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惟喬神社 (京都市北区) Koretaka-jinja Shrine |
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惟喬神社 | 惟喬神社 |
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![]() ![]() ![]() 拝殿 ![]() ![]() ![]() ![]() 雌宮 ![]() 雌宮 ![]() 雌宮 ![]() ![]() ![]() |
京都の北部、雲ケ畑の祖父谷川に架かる岩屋橋を渡ると、小山の中腹に惟喬神社(これたか-じんじゃ)がある。「雌鳥(めとり/めんどり)神社」ともいわれた。 祭神は、平安時代の惟喬親王を祀る。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 平安時代、897年、惟高親王没後に親王を慕う人、供奉した人々により建立されたとみられている。かつては、「雌鳥(めとり)神社」ともいわれ、旧出谷村の産土神になる。 ◆惟喬親王 平安時代前期-中期の皇族・惟喬親王(これたか-しんのう、844-897)。惟高、通称は小野宮、水無瀬宮(みなせぐう)、法名を素覚。第55代・文徳天皇の第1皇子、母は紀氏の右兵衛督(うひょうえのかみ)・紀名虎(きのなとら)の娘・静子。文徳天皇は当初、惟喬親王を皇太子にしようとした。850年、右大臣・藤原良房の娘・明子との間に第4皇子・惟仁(これひと)親王(第56代・清和天皇)が産まれ、惟仁親王が皇太子になった。先例のない皇位継承は、文徳天皇の外祖父・良房への気兼ねと、惟喬親王の母が藤原一門ではなく、紀氏の出自だったためともいう。857年、元服し四品になる。皇位を失った惟喬親王は、858年、大宰師、弾正尹、常陸太守を歴任した。868年、母紀氏のために『法華経』『普賢観経』を書写し冥福を祈った。872年、上野太守などの役職を歴任した。病になり出家し、素覚と号し洛北小野に隠棲する。惟仁親王立太子の際に出家したともいう。岩屋山金峯寺に宮を建て住んだともいう。耕雲入道と名乗り、宮を耕雲寺(高雲禅寺)としたともいう。在原業平、紀有常らも親王の元を訪れたという。その後、病に倒れる。死期迫り、御所の川上の地を避け、さらに北にある小野・大森の地へ移り亡くなったという。歌は『古今和歌集』ほかに入集。54歳。 詩歌に優れた。皇太子争いについて説話として、良房と名虎は、各々真言僧真雅と真済とに修法を行わせた、両人が相撲をとって決着をつけたともいう。親王は、各地に木地師の祖との伝承が残る。 近江・小椋(おぐら)に隠棲して木地屋の職祖になったともいう。 ◆伝承 惟喬親王が狩でこの地の桟敷ヶ岳を訪れた。その時、寵愛していた雌鷹が死んだ。その慰霊のために当社は祀られたともいう。 親王が大森に移り亡くなった時、この雌鷹の高い鳴き声がしたともいう。里人は親王の異変を知り、親王と合わせて祀ったという。 雌鷹とは女性の喩えだったともいう。 ◆年間行事 例祭(5月)。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *年間行事などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都隠れた史跡の100選』、『京都発見三 洛北の夢』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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