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光悦寺・鷹峯 (京都市北区) Koetsu-ji Temple |
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光悦寺 | 光悦寺 |
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![]() 「本阿弥光悦公旧蹟」の碑 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 延段 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() ![]() 鐘楼、茅葺 ![]() 鐘楼、時の鐘 ![]() ![]() 渡り廊下 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 巴池 ![]() ![]() 三巴亭 ![]() ![]() 大虚庵 ![]() ![]() 大虚庵 ![]() 大虚庵 |
洛北鷹峯の地に光悦寺(こうえつ-じ)がある。一帯は、交通の要衝地であり、京の七口の一つである丹波道(長坂口-丹波)の入口にあたる。 境内の南には鷹峯三山が聳え、谷に紙屋川の清流が流れている。号は大虚山(たいきょざん)という。 日蓮宗、本尊は十界大曼荼羅。 ◆歴史年表 江戸時代、1615年、徳川家康はこの地を野屋敷として本阿弥光悦に与えた。光悦は、本阿弥一族、工匠、豪商らとともに移り住む。当時の街道筋は、「辻斬追いはぎをもする所あるべし」とされる物騒な地だった。(『本阿弥行状記』)。光悦は草庵を結び、傍らに法華題目堂を建てる。位牌堂(位牌所、現在の境内)では、本阿弥家の先祖供養が行われた。当初は大虚庵と号した。 1618年以降、光悦の母・妙秀(1529-1618)没後、妙秀寺が建立される。その向かいに、知足庵が開かれた。 1627年、光悦の養子・光瑳は、日乾を招き、法華の鎮所を建てる。日乾は、寂光山常照寺とし、境内に壇林を創設した。 光悦の晩年、位牌所には興寿院日達が招かれた。仏殿が建てられ、本阿弥一族の菩提寺、光悦寺とした。 1637年、光悦は大虚庵で亡くなる。 1637年/寛永年間(1624-1643)、光悦没後、本法寺12世・正教院日慈(にちじ)により開山され、寺院になったともいう。大虚庵(大虚庵光悦寺)とも称されたという。 1655年頃/明暦年間(1655-1658)、光悦の孫・光伝は、大虚庵の地の一部を寄進し、法華堂唱道場の知足庵真浄堂が建立された。また、知足庵の由信、春継は、大虚庵脇に常題目堂を建立し、唱題修行を続けたという。 1681年、光悦村は幕府により検地、収公上地され、鷹峯村に吸収された。 1692年、鐘楼が建てられた。 近代、1884年、光悦寺は妙秀寺を合併する。 1915年、現在の茶室「大虚庵(たいきょあん)」が再建される。 1921年、現在の茶室「三巴(さんぱ)亭」が建てられた。 ◆本阿弥光悦 室町時代後期-江戸時代前期の芸術家・本阿弥光悦(ほんあみ-こうえつ、1558-1637)。男性。号は自得斎、徳友斎、太虚庵。刀剣の鑑定、磨砺(とぎ)、浄拭、工芸を家職とした京都の本阿弥家に生まれた。父・本阿弥光二、母・妙秀の長男。京屋敷は現在の実相院町(上京区)にあった。書(光悦流)・画、蒔絵(光悦蒔絵)、漆芸、作陶、茶の湯に秀で、古田織部、織田有楽斎につき、千宗旦と交わる。釉薬は三代道人に学ぶ。1615年、徳川家康より鷹峯の地を与えられ、一族、工匠とともに移り住み、光悦村を開く。 角倉了以の子・素庵(1571-1632)に協力し、出版した「嵯峨本(典籍や謡本を雲母摺りした料紙に書を印刷)」、久世舞などの古活字本の刊行、板下を光悦が書いた『伊勢物語』(1608)の出版、琳派の俵屋宗達の下絵に揮毫した和歌巻、色紙などは「光悦本」と呼ばれた。彫刻、茶碗なども手がけた。鷹峯でも楽茶碗を焼いた。「寛永の三筆」(ほかに近衛信尹、松花堂昭乗)のひとり。熱心な法華信者だった。信尹、昭乗、烏丸光広、俵屋宗達、小堀遠州、角倉素庵、千宗旦らとも親交した。80歳。墓は光悦寺(北区)にある。 近くの常照寺に眠る島原の吉野太夫(1606-1643)を身請けした紺灰業の豪商・灰屋(佐野)紹益(1610-1691)は、光悦の甥に当る。紹益が太夫を妻として迎えた際には、光悦が仲介している。 ◆日乾 室町時代後期-江戸時代前期の日蓮宗の僧・日乾(にちけん、1560-1635)。男性。字は孝順、号は寂照院、姓は塚本。若狭(福井県)の生まれ。10歳で父を失い、小浜の長源寺・日欽により出家した。師の没後、上京した。本満寺・日重に師事し、1588年、譲られ本満寺13世になる。1602年、第107代・後陽成天皇の下問に応じ『宗門綱格』を上書した。請われて身延山久遠寺21世になる。立正会竪義の式を整えた。京都鷹峯に檀林を開く。江戸城での不受不施派との対論(身池対論)で勝利する。後陽成天皇から紫衣を賜る。著『宗門綱格』など。76歳。 ◆角倉素庵 室町時代後期-江戸時代前期の豪商・文化人・角倉素庵(すみのくら-そあん、1571-1632)。男性。名は光昌、玄之(はるゆき)、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵。父・角倉了以、母・吉田栄可の娘の長男。父の朱印船貿易、河川開発事業を継承した。1588年、藤原惺窩より儒学を学ぶ。後に林羅山を知り、二人を引き合わせる。本阿弥光悦より書を習う。後に「寛永の三筆」の一人とされた。1599年、『史記』の刊行以降、1601年頃まで、光悦の協力を得て嵯峨本を刊行する。1603年から、父・了以の安南国東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に関わり、日本国回易大使司を称し、角倉船を海外派遣した。父の大堰川、富士川、天竜川の開削、鴨川水道、高瀬川の運河工事を補佐した。1606年-1609年、甲斐、伊豆鉱山の巡視、1614年-1615年、大坂の陣で船便による物資運搬に貢献した。1615年、幕府より高瀬船、淀川過書船支配を命じられ、山城の代官職に就く。1627年、隠棲した。61歳。 歌、茶の湯、書は角倉流(嵯峨流)を創始した。近世の能書家の五人の一人。 墓は化野念仏寺(右京区)、二尊院(右京区)にもある。 ◆板倉重宗 安土・桃山時代-江戸時代前期の幕臣・板倉重宗(いたくら-しげむね、1587-1656)。男性。駿府(静岡県)の生まれ。父・板倉勝重、母・栗生永勝の娘の長男。徳川秀忠に近侍した。1590年、秀忠の上洛に供奉した。1600年、関ヶ原の戦に従う。1605年、徳川秀忠の将軍宣下に際し、従五位下周防守を叙任した。1614-1615年、大坂の両陣に従軍する。1614年以来、徳川和子の入内問題が起こる。書院番頭を経て、1619年、父・勝重の後を継ぎ2代・所司代になる。1626年、大御所秀忠、徳川家光の上京、第108代・後水尾天皇の二条行幸に携わる。1629年、後水尾天皇の突然の譲位を拒めなかった。1654年、職を辞する。退任後も、後任所司代・牧野親成を補佐した。1656年、下総国関宿城に転封され、同地で亡くなる。 父子2代にわたる名所司代として知られる。幕政を定着させた。牢人の追放、キリシタン禁圧、京都民政に関する21カ条の町触発布などを行う。裁判では厳正な態度で臨んだ。後人著の政務記録『板倉政要』がある。70歳。 光悦寺境内に、息子・重宗とともに葬られている。勝重は、光悦の師・織部家臣の家臣・木村宗喜を捕らえ処刑している。光悦は、勝重を鷹峯村の守護神と称え、命日には祭祀を行っていた。 ◆フリーア 江戸時代後期-近代の蒐集家・チャールズ・ラング・フリーア(1854-1919)。アメリカ合衆国デトロイトの生まれ。鉄道事業で巨万の富を得、日本、中国、韓国などの美術を収集し、スミソニアン博物館に寄贈した。当博物館は、アジア専門の美術館として、1923年、フリーア美術館(ワシントンD.C.)を設立し公開している。江戸時代の俵屋宗達筆「松島図屏風」などを所蔵する。65歳。 フーリアは、急速に近代化を遂げる日本に次第に失望していったという。光悦寺境内に碑が立てられている。 ◆光悦村 江戸時代前期、1615年、光悦は徳川家康から洛北鷹峯の地を与えられ、一族、工匠と共に移住する。 一帯は光悦村(光悦町)と呼ばれ、8万坪、東西200間(360m)、南北7町(760m)の広さがあった。東西南北の通りがあり、光悦宅を中心にして、通りには55軒の家が建ち並んでいた。 法華寺院も四所あり、位牌堂(位牌所)では、本阿弥家の先祖供養が行われた。光悦が住んだ大虚庵には、自刻の上行菩薩が安置され、僧侶により法華経一万部が読誦された。 光悦の同行者はすべて法華信者であり、寂浄土の実現を目指し、現世浄土という信仰の集落「一円法華」を形成した。 光悦のほか、本阿弥一族の光悦養子・光瑳、光悦の弟・宗知、本阿弥宗家次男・光栄、その三男・光益、工匠としては蒔絵師・土田了左衛門、蒔絵師・土田宗沢、京唐紙の祖・紙屋宗二、唐織屋・蓮池常有、筆製作者・筆屋妙喜、また、尾形光琳・乾山兄弟の祖父で呉服商・尾形宗柏、豪商・茶屋の四朗次郎などだった。 光悦の鷹峯拝領・移住については諸説ある。 1615年、大坂夏の陣後、豊臣方に内通したという罪状により、茶の湯の師・古田織部(1544-1615)は自害させられた。織部の家臣・木村宗喜による家康暗殺の嫌疑により、木村は京都所司代・板倉勝重に捕えられ処刑された。織部とその子らも切腹させられている。光悦は千利休を批判したが、師は織部だった。織部に連座し、光悦は家康により「洛中所払い」されたとの見方もある。 また、街道警護のために光悦らを住まわせ、西国大名、旧豊臣側の動静を探らせたともいう。光悦は京都所司代・板倉勝重と親交があり、その墓が境内にある。 ◆建築 山門、本堂、庫裡、鐘楼などが建つ。 ◈ 「鐘楼」は、江戸時代前期、1692年に建てられた。茅葺。 ◆茶室 境内には、7つの茶室、大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵が建つ。 庫裏に接して妙秀庵がある。いずれも近代、大正期(1912-1923)以降に建てられた。 ◈「大虚庵(たいきょあん)」は、光悦が鷹峰に建てた居室の名であり、江戸時代前期、1637年、光悦終焉の地になる。その後廃絶した。近代、1915年に再建された。道具商・土橋嘉兵衛の寄付、速水宗汲の設計による。その後、光悦会により、正面入口の貴人口が躙口に、三畳台目から五畳台目に改造された。床は点前座に寄せる。天井は床内を土天井、隅を塗廻し。躙口は板戸二本引、貴人口は東にあり障子二枚引。前面に付廂、切妻造、杮(こけら)葺。 大虚庵の内露地に、光悦遺愛の「薄墨の手水鉢」、石灯籠、周りを囲む竹を組んだ垣根は「光悦垣(臥牛垣)」と呼ばれている。 ◈「三巴(さんぱ)亭」は、近代、1921年に建てられた。数奇屋建築で、八畳2室、水屋などからなる。北西の光悦堂(八畳)の仏壇には光悦の木像を安置する。1923年、仏師・彫刻家・高村高雲(たかむら-こううん、1852-1934)作による。 ◈「了寂軒」は、かつての常題目堂跡に建つ。 ◈「翹秀軒(ぎょうしゅうけん)」の地には、かつて「大虚庵」があった。前方に「鷹峯三山」を望む。東より鷹峯、鷲峯、天峯が借景になっている。山間に京都の市街地が望める。 ◈「徳友庵」は、光悦の号・徳友斎に因む。 ◆庭園 境内周辺は山に囲まれている。北には愛宕山、境内南には「鷹峯三山」を望む。東より鷹峯、鷲峯(わしがみね)、天峯(てんがみね)が借景になる。この山容は花札八月の「芒(すすき)」の絵柄の元になったともいう。 茶室の大虚庵に光悦垣がめぐらされており、秋の萩、紅葉も映える。山門までの参道は楓の並木であり、新緑と紅葉の頃が美しい。 巴池は、光悦作という。 ◆光悦垣 「光悦垣」は、「臥牛垣(がぎゅうがき/ねうしがき)」とも呼ばれている。本歌であり、茶室「大虚庵」の露地の仕切りに用いられている。 最上部の玉橡は、細割竹を束ねて太く作られ、弧を描いて最後は地面に届く。組子は、表裏なく2枚合せの割竹で、菱目に組まれている。地表少し上と上端に、太い半割竹の押橡が渡されている。組子交点はわらび縄で結び、結び目の疣を取り、装飾にしている。垣は緩やかに曲線を描き、南端に向かうほど丈は次第に逓減させている。最後は玉橡の高さで終わる。遠近法も取り入れ奥行きを表している。最高部は1.5mほど、全長18m。 ◆文化財 光悦町古地図、光悦作の茶碗、木像、色紙、短冊、光悦好みの品などは収蔵庫で見学できる。 ◆墓 ◈ 境内の東南隅に光悦の墓がある。板碑状の墓石が立ち、「了寂院光悦日豫居士」と刻まれている。花崗岩製、2m。 ◈ 光悦の養子・光瑳(1601-1682)、孫・光甫(1601-1682)の三代にわたる墓がある。 ◈ 光悦と親交あった京都所司代・板倉勝重(1545-1624)の墓石に「慈光院殿前伊賀守傑山源英居士」・「寛永六年‥」、その子・京都所司代・板倉重宗(1586-1657)の板碑状の墓石に「松雲院源俊山田少将居士」・「板倉防州 明暦二年‥」と刻む。 ◈ 小堀遠州(1579-1647)と一族の墓などがある。 ◆文学 ◈松本清張『光悦』、吉田絃二郎『光悦寺まで』、大仏二郎『宗方姉妹』に描かれている。 ◈澤野久雄の『光悦寺暮色』では、鷹峯の幼馴染である千鶴と庄三が光悦寺で再会する。 ◆鷹峯 鷹峯(たかがみね)は、地名であり、山の名にもなっている。古代には、愛宕(おたぎ)郡栗栖野(くるすの)郷に属した。平安時代前期、874年、元北山に高岑寺(たかがみねじ)という寺院があったという。 (『日本三代実録』)。その後、地名に「高岑(たかがみね)」が残る。 付近に「三峯」といわれる天峯(てんがみね)、鷲峯(わしがみね)、鷹峯があった。鷹峯は狩猟地になっており、第50代・桓武天皇、第52代・嵯峨天皇、第54代・仁明天皇が度々出かけている。鷹峯では、秋冬に鷹狩のために峯上に鷹綱を張り、雌の鷹(綱懸鷹、あみがけのたか)を捕獲していた。 (『雍州府志』)。また、林では毎年、鷹が雛を孵したため山の名になったともいう。 (『山州名跡志』) ◆紅葉 境内の紅葉の色付きは、京都市内では一番早いといわれている。 ◆年間行事 茶会のため拝観不可(11月10日-13日)。 *年間行事は中止、日時変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都の名園 庭』、『洛西探訪』、『京都の地名検証 3』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都大事典』、『京都琳派をめぐる旅』、『京都史跡事典』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都大事典』、『日本のやきもの 京都』、『今月の寺 昭和58年11月号』、『京都歩きの愉しみ』、『言葉は京でつづられた。』、『週刊 京都を歩く 37 紫野周辺』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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![]() 了寂軒 |
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![]() 翹秀軒 |
![]() 翹秀軒 |
![]() 翹秀軒 |
![]() 翹秀軒 |
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![]() 奥に京都市街が望める。 |
![]() 騎牛庵 |
![]() 本阿弥庵 |
![]() 本阿弥庵 |
![]() 本阿弥庵 |
![]() 本阿弥庵 |
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![]() 光悦垣(臥牛垣)、大虚庵露地の仕切りに用いられている。 |
![]() 光悦垣 |
![]() 光悦垣 |
![]() 光悦垣 |
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![]() 光悦墓(中央)と京都所司代・板倉勝重、子・重宗の墓。 |
![]() 光悦墓 |
![]() 京都所司代・板倉勝重、子・重宗の墓。 |
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![]() 光悦の子・光瑳、孫・光甫、そのほか一族の墓、板碑 |
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![]() 「チヤアレス エル 布利耶碑(Monument of Mr.Charles L.Freer)」 |
![]() 歌碑「山二つ かたみに時雨 光悦寺」、田中王城 |
![]() 歌碑「紅葉せり つらぬき立てる 松の幹」、秋桜子 |
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![]() 鷹峯三山の鷹ヶ峰(左)、鷲ヶ峰。 |
![]() 鷹峯三山の天ヶ峰 |
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![]() 【参照】「鷹峯町」の地名 |
![]() 【参照】「光悦町」の地名 |
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