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高野新笠陵 (京都市西京区) (大枝陵・桓武天皇御母御陵・光仁天皇夫人 贈太皇太后 天高智之子姫尊 大枝陵) Imperial mausoleum of Empress Dowager Takano, no Nigasa |
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高野新笠陵 | 高野新笠陵 |
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![]() 「桓武天皇 御母御陵 参道」の石標 ![]() ![]() 「大枝陵道敷地」の石標 ![]() 竹林の参拝道 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「贈太皇太后 高野新笠大枝陵」の石標 ![]() 御陵からの京都市街地の展望 |
洛西の御陵大枝(おおえ)山麓に、旧山陰道に面して、第50代・桓武天皇の生母・高野新笠(たかの-の-にいがさ)が葬られた高野新笠大枝陵(たかの-の-にいがさ-おおえりょう/おおえ-の-みささぎ)がある。円墳であり、「大枝山陵」、「桓武天皇御母御陵」、「光仁天皇夫人 贈太皇太后 天高智之子姫尊 大枝陵」とも称されている。 この地は、乙訓郡大江(おおえ)郷にあたる。(『倭名類聚抄』) ◆歴史年表 奈良時代、789年、12月28日、高野新笠は亡くなる。 790年、1月15日条、高野新笠は沓掛の大枝山陵に葬られ、光仁天皇皇后陵と呼ばれた。(『続日本紀』)。皇太后を追贈され、天高知日之子姫尊(あまたかしらすひのひめのみこと)と諡された。大枝陵(西京区大枝沓掛町字伊勢講山[いせこうやま] という)に葬られたともいう。桓武天皇は、新笠の母である土師真妹・その一族に「大枝」の姓を贈る。 平安時代、858年、12月29日、詔により「十陵四墓」の一つに選ばれた。(『三代実録』) 872年、2月13日条、十陵より除かれている。 967年、守戸五烟(しゅこ-ごえん)があてられたと記されている。(『延喜式』) 中世(鎌倉時代-室町時代)、荒廃した。 江戸時代、酒呑童子首塚(西京区)が新笠陵とされていた。その後、現在地が治定される。 近代、1880年、宮内省は現在地に大枝陵を最終比定する。 1934年、11月、「贈太皇新笠 大枝陵」と記された。(「陵墓要覧」) ◆高野新笠 奈良時代の高野新笠(たかの-の-にいがさ、?-790)。女性。父・和乙継(やまとの-おとつぐ)、母・土師真妹(はじの-まいも)。父方は百済よりの渡来系氏族で第25代王・武寧王(ぶねいおう、462-523)の子孫。大和に住んだとみられる。当初は和新笠(やまとの-にいがさ)と称した。729年頃、白壁(第49代・光仁天皇)の妃になる。733年、能登女王、737年、山部王(桓武天皇)、750年、早良王を産む。770年、光仁天皇が即位すると、没した第48代・称徳天皇(高野天皇)に因み、姓を高野朝臣に改められる。778年、従三位。781年、第50代・桓武天皇即位により皇太夫人、正三位になる。 没後、791年、皇太后を追贈され天高知日之子姫尊(あまたかしらすひのひめのみこと、河伯の娘が日精に感じ生まれた王の子孫)と諡され、大枝陵に葬られた。806年、孫の第51代・平城天皇即位により太皇太后になる。高野新笠は、皇后になることはなく、桓武天皇生母として、皇太夫人と称された。 ◆百済氏族 桓武天皇と渡来系氏族・百済氏の関わりは深かった。韓国・武寧王(ぶねいおう)の子孫である和氏(やまとし)の系統、和乙継(やまとの-おとつぐ、 ?-?)の娘が高野新笠(桓武天皇の母)になる。 さらに、661年、百済滅亡後、百済の兄弟王子・余豊璋(よ-ほうしょう、?-?)、百済王善光(くだらの-こにきし-ぜんこう、?-693)が人質として渡来した。弟・善光の系統に百済王敬福(きょうふく、697-766)、その孫娘に百済王明信(みょうしん、?-815)があった。明信の夫で交野の藤原継縄(ふじわらの-つぐただ、727-796)と桓武天皇は関わり、交野で天神を祀る行事を行う。明信は天皇の後宮に入った百済王出身の9人の女性の一人であり、継縄は後に後宮長官に就く。 皇位継承に関わる「三種の神器(鏡、剣、のちに玉)」とともに、「第四の神器」とされた「大刀契(だいとけい/たいとけい)」は、百済伝来とされる。太刀と符契により、即位の儀式で用いられていた。南北朝時代に失われる。 ◆大枝陵 「大枝陵」は、山城国乙訓郡にあり、古代の大江郷にあったことから大枝陵と名付けられた。(『倭名類聚抄』)。兆域は、東1町1段、西9段、南2町、北3町あり、守戸5烟だった。(『延喜式』諸陵寮) 封土の高さは3間半、周囲は72間(『京都府地誌』)の円墳であり、現在は「伊勢講山古墳」と呼ばれている。 永らく陵の位置は不明とされていた。近代、1880年に宮内省は、現在地に大枝陵を最終比定する。1934年11月、「贈太皇新笠 大枝陵」と記され、所在地は「乙訓郡大枝村大字沓掛字伊勢講山」とされた。(「陵墓要覧」) 48 称徳天皇(在位:764-770)→49 光仁天皇(在位:770-781) →50 桓武天皇 (在位:781-806)→51 平城天皇(在位:806-809) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『洛西歴史探訪』、『京都市の地名』、『平安の都』、『おんなの史跡を歩く』、『京都府の歴史散歩 上』、『桓武天皇と平安京』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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