用を負担し、神社の長者池を総ざらいした。村人に池の魚を分け与え、新たに小魚を池に放って放生池と名付けた。音羽川の氾濫後は資金を援助し、堤防を修造し、田の泥を除去させた。金銭を援助し農業も奨励した。 蓮心は、逢坂山、日ノ岡峠などの車道を通る牛、牛稼ぎの疲弊した様を知った。牛馬は老い病気になり役立たなくなると、動物商人の博労(ばくろう)に売られ屠殺された。 蓮心は老いた牛馬を買い上げた。1825年に山科東野村に放牧場「老牛馬放生の地」を開き、これらの牛馬を放った。放牧場の場所は、碑の立っている場所の東側、現在の山科刑務所付近(八反田町)だったともいう。場所については異説もある。牛馬の世話は村人に託し、手間賃、餌代なども蓮心が負担した。放牧された牛馬の数は常に20頭余りだったという。同年11月に蓮心は、事業を全国に広げようと、木版刷りの「牛馬放生すすめぐさ」を頒布している。 1859年に蓮心は、救援に関わった虎列剌(コレラ)を罹患し亡くなる。その没後も、村人の蓮心への追慕の気持ちは変わらなかった。 近代、1875年、京都府知事・槇村正直と熊谷8代当主・直行との博覧会についての話し合いの中で、「老牛馬放生の地」の閉場が決まった。放牧場開場以来の50年で、牛馬1000頭以上が飼われた。 ◆表徳碑 近代、1888年11月に、東野村が山科村に改編されるのに伴い、村人は資金を出し合い、蓮心顕彰のための表徳碑を立てた。当初は西雲寺の本堂前、石組台座上に立てられ、碑の除幕式が行われている。 その後、碑は門外の現在地に移される。題額は、洛北比丘空心、撰・書は、西雲寺住持・朝倉善解(あさくら ぜんかい)による。 ◆西雲寺 西雲寺は真宗大谷派であり、室町時代後期、天文年間(1532-1555)に創建されたという。開基は常雲による。京西六条坊山科小山村道場より兼帯だった。(「比留田文書」中「寺社御改帳」) ◆京都刑務所 京都刑務所(山科区東野)は、碑の東にある。法務省所管の既決囚BF級(有罪の判決が確定し、刑の執行を受ける囚人)の収容施設になる。 近代、1869年に旧小浜藩邸(中京区御池神泉苑西入ル)に、「京都府徒刑場」が開設された。1870年に旧幕府所司代邸(上京区主税町)に「恙役場(ようやくば)」として移転された。1903年に司法省直轄の「京都監獄」になる。1922年に「京都刑務所」と改称された。1927年に現在地(山科区)に移転新築になった。1931年に竣工している。 木工、印刷、金属、洋裁作業が行われ、収容定員は1443人になる。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 碑文、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『東野村の人々と熊谷蓮心~翁表徳碑物語~』、『山科の歴史を歩く』、『京都大事典』、『史料 京都の歴史 第11巻 山科区』、『山科事典』、『京都山科 東西南北』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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