将軍塚大日堂〔青蓮院〕・将軍塚・華頂山 (京都市山科区)
Shogunzuka-dainichi-do Temple
将軍塚大日堂 将軍塚大日堂
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華頂山


福徳門

福徳門


福徳門


福徳門

福徳門


福徳門


大日堂


大日堂


大日堂


「大日堂由来碑」


青龍殿



青龍殿扁額





青龍殿




青龍殿、内陣




大舞台、京都市内の眺望



鴨川


平安神宮


大舞台の下部構造の模型、左端と上部の舞台全体は「平行弦トラス」、中央下部が「方杖トラス」、右端が張り出し部分



大舞台、下から見た東側の張り出し



大舞台、側面から見た西側の張り出し



大舞台、下から見た「平行弦トラス」の木組



コンクリート支柱と「方杖トラス」の斜材下部の接合部金具、斜材



方杖材と座屈防止の斜材接合部金具



大舞台、下から見た既存のコンクリート製の舞台、その上を新たに造られた大舞台部分が覆う。



【参照】ガラスの茶室「光庵」



【参照】ガラスの茶室「光庵」





ガラスの茶室「光庵」、横に渡されているプリズム部分


ガラスの茶室、光のスペクトル


ガラスの茶室「光庵」、"Water Block"


西展望台よりの京都市街地の眺望



将軍塚



将軍塚



将軍塚の石標




枯山水式庭園















大日本帝国海軍軍人・東郷平八郎(1848-1934)の手植えの松
 京都市内が一望できる華頂山(将軍塚山、標高210m/215m)の「上の台」頂には、青蓮院の飛地境内に将軍塚大日堂(しょうぐんづか-だいにちどう)がある。
 天台宗、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。
 御朱印が授けられる。
◆歴史年表 平安時代、794年、第50代・桓武天皇は平安遷都に際して皇城鎮護のために、武将像(2.5m)を土で造らせた。これに、鎧兜を被せ、手に鉄の弓矢、太刀を担がせ、西方を向かせてこの地に埋めたという。(『平家物語』巻5、『日本歴代遷都考』)
 平安時代初期、この地に墓地があり山は神聖視されていた。 
 1156年、7月8日、保元の乱の頃、暁の東の空に彗星が現れ、将軍塚が頻に鳴動したという。鳴動の初見になる。(『一代要記』『保元物語』)
 1178年、治承・寿永の乱の頃、鳴動したという。(『山塊記』『百錬抄』)
 1179年、7月7日、治承・寿永の乱の頃、3度鳴動したという。(『平家物語』『源平盛衰記』)
 1184年、治承・寿永の乱の頃、鳴動したという。(『百錬抄』『平家物語』)
 平安時代末、将軍塚造営の様子が描かれている。(『将軍塚縁起絵巻』)
 鎌倉時代、1233年、鳴動したという。(『帝王編年記』)
 南北朝時代、1338年、武将・新田義貞は、将軍塚に陣を敷き、入京した宿敵・足利尊氏の軍を敗った。
 1339年、鳴動したという。(『師守記』)
 1349年、夜半にはなはだしく鳴動し、虚空に兵馬の駆ける音が半時ほどしたという。(『太平記』)
 1350年、観応の擾乱(じょうらん)の頃、鳴動したという。(『園太暦』)
 1351年、観応の擾乱の頃、鳴動したという。(『皇年代略記』)
 室町時代、1421年、前年の大旱(おおひでり)、その後の凶作、飢饉の頃、鳴動したという。(『看観日記』)
 1425年、鳴動したという。(『看観日記』)
 1432年、鳴動したという。(『看観日記』『満済准后日記』)
 1443年、土一揆の頃、鳴動したという。(『看観日記』)
 1461年、寛正の大飢饉の頃、2度鳴動したという。(『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』)
 室町時代、1493年、朝に頻に鳴動したという。(『親長卿記』)
 江戸時代、1729年、毎夜2度ほど鳴動したという。(『月堂見聞集』) 
 1786年、夜半に鼓の音のようなものが響く。その日、鴨川は大水になり、三条大橋が大破したという。また、1788年の大火の前兆になったという。(『閑田耕筆』)
 近代、1871年、上知にともない仏堂が廃止になる。かつて長く青蓮院が管理し、盆供も務めていた。
 1905年、西展望台が整備される。
 1908年、有志により小堂を再建、参道を整備したという。
 太平洋戦争(1941-1945)中、将軍塚には高射砲の陣地が置かれた。
 現代、2014年、青龍殿が落慶になる。「不動明王童子像(青不動)」(国宝)が公開された。
 2015年-2017年、大舞台でガラスの茶室「光庵」が公開された。
◆桓武天皇
 奈良時代-平安時代の第50代・桓武天皇(かんむ-てんのう、737-806)。名は山部(やまべ)。父は白壁王(後の第49代・光仁天皇)、母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔という。皇位継承者ではなかった。772年、光仁皇后井上内親王が廃后、その子・他戸親王も廃太子され、773年、立太子された。781年、即位、同母弟・早良親王を皇太子に立てた。これらには藤原百川の画策があった。784年、平城京より長岡京遷都、785年、造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件に伴い、早良親王を廃太子に追う。794年、平安京に再遷都した。百済王氏出自を官人などに重用、坂上田村麻呂を征夷大将軍とし、蝦夷侵略の兵を送る。最澄や空海を保護し、既存仏教を圧迫した。山陵は当初、宇多野(右京区)とされたが、柏原山陵(伏見区)に改められた。
 桓武天皇は、平安遷都に際して、末代まで都をほかに遷してはいけないとして勅し、皇城鎮護のために、武将像(2.5m)を土で造らせた。これに、鎧兜を被せ、手に鉄の弓矢、太刀を担がせ、西方を向かせて埋めたという。王城に異変がある際には、塚が必ず鳴動するようにと将軍塚と名付けたという。
◆坂上田村麻呂 奈良時代-平安時代の武将・坂上田村麻呂(さかのうえの-たむらまろ、758-811)。奈良時代の武将・坂上苅田麻呂(かりたまろ)の二男。百済系渡来氏族・漢氏の一族。780年、近衛将監、791年、近衛少尉のまま征東副使の一人として参戦し、793年、陸奥国の蝦夷との戦いで戦功を上げた。795年、京都に凱旋した。近衛少将・木工寮の木工頭、796年、陸奥出羽按察使・陸奥守、鎮守将軍になる。797年、征夷大将軍として東北経営、平定にかかわる。798年、清水寺に仏殿を造る。801年、第50代・桓武天皇より節刀を贈られ、4万の兵を率いて戦い、勝利し帰京した。従三位、近衛中将になる。802年、造胆沢城使の時、蝦夷の族長・阿弖流為、 盤具母礼らが投降する。後に2人は処刑される。803年、造志波城使として志波城を築城し、804年、再び征夷大将軍に任じられた。造西大寺長官を兼ねた。805年、参議、3度目の遠征は中止になる。807年、右近衛大将に任じられ、清水寺を創建した。810年、第51代・平城上皇と第52代・嵯峨天皇が対立した平城太上天皇の変(薬子の変)では、嵯峨天皇の側に付き、上皇の東国行きを止めた。中納言、兵部卿などを経て、810年、正三位大納言まで昇る。粟田の別業(東山区粟田口)で亡くなる。贈従二位。娘・春子は桓武天皇の後宮に入り、葛井親王を産んだ。
 死後、栗栖野で葬儀が営まれたといわれ、嵯峨天皇の勅により、甲冑、剣、弓矢をつけた姿で棺に納められた。平安京に向かい、立ったまま埋葬されたという。国家に危急ある時、塚の中で大きな音がしたといわれる「将軍塚鳴動」の伝承がある。
 墓地は、現在地の宇治郡栗栖村(山科区栗栖野)、西野山古墳(山科区西野山)、東山山頂の将軍塚(東山区)にも葬られたとされ伝説化した。
◆新田義貞 南北朝時代の武将・新田義貞(にった-よしさだ、1300/1301-1338)。新田朝氏(朝兼)の長子。1317年頃、家督を継ぎ、上野国新田荘の新田一族の惣領となる。1332年、幕府による河内・楠木正成攻めを中途で帰国した。1333年、執権・北条氏の守護国・上野国で、楠木合戦の戦費調達のため、新田荘世良田宿に入った得宗被官・紀出雲介親連、黒沼彦四郎入道らを討つ。荘内一井郷の生品明神で反幕挙兵し、武蔵に進撃した。新田荘の世良田では、足利尊氏の子・千寿王が、紀政綱、世良田満義らに擁され蜂起し義貞軍と合流した。分倍河原合戦で北条軍を破り、鎌倉を攻める。北条高時らを自尽に追い鎌倉幕府を滅亡させた。1333-1336年、第96代・後醍醐天皇の建武政府で、越後・上野の国司に任ぜられ、左兵衛佐(後、左近衛中将)、従四位上。1335年、南北朝内乱で、南朝方侍大将として転戦、天皇を擁し比叡山に立て籠もる。1336年、一時的和睦に際し、恒良親王を擁し、越前守護斯波高経らと戦い、藤島城付近で戦死した。安養寺明王院に葬られる。
◆吉岡徳仁 現代のデザイナー・吉岡徳仁(よしおか-とくじん、1967-)。佐賀県生まれ。1986年、桑沢デザイン研究所卒業後、倉俣史朗、三宅一生のもとで学ぶ。1992年、フリーランス、2000年、吉岡徳仁デザイン事務所設立。2008年、Wallpaper Design Awards 2008/ Best furniture designer(イギリス)、2009年、Elle Deco International Design Awards/Designer of the Year 2009(イタリア)、2010年 The 100 Most Creative People in Business 2010(アメリカ)など受賞多数。
◆将軍塚 平安時代、桓武天皇による長岡京遷都(784-794)の際に、785年の造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に連座し、天皇の弟・早良親王が配流され憤死するなどの事件、東北経営の失敗、災害などが相次いだ。怨霊の祟りを恐れ、長岡京の廃都につながったともいわれている。和気清麻呂は、狩りにことよせて天皇を山上に誘い、京都に新都を定めることを進言したという。794年、平安京遷都にあたり、「山背」の地名は「山河が襟帯して自然に城をなす」として「山城」と改められた。
 皇城鎮護のために、高さ2.5mの武将像を土で造らせた。これに鎧兜を被せ、手に鉄の弓矢、太刀を担がせ、西方を向かせて埋めたという。王城に異変がある際には、塚が必ず鳴動するようにと将軍塚と名付けたという。平安時代初期の『将軍塚絵巻』にも描かれている。また、遷都があれば、出現して阻止するためだったともいう。
 また、平安時代初期、蝦夷征討した征夷大将軍・坂上田村麻呂が、武具姿のまま棺に納めてこの地に埋められたともいう。ただ、後に出土した武人の埴輪が伝説化したともいう。
 塚は、国家大変の際に鳴動したという。将軍塚鳴動については、江戸時代まで複数の記述がある。なお、塚の所在地については、東山のほかに円山山頂(「名所都鳥」)、東山涌泉寺の山上ともいう。(『京羽二重織留』)
◆大日堂 東山は、東方を守護するという四神のうちの青龍が棲む地とされた。仏教では、胎蔵界の曼荼羅に相当するという。
◆青不動 収蔵庫に、「青不動明王」(絹本著色「不動明王二童子像」)(国宝)が安置されている。「日本三不動画」(ほかに三井寺の黄不動、高野山明王院の赤不動)の一つに数えられる。
 比叡山延暦寺の天台僧・安然(あんねん、841? -915?)が説いた『不動明王立印儀軌修行次第胎蔵行法』の「不動十九観想相」中、「台密系不動二童子像形式」の典型になる。彩色では最古例といわれている。
 肉身は青黒く彩色され、「青不動」と呼ばれた。平安時代中期(11世紀?)、絵仏師・円心( ?-?)作とされる。巨勢弘高(?-?)、延円(?-1040 )作ともいう。この時代の不動明王画像としては、最高傑作とされ後世の手本になった。2009年に初の開帳、2010年より3年をかけて保存損傷修理された。2014年にも開帳された。
 不動明王は、熾盛光如来(しじょうこうにょらい)の化身、また、大日如来の使者とされ、人々の救済のために盤石に座している。揺るぎない不動心と憤怒の姿をしている。「五色(青不動、黄不動、赤不動、目白不動、目黒不動)」ある不動明王の中で、青不動は最高位、中心に位置している。肉身の青い色(暗青色)は調伏力を表している。当初は朝廷に安置され、天台高僧により国家安泰、皇室の安寧を祈願されてきた。その後、平安時代末期に当院に贈られた。
 濃茶褐色の画絹上に描かれている。不動明王の背後に、紅蓮(白土上に朱と丹)の火炎光背に包まれている。炎と本身は一体化し火光になる。炎には、迦楼羅(かるら)という7羽の神鳥(火の鳥)の姿が描かれている。迦楼羅(かるら)には、「三毒」を喰らう意味が含まれている。1.貪、貪欲(とんよく)という「貪(むさぼり)りの心」。2.瞋(しん)、瞋恚(しんに)という「怒りの心」。3.愚癡(ぐち)、癡(痴・ち)という「無知の心」になる。
 像の輪郭は墨線で縁取られ、表現は色の濃淡をつけた「暈(くま)」の手法が用いられている。不動明王の髪は金泥により巻き毛、頭上に髻(もとどり)の七莎髻(しちしゃけい)、右に弁髪を垂らしている。眉骨は隆起し、眼球は充血し、目頭・目尻は赤く彩色されている。右目は地を睨み、左目は天を睨む「天地眼」になる。口に見える牙は、上下に互い違いに生えた「牙上下出」になっている。これらは、いずれも左右非対称の構図になる。
 着衣は丹、襞の部分に朱、朱の「立涌(たちわき/たてわく)文様(相対する2本の曲線の中央がふくれ、両端がすぼまった形を縦に並べた文様)」、群青の「団花文(花を円形に構成した文様)」、青不動明王の房飾付細帯、装身具の臂釧(ひせん)の紐に、白地に緑青・群青・丹具・紫のぼかし、部分的に「繧繝(うんげん)彩色(同一系統の色彩のぼかしではない濃淡)」になっている。
 右手の突き立てた「三鈷剣」には、具利伽羅(くりから)龍が巻き付いている。この「降魔(ごうま)剣」は、魔を退散させ煩悩を断ち切る。龍は、不動明王の変化身の龍王という。掲げた左手の縄「羂索(けんさく)」により、悪を練り上げ、煩悩を断ち切れない人々に仏徳を気づかせ救いあげる。
 髪飾り、胸飾り、装身具の瓔珞(ようらく)、臂釧、腕釧(わんせん)は、裏箔(うらはく、絹地の裏に、金箔や銀箔を貼る)され、弁葉・弁花を組み合わせている。
 不動明王を中心にその右下に、「矜迦羅童子(こんがらどうじ)」が腰を引き控え、上目遣いで合掌する。左下の「制叱迦童子(せいたかどうじ)」は棒を構えて従う。三者は三角構図をとる。
 画面は4枚の絹布で繋ぐ。縦203.2cm、横148.5cm。
◆石仏・花頂院 大日堂には、明治期(1868-1912)に付近の土中より発掘された、平安時代作の石造・胎蔵界大日如来像を安置する。かつて粟田口の花頂院にあった遺仏という。石仏は、将軍塚の「大日さん」と親しまれている。幕末の勤皇志士も、自らの身の安全をこの石仏に祈願したという。
 花頂院の詳細は不明ながら、三井寺別院であり、花頂寺とも呼ばれた。最盛期には、五重塔も建てられる大寺だった。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)以後、廃寺になる。 
◆建築 ◈「福徳門」がある。
 ◈大護摩堂「将軍塚青龍殿(しょうぐんづか せいりょうでん)」は、2014年に建立された。建物は「平安道場(大日本武徳会京都支部武徳殿)」(上京区一条通御前東入新建町)を移築し、新たに収蔵施設や舞台を建設した。
 1914年に、第123代・大正天皇の即位を祝い建てられている。武道場の「武徳殿」であり、当初は北野天満宮大鳥居南、下ノ森の旧遊郭地に建設された。武徳殿とは、平安京大内裏の北西部、宴松原(えんのまつばら/うたげのまつばら)に面して建てられていた建物であり、武技天覧のための施設だった。
 旧武徳殿(平安道場)は、戦後、京都府に移管され、京都府警察の柔剣道場、後に青少年の武道場として使用された。2000年、老朽化により閉鎖され、解体処分の予定になる。その後、保存運動が起こり、2014年に将軍塚に移築され保存されることになる。基礎に煉瓦を使用していた。樹齢200年のヒノキ柱(12m)が12本使われていた。
 移築された旧武徳殿は、青龍殿として再建、改築される。南より外陣、内陣(137㎡)、収蔵庫(12㎡)、外陣(537㎡)が建てられている。外陣には500人収容可能。内陣では護摩祈祷が行われる。奥殿に模造の「青不動明王」が安置されている。木造、総ヒノキ造、平家建、切妻造、四方裳階付、桟瓦葺。幅26m、奥行き20m、高さ14.5m。
 ◈新築された内陣「収蔵庫」がある。
 ◈「大日堂」は、明治期に建立された。木造、寄棟造、瓦葺。 
◆舞台 大舞台(北展望台)は青龍殿の北側と西側に迫り出し、京都市街地、五山送り火のうち4つを一望できる。
 舞台の下部架構は、先端部を「方杖トラス構造」にしている。側面から見ると、南から北への斜面と直交した形で、鉄筋コンクリート(RC造)支柱が一列に立てられている。各支柱の下部より、斜面の下方(南)と上方(北)の両方向に、「V」字形にスギ(むく材)の斜材を延ばし均衡している。その上に「平行弦トラス」の水平の舞台を架けている。支柱の北半分の架構部分は片持ちになる。下に柱の支えはなく、斜面に12mほど張り出す形になる。支柱の上部からは、下へ「ハ」の字形の斜材が掛けられ、方杖材の座屈を防ぐ。支柱以外は木造とし軽量化がはかられている。スギ材は、複数本を結束させ、長ビスで刺して木材のズレを防ぐ。
 方杖トラスの上部に舞台が張られ、この部分は「平行弦トラス」になる。ここでは、梁になる上弦材と下弦材が平行に組まれている。舞台は北よりの方杖トラス部分(689㎡)と南よりの平行弦トラス部分(348㎡)に分けられる。なお、北側の斜面下部に、既存のRC造展望台がいまも残され、舞台の荷重はかからない。舞台延面積1046㎡/1037㎡とも。清水寺舞台の5倍の広さがある。
 設計は、増田千次郎建築事務所、舞台設計は増田千次郎・網野禎昭(法政大学デザイン工学部建築学科教授)・M 's構造設計、施工は内田組による。
◆ガラスの茶室 青龍殿に併設された大舞台に、デザイナー・吉岡徳仁が制作した全面ガラス製の茶室「光庵」が一般公開されている。
 吉岡は、2002年、「透明な日本家屋」プロジェクトを構想し、2011年にイタリアの国際美術展で10分の1の茶室の模型を発表している。2014年末、この地を訪れ、実物大の茶室制作を提案した。2015年4月、京都市とイタリア・フィレンツェ市の姉妹都市提携50周年を記念し実物大で完成した。
 茶室は全面をガラス板で覆う。過去と未来、光や自然との融合・調和を意図したものという。北にガラス戸の躙口、南に貴人口も開けられている。畳も厚いガラスの板を敷く。南西隅上部に三角形のガラス棒(三角プリズム)が渡されている。太陽光線の変化につれ、周囲にスペクトルを発する。ガラス板葺。高さ3m、幅3.9m。
◆碑 「大日堂由来碑」が立つ。「遍照法界 顕廣主 めつらしきこのみほとけそのまゝに ちとせの後に見るそかしこし 従二位男爵九鬼隆一識」とある。
 1907年、実業家・中井三郎兵衛(1851-1932)が将軍塚山上で石造・大日如来像を発見した。1908年、安置するために大日堂を再建したという。
◆松 将軍塚にあやかり、境内庭園には近代以降の軍人手植の松がある。陸軍大将・乃木希典(1849-1912)、元帥海軍大将・東郷平八郎(1848-1934)、陸軍大将・黒木為楨(1844-1923)がある。
 数学者・政治家の菊池大麓(1855-1917)、政治家・教育者で早稲田大学創始者の大隈重信(1838-1922)の手植松もある。
◆庭園 近現代の造園家・中根金作(1917-1995)作庭の枯山水式庭園もある。桜、変わり咲き桃、ツツジ、フジ、紅葉などが知られている。
◆華頂山・花頂院 華頂山(かちょうざん、210m)は、花頂山、花鳥山とも書かれる。東山三十六峰の一つに数えられている。上の台(頂上に将軍塚)、中の台、下の台があり、古くより花の名所として知られた。
 かつて、華頂山北麓に、天台宗寺門派園城寺別院の花頂院(かちょういん)があったという。唐の天台山を模した。このため、山名の由来になった。中世には粟田口華頂町付近にあり、大寺だった。鎌倉時代、1230年、五重塔が醍醐寺七重塔とともに焼失した。南北朝時代、康永年間(1342-1345)、岡崎・法勝寺の炎上に際して類焼する。室町時代、1465年、足利義政は山麓の桜を愛でている。応仁・文明の乱(1467-1477)により廃寺になる。公家・歌人・藤原長親(1075-1133)は、山中に草庵を結んだ。
 現在の将軍塚大日堂の本尊・大日如来は花頂院の遺仏ともいわれている。
◆古墳群 境内には、巨大な円墳がある。かつて数多くの古墳が存在した。「将軍塚付近古墳群」と呼ばれ、現在は3基だけが残る。
 ◈1号墳は山頂にあり、最も古く規模は小さい。箱式石棺が出ている。直径約20m、高さ約2m、周囲64m。
 ◈2号墳は大日堂内にあり、枯山水式庭園の一部になっている。竪穴式石室で、付近より経塚も見つかっている。
 ◈3号墳は大円墳(直径40m)であり最も規模が大きい。現在は将軍塚に習合されている。
◆夜景 夜景の名所として知られている。五山送り火が見わたせる名所としても知られている。ただ、大文字の「大」は斜めにしか見えない。
◆森 近年、周辺の高台寺国有林(75ha)では、広葉樹を枯死させるカシノナガキクイムシの被害が拡大した。
◆都の聖母 江戸時代末、1865年、キリシタン解禁により宣教師が京都に入れることを願い、フランスで作られたブロンズ製の母子像「都の聖母」が作られた。近代、1873年、日本に持ち込まれた像は、日本人信者により密かに将軍塚に埋められたという。この年にキリスト教は解禁になる。
 1879年、250年ぶりに宣教師が京都に着任した。現在、像は三条河原町教会にある。
◆年間行事 夜の特別拝観(3月)、夜の特別拝観(4月初旬-5月初旬)、精霊回向法要(8月16日)、夜の特別拝観(11月初旬-12月初旬)。
 大舞台でのガラスの茶室「光庵」公開(2015年4月9日-2017年9月10日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 青蓮院のウェブサイト、『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』『京都大事典』『続・京都史跡事典』『平安の都』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『青不動のこころ』「日経アーキテクチュア 2014年9月5日 12m張り出す現代版『清水の舞台』」『京都まちかど遺産めぐり』『京都の地名検証』『京の寺 不思議見聞録』『京都の隠れた御朱印ブック』 『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺青蓮院     周辺知恩院     周辺法垂窟     関連神護寺     関連坂上田村麻呂の墓(将軍塚)   関連西野山古墓    関連元慶寺(花山寺)    関連歴代天皇データ     

陸軍大将・黒木為楨(1844-1923)の手植の松

大隈重信(1838-1922)の手植え松4代目の「後継之松」、早稲田大学京都校友会

【参照】黒谷より見た青龍殿
青蓮院将軍塚大日堂 〒607-8456 京都市山科区厨子奥花鳥町28  075-771-0390  9:00-16:30
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