大原野神社 (京都市西京区)
Oharano-jinja Shrine
大原野神社  大原野神社
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中門は薬医門、東西楼とも切妻造、桧皮葺。






本殿は4棟が建ち並んでいる。各棟は板堀で連結されている。棟には置千木、三本の堅魚木(かつおぎ)がある。破風も庇下に突き抜け庇の垂木を受けた古い形のもの。江戸時代、1822年に再建、大規模な改修が施されたとみられている。


本殿


本殿






左より白髭社・藤森社、稲荷社、八坂社

 洛西、西山連峰小塩山麓の大原野は、平安京の南西、裏鬼門に当たる。
 大原野神社(おおはらの じんじゃ)は、奈良・春日大社を模した社殿から、「京の春日さん」とも呼ばれている。 
 祭神は、奈良春日大社と同じく、建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比賣大神(ひめおおかみ)の四神を祀る。旧官幣中社、式外社。
 神仏霊場会第86番、京都6番。
 政治、方除け、知恵の神、藤原氏が皇后を多く輩出したことから女性守護、良縁祈願などの信仰がある。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 奈良時代、第50代・桓武天皇は長岡京(784-794)遷都の際に、この大原野で鷹狩を行う。
 784年、桓武天皇による長岡京遷都の際に、皇后・藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)が、奈良・春日神社への参詣が不便になるとして、藤原家氏神の奈良・春日明神を当初は長岡京に勧請し、分祀したのが始まりという。(社伝、『大鏡』)。また、藤原氏出身の皇后のために桓武天皇により、春日社の分霊が勧請されたともいう。
 平安時代、850年、左大臣・藤原冬嗣により、棄京された長岡に取り残されていた社を現在地に移し、春日明神が勧請され、社殿が造営された。禁裏の西南・裏鬼門の方角に当たり、京都の守護神として祀られた。(『公事根源』『神祇正宗』)。社名は地名に因み名付けられた。以後、藤原氏の氏神になる。
 851年、梅宮祭に準じて大原野祭の制が定められる。初めて勅祭(大原野祭)が行われた。
 貞観年間(859-877)、摂政・藤原義房の時、春日、大原野斎女(いつめ)の制が設けられた。義房の没後、廃されたともいう。 
 861年、第54代・仁明天皇女御・藤原順子(のぶこ、809-871)が行啓する。(『三代実録』)
 876年、第56代・清和天皇皇后・藤原高子(たかいこ、842-910)が行啓する。 
 895年、第55代・文徳天皇は、外祖父・冬嗣の果たせなかった壮大な社殿を建立している。
 平安時代中期、藤原氏の隆盛とともに摂関家の崇敬を集めた。平安時代には官祭になった大原野祭には、春秋の二度勅使が派遣される。
 983年、第64代・円融天皇などの行幸、行啓が相次いだ。(『帝王編年記』)
 1005年、第66代・一条天皇中宮彰子の豪華絢爛な行啓があり、父・藤原道長、紫式部も供奉(ぐぶ)している。(『大鏡』『源氏物語』)
 1039年以降、室町時代中期まで「二十二社奉幣の制」中「中七社」に列せられた。
 南北朝時代、1333年、足利尊氏が祈祷を命じる。
 1336年、尊氏は社領、知行地を安堵する。
 1350年、足利義直は山林、社地を安堵する。
 室町時代、1399年、足利義満は大内義弘の幕府への反乱に際して祈願し、恩賞として領地を安堵する。
 足利氏の崇敬篤く、室町幕府の祈願所となっている。また、斎王に倣い藤原氏の子女を置いた斎女(いつきめ)の奉仕も行われていた。
 応仁・文明の乱(1467-1477)以後、荒廃し、祭儀も行われなくなる。
 1486年、足利義政が祈祷を命じた。
 江戸時代、慶安年間(1648-1652)、1649年とも、第108代・後水尾天皇により再建された。現在の本殿はこの時の建立による。戦国時代以来中絶していた祭礼も復する。
 1865年、賀茂、石清水についで、当社の官祭が復活している。 
 近代、1871年、官幣中社になる。
 現代、1946年、社格廃止になる。
 1966年、春日大社より鹿を譲り受け神鹿苑で飼育される。
 1970年、社殿の修復が始まる。
 1995年、神鹿苑が閉じられた。
 2009年、社殿の修復が終わる。
◆藤原乙牟漏 奈良時代の女性・藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ、760-790)。父は藤原良継、母は尚侍阿倍古美奈。774年、安殿親王(のちの第51代・平城天皇)を産む。783年、第50代・桓武天皇即位により皇后になる。786年、賀美能親王(のちの第52代・嵯峨天皇)、789年、高志内親王(第53代・淳和天皇皇后)を出産。翌年長岡京で死去したため、桓武天皇が平安京遷都を決めた動機の一つという。没後、806年、平城天皇即位により皇太后、833年、仁明天皇即位により太皇太后。
◆藤原冬嗣 平安時代の公卿・歌人・藤原冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ、775-826)。右大臣藤原内麻呂の子。810年、第52代・嵯峨天皇が置いた蔵人所初代の蔵人頭。819年、大納言、825年、左大臣まで昇る。821年、大学別曹の勧学院を設立、氏寺の興福寺・南円堂の建立、光明皇后の創立した施薬院の復興を行った。 『弘仁格式』などの編纂、漢詩、和歌も残した。私邸の閑院邸より閑院大臣とも呼ばれる。没後、850年、第55代・文徳天皇(孫、娘の仁明天皇女御・順子の子)即位に伴い太政大臣を追贈された。
◆藤原高子 平安時代の女性・藤原高子(ふじわら の たかいこ、842-910)。二条后。父は藤原長良、母は贈正一位大夫人・藤原乙春。859年、9歳で第56代・清和天皇即位の大嘗祭で五節舞姫をつとめ、従五位下に叙された。866年、25歳で入内、女御となり貞明親王(後の第57代・陽成天皇)を産む。後に貞保親王、敦子内親王と3人の子を産む。876年、陽成天皇即位により、877年、皇太夫人、中宮職が付与される。882年、皇太后の尊称を受けた。896年、建立した東光寺の座主・善祐と密通したとして皇太后を廃された。没後943年復位される。
 入内以前、在原業平と恋愛関係があったとされ、高子が大原野神社に参詣した際に、業平もお供した。
◆藤原彰子
 平安時代の藤原彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、988-1074)。上東門院彰子。公卿・藤原道長(966-1028)の娘。999年、入内し、1000年、第66代・一条天皇の中宮となり、第68代・後一条、第69代・後朱雀両天皇を産む。1026年、上東門院の院号宣下、藤原氏全盛期の中宮として女官・歌人の紫式部(生没年不詳)、伊勢大輔(989? -1060)、赤染衛門(956?-1041)らの才女を集めた。
 1005年、中宮彰子の豪華絢爛な大原野神社行啓があり、父・道長も供奉(ぐぶ)し、彰子に仕えていた紫式部も供をしたとみられている。
◆大原野祭 平安時代、851年、梅宮祭に準じて大原野祭の制が定められる。2月の上卯日、11月中子日に勅使、中宮、東宮、摂関、大臣などが奉幣した。祭祀供奉は藤原氏氏人が務めた。
 平安時代、貞観年間(859-877)、摂政・藤原義房(804-872)の時、春日、大原野斎女(いつめ)の制が設けられた。伊勢斎宮、賀茂斎院にならったという。斎女には藤原氏の女性が奉仕していた。義房の没後、廃されたともいう。 
 平安時代、第66代・一条天皇の頃(在位986-1011)、藤原氏出身の3人の后がすべて出家した。このため祭に奉仕する皇后が居らず、藤原道長の娘・彰子が立后となる。一帝に二后という先例のない状況になる。
◆小塩 平安時代の歌人・在原業平(825-880)の「大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思ひ出づらめ」の歌により、この一帯の小塩の地名が生まれたという。
 清和天皇の女御・藤原高子(842-910)は、東宮御息所の頃、藤原氏氏神の大原野神社に参拝した。この時、供として従った17歳年上の在原業平と逢瀬を持ったという。歌の中で業平は、二人の愛し合った歳月は、神代の昔ほどに流れていると哀しむ。
 業平は、十輪寺に晩年を過ごしたという。当社に参詣した高子への思いを込め、塩を焼いて煙を昇らせた。その塩竈跡とされるものが十輪に残る。二人の恋が実ることはなかった。 
◆建築 「本殿」は江戸時代、慶安年間(1648-1652)の建立と見られている。擬宝珠に江戸時代、「文政五年(1822年)」の銘がある。また、向拝角柱の面取が小さいため、この頃再建されるか、改修があったとみられている。同規模・同形式の四棟が横に並列する一間社春日造社殿になっており、各社殿間は板塀で連結されている。身舎の平面は、170cm四万の正方形になる。屋根は総檜皮茸、棟に置千木と三本の堅魚木をのせる。身舎の正面破風は、直接庇下に突き抜けて庇の垂木を受ける古い形式になる。丹塗り、一間社、春日造、檜皮葺の4棟。
 手前の「中門」は薬医門で、両脇に続く東廓と西廓は、正面を柱間5間、連子窓、背面を柱間3間の吹放ちになる。中門・東西廓ともに切妻造、檜皮茸、本殿と同時期に建立されたとみられている。
◆鳥居 鳥居は明神鳥居になる。江戸時代、1654年に建立された。島木は反り増しなし、島木鼻の切り様は水切、石造。
◆入野神社 入野神社(西京区大原野上羽町192)はかつて、現在の大原野神社の地に祀られていたという。その後、現在地に遷され、大原野神社の御旅所になったともいう。
◆文学 付近の大原野は、平安時代前期作ともいわれる『竹取物語』の舞台になったいう。なお、乙訓名産の竹の子「孟宗竹」は、18世紀中期、中国、琉球、薩摩を経てこの地にもたらされたという。
 藤原高子(後の清和天皇の妃)と歌人・在原業平との禁断の恋は、10年の歳月を経て冬の大原野参詣に同行したことで実現する。その血筋を問われた藤原家出身の高子と政権から遠ざけられた業平との悲恋は、『伊勢物語』に描かれている。業平は高子と密通し、奪おうとして兄・基経が高子を奪う。業平は官位を失い、東国へ東下りになる。業平は小塩山に隠棲し、「大原や 小塩の山も けふこそは 神世の事も 思ひいずらめ」と詠んだ。
 紫式部も参詣している。『源氏物語』第29帖「行幸(みゆき)」巻には、冷泉天皇の行幸の様子が綴られ、玉鬘、六条院の人々も行幸を見物した。玉鬘は源氏に生き写しの天皇に心惹かれる。天皇が光源氏に贈った一首、「雪ふかき 小塩の山に たつ雉の 古き跡をも 今日は訪ねよ」がある。物忌みで同行しなかった光源氏も、「小塩山 みゆきつもれる 松原に 今日ばかりなる 跡やなからむ」と詠んだ。
 また、紫式部は、父・藤原為時の任地の越前で日野山を見て「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる」(『紫式部集』)と詠んだ。
 小塩山連山の総称としての大原山は歌枕にもなる。「姫小松大原山のたねなれば千歳はただにまかせてを見む」(『元輔集』五七)。小塩山は、「大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ」(『古今集』雑上、在原業平、八七一)がある。
◆庭園 境内には、奈良の猿沢池を模した「鯉沢池」が造られ、水蓮、杜若が知られている。
 また境内には、小塩桜、一枝に千もの花をつけるという千眼桜など300本の桜がある。霧島つつじ、牡丹、300本の紅葉でも知られている。
◆瀬和井の清水 清和天皇の産湯に使われ、万葉集編者の大伴家持が愛飲したという「瀬和井(せがい)の清水」という名水がある。
 家持は狩りの際に、「大原やせがいの水を手にむすび鳥は鳴くとも遊びてゆかん」と詠んだ。左大臣・藤原冬嗣「大原や小塩の山のほととぎすわれに神代のことかたらなん」、紀貫之「大原や小塩の山の小松原はや木高かれ千代の蔭見ん」、大江匡房「夜を寒みせがいの水は氷るとも庭燎は春のここちこそすれ」と詠んだ。
 「伊勢物語」「古今和歌集」にも取り上げられている。
◆茶室 「翠嘯庵(すいしょうあん)」は、江戸時代末の茶室を解体復元したものになる。
◆鹿 狛犬は二対の神鹿(しんろく)となっている。手水舎にも水守の鹿が置かれている。
 1966年、春日大社から3頭の鹿が贈られ、境内の神鹿園に遊んでいたという。
◆文化財 南北朝時代、1366年の書写「大原野大明神縁起」。足利尊氏など歴代将軍の「祈祷奉書」。
◆花暦・樹木 ヤマザクラ、シダレザクラ、シダレザクラの千眼桜(4月中旬の3日間のみ)、杜若、水蓮などがある。
◆自然 神域は8万3000㎡あり、その8割以上が森になっている。
 ツブラシイ、モミの巨木、イチイガシ、オガタマノキ、モミなどがある。
◆結婚式 神前結婚式が挙げられる。
◆祭礼 例祭(4月8日)では、大原野産の筍の初堀りを神前に供え国家安泰を祈る。
 御田刈祭(みたかりさい)(9月第2日曜日)では、神相撲が行われる。江戸時代、1717年以来続いている祭りであり、土俵では、秦氏と藤原氏を代表する氏子による取り組みが行われる。その際には、清めの塩を包んだ白紙を口に加えて勝負する。
◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、節分祭(2月節分)、祈年祭(2月17日)、例祭・子供みこし祭(4月8日)、若宮社例祭(4月15日)、献茶祭(5月3日)、大祓式・茅の輪神事(6月30日)、御滝祭(7月1日-2日)、御田刈祭・奉納相撲神事(9月第二日曜日)、新嘗祭(11月23日)、天長祭・大祓式・除夜祭(月日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『京都府の歴史散歩 上』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 6 洛南』『鳥居』『京都おとくに歴史を歩く』『京を彩った女たち』『洛西歴史探訪』『京都の地名検証』『紫式部と平安の都』『京都 神社と寺院の森』『京都の隠れた御朱印ブック』


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猿沢池にある地主神社

若宮社(摂社)

若宮社(摂社)、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)

狛犬の代わりに神鹿(しんろく)が置かれている。

手水舎の水守の鹿




境内にある土俵

瀬和井の清水跡

樹齢450年のモミの大木

鯉沢池、猿沢池を模して文徳天皇により造営された。杜若、睡蓮が花開く。瀬和井の清水と同じ水系の水が引かれている。


千眼桜

富小路禎子(1926-2002)「母胎より彼岸に到るここの道いましばらくの緋なる夕映」
歌人、東京出身。女子学習院卒。富小路家は歌道の家の流れを汲む子爵家で、太平洋戦争以後没落し、旅館などに勤めた。植松寿樹に師事、1946年『沃野』創刊に参加。

植松壽樹(1890-1964)「竹郡に降る音ありて更くるらむ 雪の一夜を来て泊まりたし」
歌人、東京生まれ。1914年『国民文学』に参加。慶應義塾大学卒業後、銀行勤務を経て旧制中学校国語教諭となる。1946年歌誌『沃野』を創刊・主宰。富小路禎子、三枝浩樹らが参加した。

五島茂(1900-2003)「まさかりを過ぎしもみじ葉ためいろのくれなゐ霧らし夕日かがよふ」、五島美代子(1898-1977)「目さむればいのちありけり露ふふむ朝山ざくら額にふれゐて」

【参照】近くの孟宗竹林
大原野神社 グーグルマッブ・ストリートビュー
大原野神社 〒610-1153 京都市西京区大原野南春日町1152  075-331-0014  9:00-16:00
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