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清和天皇社 (京都市右京区)
Seiwa-tennosha Shrine
清和天皇社 清和天皇社 
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社殿は急な坂の上にあり、参道は石段になっている。







 柚子、樒(しきみ)の郷として知られる水尾の里に清和天皇社(せいわ てんのうしゃ)がある。
 祭神は、第56代・清和天皇、元来の氏神という四所大神を祀る。
◆歴史年表 平安時代、880年3月、清和法皇は丹波国水尾の地に入り、絶食などの激しい苦行を行った。
 法皇は水尾の里を気に入り、この地で生涯を送ることを決める。里人による新しい仏堂の建立が始まり、法皇は水尾から左大臣・源融(822-895、第52代・嵯峨天皇の子)の別邸・釈迦堂(栖霞観、棲霞観、現在の清凉寺)へ移った。
 879年、法皇は病を発し、公卿・藤原基経(836-891)の粟田山荘(後の円覚寺)に移り、そこで亡くなった。
 その後、天皇の遺詔(遺志)により水尾山に御陵が築かれる。里人は天皇を偲び社を建て、法皇を祀ったという。
 また、生母・染殿皇后が崇敬したという四所大神も合祀された。法皇の水尾での住いの内庭に祀られていたものを遷したともいう。もともとの氏神ともいう。
清和天皇 平安時代前期の第56代・清和天皇(せいわ てんのう、850-881)。名は惟仁。水尾帝(水尾天皇)、水尾御門とも呼ばれた。第55代・文徳天皇の第4皇子、母は藤原良房の娘・明子(染殿皇后)。良房の染殿邸に生まれた。850年、兄の3親王(惟喬、惟条、惟彦)を差し置き、生後8カ月で立皇太子となる。858年、9歳で即位し、後見した外祖父・良房が人臣(臣下)最初の摂政になる。(正式には866年以降)。866年、応天門の変が起こり、大伴家が没落する。876年、天皇は27歳で譲位し、879年、出家、素真と称した。清和院(旧染殿邸)に移る。良房の養子・藤原基経の粟田山荘(後の円覚寺)で落飾する。畿内巡幸の旅へ出る。棲霞観(清凉寺)に住み、天台宗の名刹・水尾山寺に入寺したという。勅命により「貞観格式」が編まれた。粟田山荘で没した。金戒光明寺裏山に火葬塚があり、経塚とされている。嵯峨水尾山(水尾山陵)に葬られた。
 後世、武門の棟梁となる清和源氏の始祖とされた。
◆藤原明子 平安時代の第52代・文徳天皇女御・藤原明子(ふじわら の あきらけいこ/めいし、829-900)。染殿后。父は人臣最初の摂政になった藤原良房。明子は美貌の持ち主といい、文徳天皇が東宮の際に入内、女御になった。850年、惟仁親王(第56代・清和天皇)を産む。賀茂の斎院・儀子内親王を産む。858年、皇太夫人、864年、清和天皇から皇太后の号を贈られた。882年、孫の第57代・陽成天皇から太皇太后の号を贈られた。藤原氏 による台頭の基盤を築いた。
◆清和天皇陵 水尾山の中腹に、清和天皇水尾山陵がある。ただ、僧の身となった天皇は生前に、陵墓を造営しないようにと遺詔している。 
◆樹木 ユズリハ、トチノキがある。

*「上皇」は、皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『京都 神社と寺院の森』

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【参照】清和天皇水尾山陵、標高300mの木立の中にある。天皇の遺骨が葬られている。陵の参道は石畳が曲線を描いていた。
清和天皇社  京都市右京区嵯峨水尾宮ノ脇町 
    清和天皇水尾山陵  京都市右京区嵯峨水尾清和 
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