十輪寺 (京都市西京区) 
Jurin-ji Temple
十輪寺  十輪寺
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庫裏







高廊下




本堂(府指定文化財)






上から見た本堂、鳳輦形になっている。


高廊下


「三方普感の庭」


「三方普感の庭」、左に樹齢200年という桜の古木がある。


「三方普感の庭」




なりひら紅葉








鐘楼(府指定文化財)






















「在原業平卿之墓」石標


在原業平墓という宝篋印塔、「大原や 小塩の山も けふこそは 神代のことも 思ひ出づらめ」業平






塩竃跡


近年に復元された塩竃


樹齢800年というオオグス





【参照】「業平父母塔(五輪塔3基)」、西方寺(西京区大原野上羽町)近くの竹林にある。
西山の十輪寺(じゅうりん-じ)は、平安時代の歌人・在原業平(ありわら-の-なりひら)がこの地に住んだという伝承により、「業平寺 (なりひら-でら)」とも呼ばれている。山号は小塩山(おしお-やま)という。「小塩」の地名も、業平が楽しんだという塩焼の風情に由来しているという。
 天台宗。本尊は、伝教大師(最澄)作と伝えられる延命地蔵菩薩(腹帯地蔵)、子授け・安産の信仰を集める。
 洛西三十三所観音霊場第3番札所。京の通称寺霊場番、業平寺。
 在原業平にあやかり芸事上達・縁結びの信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、850年、第55代・文徳天皇が染殿皇后の安産祈願(世継誕生とも)のために建立し、惟仁(これひと)親王(後の第56代・清和天皇)が誕生した。比叡山の円仁の弟子・恵亮(えりょう)を開山とし、伝教大師作という延命地蔵を安置したという。以後、勅願所として栄えた。
 花山法皇(968-1008)は、西国三十三所巡礼の最後に十輪寺を訪れ、背中に背負った観音像を奉納したという。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼亡し、その後荒廃した。
 江戸時代、寛文年間(1661-1673)、藤原北家のひとつ公卿・藤原(花山院)定好により再興される。以後、花山院家の菩提寺になる。
 1750年、藤原(花山院)常雅(つねまさ)により堂宇が整備された。
清和天皇 平安時代前期の第56代・清和天皇(せいわ-てんのう、850-880)。男性。惟仁(これひと)、水尾帝(水尾天皇)、水尾御門。第55代・文徳天皇の第4皇子、母は藤原良房の娘・明子(あきらけいこ、染殿皇后)。良房の染殿邸に生まれた。850年、兄の3親王(惟喬、惟条、惟彦)を差し置き、生後8カ月で立皇太子になる。858年、9歳で即位し、後見した外祖父・良房が人臣(臣下)最初の摂政になる。(正式には866年以降)。866年、応天門の変が起こり、大伴家が没落する。良房が権勢を誇った。876年、天皇は27歳で、基経の妹・女御・藤原高子との間の生後3カ月の貞明(さだあきら)親王(第57代・陽成天皇)に譲位した。以後、藤原北家良房一門の権勢は確立された。879年、出家し、素真と称した。清和院(旧染殿邸)に移る。良房の養子・基経の粟田山荘(後の円覚寺)で落飾する。畿内巡幸の旅に出る。棲霞観(清凉寺)に住み、天台宗の名刹・水尾山寺に入寺したという。勅命により「貞観格式」が編まれた。880年、粟田山荘に移り没した。31歳。 
 金戒光明寺裏山に火葬塚(左京区)がある。嵯峨水尾山(水尾山陵)(右京区)に葬られた。僧の身になった天皇は生前に、薄葬、陵墓を造営しないようにと遺詔している。後世、武門の棟梁になる清和源氏の始祖とされた。
◆在原業平 平安時代前期-中期の歌人・在原業平(ありわら-の-なりひら、825-880)。男性。通称は在五(ざいご)中将、在中将。父・阿保親王(第51代・平城天皇皇子)、母・伊都(登)内親王(第50代・桓武天皇皇女)の5男。妻・紀有常の娘。826年、兄・行平とともに在原姓を賜る。841年、右近衛将監、右馬頭、845年、左近衛将監(さこんえのしょうげん)、847年、蔵人、863年、左兵衛権佐、864年、左近衛権少将、865年、右馬頭(うまのかみ)を歴任し、872年、鴻臚館(こうろかん)に遣わされ渤海使の慰問にあたる。877年/875年、従四位上右近衛権中将になった。879年、蔵人頭になる。家集『業平集』。56歳。
 藤原氏に反発し、奔放な生活を送る。美男であり、様々な伝説を生んだ。第55代・文徳天皇の皇子・惟喬親王に親しく仕えたという。恋愛関係にあっ た二条后・藤原高子の引き立てを受けたという。斎宮恬子(てんし)との恋愛もあったという。『伊勢物語』の主人公ともいう。色好み「昔男」は業平ともいう。新しい和歌を生んだ歌人の一人であり、『古今集』以下の勅撰集に入集。六歌仙、三十六歌仙の一人に数えられた。邸宅は、中京区高倉通姉小路上ル付近にあったという。
◆藤原明子 平安時代前期の文徳天皇女御・藤原明子 (ふじわら-の-あきらけいこ/めいし、829-900)。女性。染殿后。父・人臣最初の摂政になった藤原良房。明子は美貌の人であり、第55代・文徳天皇が東宮の際に入内、女御になった。850年、惟仁親王(第56代・清和天皇)を産む。清和天皇より「皇太后」、孫の第57代・陽成天皇より「太皇太后」の号を贈られた。藤原氏による台頭の基盤を築いた。『今昔物語』には、物の怪にまつわる話などが残る。73歳。
◆藤原高子 平安時代前期-中期の女御・藤原高子(ふじわら-の-こうし、842-910)。女性。父・藤原長良、母・乙春(藤原総継の娘)。東五条第(左京五条四坊)に住したという。859年、五節の舞姫に選ばれる。在原業平に見初められた。866年、第56代・清和天皇の女御になる。868年、貞明親王(第57代・陽成天皇)、870年、貞保親王を産む。877年、貞明親王即位に伴い皇太夫人(のち皇太后)となる。878年、山城国愛宕郡に東光寺を建立した。884年、陽成天皇退位に伴い二条院(左京二条二坊)に移り、二条の后と呼ばれた。東光寺僧・幽仙、善祐と密通したとされ、897年、皇太后の号を廃された。68歳。
 没後943年、復号。歌は古今集に採られた。後宮歌壇に在原業平も集い、その恋人とされ、『伊勢物語』『大和物語』に記された。
◆花山天皇
 平安時代中期-後期の第65代・花山天皇(かざん-てんのう、 968-1008)。男性。父・第63代・冷泉天皇、母・藤原懐子の第1皇子。969年、立太子。比叡山、熊野などで修行する。正暦年間(990-995)、帰京、東院 (花山院)に住んだ。984年、円融天皇譲位後に17歳で即位。986年、寛和の変により右大臣・藤原兼家・道兼父子が退位を画策した。寵愛した身重の女御・忯子(よし子)が亡くなり、元慶寺で出家し入覚と称した。996年、花山法皇襲撃事件では、法皇が忯子の妹のもとに通う中、誤解が元で中関白家の内大 臣・藤原伊周・隆家に矢で射られる。
 和歌に優れ「拾遺和歌集」を編した。建築、絵画、工芸、造園に造詣深かった。書写山、比叡山、熊野などの霊場を巡歴した。天皇の観音巡礼により西国三十三箇所巡礼が中興されたとの伝承が生まれる。墓所は紙屋上陵(北区)にある。花山院とも称された。41歳。 
◆仏像 ◈本堂の本尊「延命地蔵菩薩(腹帯地蔵尊)」は、伝教大師(最澄、767-822)作とされる。腹に巻かれた腹帯で、染殿皇后が安産になったとして、「腹帯地蔵尊」と呼ばれた。年一度、8月23日の地蔵盆に開帳されている。木造、等身大、坐像。
 ◈本堂に「十一面観音菩薩像」が安置されている。「草分(くさわけ)観世音」「禅衣(おいずる/おひづる)観音」とも呼ばれる。平安時代の花山(かざん)法皇(第65代)が、西国三十三所観音霊場を再興した際に背負っていた自作の観音という。法皇は吉峯寺に参る途中に、十輪寺の前を通りかかる。美女が現れついていくと、地蔵菩薩の前で消えた。縁ある寺として観音を安置し、木版の手形を貼り付けて奉納したという。西国三十三番霊場詣りでは、一番最初に詣でた。
 ◈「スリランカ釈迦仏」は、「幸福の釈迦」とも呼ばれる。
◆建築 山門、庫裡、本堂、鐘楼などが建つ。
 ◈「本堂」(府有形文化財)は、江戸時代中期、1750年に再建された。「鳳輦形(ほうれんがた)」という、天皇が乗った輿のような曲線形の屋根を載せる。柱は組み込み式で、釘は使われていない。耐震性があるという。四隅に奇獣の彫刻が施されている。正面に起(むく)りのある千鳥破風、一間の向拝付。方三間、寄棟造、桟瓦葺。
 ◈「鐘楼」(府有形文化財)は、江戸時代、1666年に建立された。梵鐘は「不迷梵鐘(まよわずのかね)」といわれる。
◆庭園 「三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)」は、江戸時代中期、1750年、藤原常雅による本堂再興の際に作庭された。白砂、石組の庭であり、枝垂れ桜が植えられている。
 高廊下(南)、茶室(北)、業平御殿(東)の三方から鑑賞でき、それぞれに鑑賞が異なることから名付けられた。「普感」とは、「仏の遍万している大宇宙を感じること」を意味するという。
 南からは、雲海を見下ろす俯瞰、北からは小塩山と見え、業平の塩焼きの風情を偲ぶ。業平御殿からの景色は、海底の極楽浄土を表すという。据えられた3石は、過去、現在、未来にわたる大宇宙を表現するという。公家はかつて、部屋の中から横たわり庭を眺めていたという。
◆茶室 業平ご殿には、藤原常雅好みの茶室がある。
◆文化財 ◈「菩薩面」は、美しい顔が彫られている。作者、制作年代ともに不明とされる。近代、明治期(1868-1912)初期、重要美術品の指定を受けた。現在は京都国立博物館に委託保管。
 ◈極彩色の「王朝襖絵」(32面)は、近代の神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈により喪われていたものを、現代の画家・黒田正夕(しょうせき)により復元された。
 ◈「花山法皇の御手判」(20cm)は、法皇の手形が木片に浮き彫りになっている。
 ◈「不迷梵鐘(まよわずのかね)」は、江戸時代前期、1666年の作による。
◆在原業平伝承
 在原業平は、晩年にこの地に閑居したとの伝承がある。
 当寺本堂の裏山に、業平の墓と伝えられる宝篋印塔が立つ。当初は、下壇にあった。中世に現在地に遷した際に、土中より甕が発掘された。
 業平ゆかりの塩竃の跡が、近年になり復元された。飛地境内には、「汐汲池(しおくみいけ、塩溜池)」も残されている。業平は難波からはるばる海水を運ばせ、塩焼く風情を楽しんだという。古くは「藻塩焼」という製塩法が用いられていた。干した海藻に付着した塩分を、海水で洗い出してかん水にし、さらに土器で煮詰めた。なお、製塩には大量の薪を必要とした。
 第78代・二条天皇皇后・藤原高子(たかいこ、842-910)が、大原野神社に詣でた際に、業平は塩竃の煙を立ち上らせ、相愛の昔日を偲んだという。虚実入り乱れ、『伊勢物語』『大和物語』には、二人が入内する以前から知り合っていたという。中世には業平を題材とした謡曲「小塩」が創作された。その舞台は、十輪寺、勝持寺ともいう。
◆小塩 平安時代の歌人・在原業平の「大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思ひ出づらめ」(『伊勢物語』第六段「芥川」)の歌により、この一帯の小塩の地名が生まれたという。本来の地名「小入(おじお)」が、後に業平の塩焼伝説を生み、さらに小塩になったともいう。
 藤原高子は、東宮御息所の頃、藤原氏氏神の大原野神社に参拝した。この時、供として従った17歳年上の在原業平と逢瀬を重ねた。歌の中で業平は、二人の愛し合った歳月は、神代の昔ほどに流れていると哀しむ。
 業平は、十輪寺に晩年を過ごしたという。高子への思いを込め、塩を焼いて煙を昇らせた。その塩竈跡とされるものが当寺に残る。その後も、二人の恋が実ることはなかった。
◆樹 境内には、 樹齢800年という大樟樹が数本ある。ご神木で、「願かけ樟」ともいわれる。地蔵菩薩の神力により、一夜にして大樹となったという言い伝えがある。
 樹齢約200年の枝垂れ桜「業平桜」、「なりひら紅葉」もある。
◆年間行事 節分・竹願千巻心経(2月3日)、業平忌三弦法要(5月28日)、本尊地蔵尊秘仏ご開帳(8月23日)、塩竃清祭(きよめさい)(11月23日)。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。

*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都の地名検証』、『おんなの史跡を歩く』、『京を彩った女たち』、『古都歩きの愉しみ』、『京都歩きの愉しみ』、『京の寺 不思議見聞録』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都のご利益手帖』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 十輪寺 〒610-1133 京都市西京区大原野小塩町481  075-331-0154  9:00-17:00
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