法垂窟(ほうたるのいわや) (京都市東山区)
 Hotarunoiwaya
法垂窟 法垂窟 
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知恩院鐘楼から東山へ向かうとすぐに「ほーたるのいわや 法垂窟まで一丁」と刻んだ石標が立つ。


将軍塚に至る山道





 安養寺の北、知恩院の鐘楼を経て将軍塚に至る山道の途中、青蓮院の飛地境内に法垂窟(ほうたるのいわや/ほたるくつ)がある。 
 法然が法を説いた、庵を結んだという吉水(よしみず)草庵跡ともいわれる。ただ、この付近までも吉水に含むことについては異説もある。
◆伝承 この付近の原野、真葛ケ原(まくずがはら)で、法然と善導が夢中で対面したという。「真葛ケ原のご対面」の伝承が残る。真葛ケ原は、現在の円山公園を中心として、北は知恩院三門前より、南は双林寺に及ぶ東山山麓一帯をいう。かつては、真葛や薄、茅などが生い茂り、萩の名所だったという。
 善導は、「腰上半身尋常僧相、腰下半身金色仏相」の姿で法然の夢に現れ、専修念佛の道を説いたという。
 その時、紫雪が棚引き、雲間に光差し、光放つ色鳥が舞い降り、乱舞したという。法然は急いで山腹に登り、遙か西方を見ると、半金色生身の善導が現れ、法然を励ましたという。
◆法然 平安時代末期-鎌時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。勢至丸。美作国に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となる。1186年(1189年とも)、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)となり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。翌1212年、ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。
 法然の専修念仏とは、誰もがひたすら祈ることで極楽往生できるとし、既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。
◆善導 中国、隋の時代の僧・善導(ぜんどう、613-681)。終南大師。幼くして出家した。『観無量寿経』を新たに解釈し、道綽(どうしゃく)に学ぶ。
 声を出す念仏により往生するという中国浄土教を大成した。後に、長安・光明寺で教化する。著書の『観無量寿経疏』などは、日本の浄土教に影響を与えた。


*知恩院から遠くはありません。山道を少し登った人家のない山中にあります。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『日本の名僧』


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法垂窟

石窟の入口、法然が修行した地ともいわれる。

石窟内には水が湧く。

法然(圓光大師)と善導が夢中で対面したという「圓光大師善導大師真葛ケ原御対面之図」の石碑

ここにも、石清水を集めたという「吉水」がある。
 法垂窟  京都市東山区粟田口粟田山南町  
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