高台寺 (京都市東山区)
Kodai-ji Temple
高台寺  高台寺
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台所坂






山門


総門(表門、山門)(重文)、伏見城より移築された。安土・桃山時代、加藤清正が建立した。薬医門、切妻造、本瓦葺。




「史蹟及名勝 高台寺庭園」石標





方丈、唐門




勅使門、1912年に再建された。





庫裏、1912年再建。切妻造、本瓦葺。



鐘楼 、銅鐘(重文) は、木下家定が江戸時代、1606年に三条釜座の藤原対馬守国久に鋳造させた。撰文は弓箴善疆による。205cm、口径115cm。



茶室「湖月亭」


茶室「遺芳庵」(吉野席)、江戸時代


「遺芳庵」の吉野窓といわれる下地窓、完全な円形ではなく、最下部が直線で切られている。




茶室「遺芳庵」


茶室「鬼瓦席」、江戸時代、杉皮葺


茶室「鬼瓦席」の軒下、妻部分にある鬼瓦




方丈前庭「波心庭」


方丈、1912年に再建された。かつての方丈は、伏見城の遺構だった。


方丈前庭「波心庭」


方丈前庭「波心庭」のシダレザクラ


方丈前庭


方丈前庭


方丈前庭


方丈前庭「波心庭」から見た勅使門


方丈前庭「波心庭」






庭園、築山は鶴島ともいう。捨石が配されている。奥に開山堂




サルスベリ




庭園、偃月池(えんげつち)


庭園、右手の借景は東山
  東山麓に境内が広がる高台寺 (こうだいじ)は、「ねねの寺」「蒔絵の寺」「萩の寺」とも呼ばれている。豊臣秀吉の夫人・北政所ねね(おね、北政所、高台院)が亡くなるまでの17年をこの地で過ごした。山号を鷲峰山(じゅぶざん)、また、岩栖不動山という。高台寿聖禅寺とも呼ばれる。
 臨済宗建仁寺派。霊屋(たまや)に本尊の大随求(だいずいぐ)菩薩坐像、豊臣秀吉と正室・北政所の坐像を安置している。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1598年、1599年、天正・慶長年間(1573-1615)とも、秀吉の正室・北政所が生母・朝日殿のために建立した曹洞宗の康徳寺を前身にする。当初は、現在の高徳寺町(上京区)付近にあったという。(『高台寺誌稿』『坊目誌』)
 江戸時代、1605年、東山、鷲尾山(わしおのやま)麓の現在地にあった細川満之寄進の岩栖院(がんせいいん)と敷地交換する。また、この地は室町時代に廃絶した雲居寺(うんごじ)跡地に当たっていた。康徳寺(後に塔頭・玉雲院と改称)をこの地に移し、東山康徳寺と呼ばれたともいう。(『高台寺誌稿』『坊目誌』『雍州府志』『時慶卿記』)。徳川家康は康徳寺寺領100石を新寺の寺領として認め、諸役を免じる安堵状を出した。(「高台寺文書」)。伏見城より化粧御殿が移され北政所が移る。庭園も移された。この頃、伏見城より持仏堂(開山堂)、霊屋、傘亭、時雨亭も移される。
 1606年、北政所は、秀吉の菩提を弔うために高台寺を創建した。寺名は、北政所が1603年に第107代・後陽成天皇に贈られた院号「高台院湖月尼」に因んだ。徳川家康は、政治的な配慮から建立に協力し、普請御用掛に酒井忠世、土井利勝、普請奉行に京都所司代・板倉勝重、普請掛に堀監物を命じた。開山は弓箴善彊(きゅうしん ぜんきょう、善疆)とし、当初は曹洞宗の寺だった。(『高台寺誌稿』『坊目誌』)
 1608年、久林元昌は、塔頭・岡林院を創建する。
 1609年、弓箴善彊は辞し、桂林寺を建て退隠した。良芸が継ぐがすぐに没し、扶夫が継ぐ。その後、岡林院・元昌が継ぐ。(『坊目誌』)
 1612年、御朱印寺になる。家康は新たに400石を寄進し計500石となる。(「高台寺文書」中「家康朱印状」)
 1617年、前田利家夫人・まつは、高台院を見舞いに高台寺を訪れた。
 1619年、扶夫が没し、通伝が継ぐが塔頭住侶と対立し退く。その後、鼓山が継ぐ。(『坊目誌』)。津和野城主・亀井茲政、久林元昌は塔頭・月真院を創建した。
 1622年、月真院・久林らは、幕府に転派の願いを出し許される。(『高台寺誌稿』)
 1624年、建仁寺久昌院の高僧といわれた295世・三江紹益(さんこうしょうえき)を開山にする。幕府は臨済宗南禅寺派とし、高台寺塔頭・岡林院(こうりんいん)の久林を住持にするように命じたが、最終的には紹益を住持と認め、臨済宗建仁寺派に改宗した。(『高台寺誌稿』)
 北政所が亡くなる。知行は収公となり、寺領500石は改めて寄進される。(『舜旧記』)
 1632年、為居館を圓徳院と改める。 
 1648年、塔頭・春光院が創建される。
 1650年、三江紹益が亡くなり、持仏堂を墓所とし、開山堂に改める。
 1742年、財政難から50日間にわたり諸堂を公開する。
 1789年、大方丈、小方丈などが焼失する。(『徳川実記』)。その後、塔頭・永興院の化粧殿を移築する。開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台などは焼失を免れた。
 1790年-1847年、再建が行われる。(『坊目誌』)
 1830年、京都大地震により庫裏が倒壊している。
 弘化年間(1844-1848)、再建が終わる。
 1851年、復興した。
 1863年、公武合体派の福井藩主・松平慶永(春嶽)の宿所になる。このため、倒幕派浪士により寺は放火される。化粧御殿、大方丈、小方丈などが焼失した。 
 1867年、塔頭・月真院に新撰組を脱退した伊東甲子太郎ら禁裏御陵衛士が屯所とした。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃した。
 1869年、上知令により、寺領は9万5000坪から1万5000坪に減じた。その後再建、整備が進められる。
 1885年、仏殿を焼失した。
 1898年、豊臣秀吉三百年祭は盛大に催される。桃山城跡、太閤坦、豊国神社、妙法院、高台寺、耳塚、智積院などゆかりの社寺などで法要、献茶式、大茶会などが催された。
 1908年、遺芳庵が移された。
 1909年、方丈が再建されたともいう。(『坊目誌』)
 1912年、方丈、勅使門が再建される。
 1913年、鐘楼を焼失し、その後再建されている。
 現代、1955年、霊屋の修理が始まる。境内南に太平洋戦争戦没者慰霊の霊山観音像が建立された。
 1988年、庭園の修復が始まる。
 1989年、整備が完了する。一般公開が始まる。
 1991年、方丈が修復される。
 1993年、霊屋が修復になる。
 1994年、京都の先駆けとしてライトアップが始まる。
 1998年、塔頭・圓徳院内に掌美術館が開館する。
◆おね 室町時代-江戸時代の女性・おね(1542-1624)。寧、禰々、ねね、北政所(きたのまんどころ)、高台院湖月尼。父は尾張国の杉原定利、母は朝日。織田家足軽頭・浅野長勝の養女に妹とともにになる。1561年、14歳で織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁ぐ。藤吉郎とは幼馴染であり、当時としては珍しい恋愛結婚だった。人望も厚く、福島正則、加藤清正、浅井長政、黒田長政、加藤嘉明などの諸大名にも慕われた。1588年、従一位叙 任。子はなく智仁親王を養子にする。1598年、秀吉は北政所の感謝のために醍醐の花見を盛大に催す。その後、秀吉は亡くなる。側室・淀殿とともに、その子・秀頼を補佐した。同年に亡くなった実母・朝日の菩提寺・康徳寺を建立した。1599年、大坂城西の丸を退去し、京都新城(現在の仙洞御所)へ移り、豊国社、方広寺など秀吉ゆかりの社寺の運営・供養などを行う。京都新城の破却後は、三本木(京都御苑内白雲神社東裏)に隠棲する。1600年、関ヶ原の戦いで、兄弟も東西に分かれての戦いになる。1603年、落飾し、高台寺化粧御殿に移った。第107代・後陽成天皇より高台院の号を贈られる。1605年、現在の円徳院境内地に移る。1606年、秀吉菩提のために高台寺を建立した。この時、徳川家康の多大の援助があった。徳川と豊臣の対立に際し、調停も試みたが終生沈黙し、中庸の立場を守った。1615年、大坂城落城の際、高台寺より大坂で立ち昇る煙を見ていたという。現在の塔頭・円徳院の住房(北庭)で亡くなり、翌夕、高台寺霊屋内の土饅頭に葬られた。
◆朝日殿 室町時代-安土・桃山時代の女性・朝日殿(あさひどの、?-1598年)。こひ。父は杉原家利。杉原定利に嫁ぐ。木下家定、くま、寧々、ややをもうける。1561年寧々が秀吉と結婚、朝日殿は秀吉が気にいらなかった。戒名は康徳寺殿松屋妙貞大姉。墓は大分・康徳山松屋寺にある。
◆豊臣秀吉 安土・桃山時代の武将・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1536/1537-1598)。尾張国の織田信秀足軽・木下弥右衛門の子に生まれた。小猿と呼ばれ日吉丸と称した。7歳で父を亡くす。1551年、出奔し、今川氏の家臣・松下之綱、織田信長に足軽として仕えた。1561年、織田家の弓衆・浅野長勝養女ねねを娶る。信長に従い、各所で転戦し戦功をあげる。1582年、本能寺の変では、山崎で明智光秀を仇討する。1583年、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。1584年、織田信雄・徳川家康との小牧・長久 手の戦いでは敗れた。大坂城を拠点とし、紀州根来・雑賀、四国、九州を制した。1587年、バテレン追放令、北野大茶湯、1590年小田原の北条氏を破り 天下統一した。関白、太政大臣に進み豊臣の姓を賜った。1591年、関白職を秀次に譲る。朝鮮を攻めた文禄・慶長の役(1592-1598)は敗れた。 1598年、盛大な醍醐の花見の後、伏見城で亡くなった。
 1587年、聚楽第、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、京都の都市改造・御土居築造、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。
◆木下家 開山堂には、おねの兄・木下家定(1543-1608)夫婦木像が祀られている。1600年関ヶ原の戦いの前後に、木下家では兄弟を分けた争いが生じた。
 家定の長男・勝俊は、東軍に属し、家康により伏見城の留守を命じられた。二男・利房、四男・俊定、五男・小早川秀秋は、敵方の西軍に与した。戦いの前哨戦となる1600年、伏見城攻めでは、秀秋は副将になる。勝俊は、城を放棄し、おねの高台寺に身を寄せた。このため、伏見城は落城し、城を死守した鳥井元忠以下1800人は火中に自決、凄惨な最期を遂げた。
 勝俊は、兄弟間の争いに嫌気が差したともいう。勝俊の行為は卑怯者として家康を怒らせた。所領地の若狭小浜は没収になり、おねの嘆願により命だけは救われた。その後勝俊は、号を長嘯子とし、歌人として東山に隠棲した。
 秀秋はその後、東軍に寝返ったため、関ヶ原の戦いは東軍が勝利している。秀秋は、戦の2年後、わずか21歳の若さで亡くなる。
 木下家定の七男は三江紹益のもとで出家した周南紹叔になる。おねの甥にあたる。三江紹益を開山に迎え、高台寺が臨済宗建仁寺派に改宗したのは、紹叔を高台寺の住職にするためだったという。
◆弓箴善疆 安土・桃山時代-江戸時代の曹洞宗の僧・弓箴善疆(きゅうしん ぜんきょう、生没年不詳)。詳細不明。尾張中村の生まれ。朝鮮出兵に際して、名護屋の陣所まで随従し秀吉の信頼を得たという。豊臣秀吉と同郷の朋友であり、康徳寺の開基・長岩の弟子。八幡・神応寺の中興の祖、1606年、高台寺を開く。1614年桂林院に退隠する。
◆三江紹益 室町時代-江戸時代の臨済宗の僧・三江紹益(さんこう じょうえき、 1572?-1650)。京都の生まれ。道号は友林、友竹。1606年、建仁寺に入山。建仁寺295世、開山として1602年、慈芳院、1604年、常光院、1608年、久昌院、元和年間(1615-1624)、円徳院、1616年、月真院、春光院、岡林院などがある。
 北政所が帰依した。木下家定(北政所の兄)と親交があり、その子は紹益の弟子・紹叔になる。
◆狩野光信 安土桃山時代の狩野派の絵師・狩野光信(かのう みつのぶ、1565/1561-1608)。狩野永徳の長男。織田信長に仕え、父・永徳とともに安土城の障壁画を描く。豊臣秀吉にも仕えた。1590年、狩野派の指導者になる。肥前国名護屋城、伏見城などの障壁画を作成する。大和絵の手法を取り入れ、優美繊細な画風を確立し、花鳥画に優れた。長谷川派との親和を図り、風俗画にも取り組んだ。遺作は少ない。
◆道元 鎌倉時代の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。承陽大師。父・内大臣源(土御門)通親、母・太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)の間に生まれた。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くす。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺の良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。1214年、比叡山を下り、園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより1217年、臨済宗の建仁寺に移り栄西、その高弟・明全に学ぶ。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。杭州、台州を遍歴。1225年、明全が亡くなる。曹洞宗・長翁如浄に師事し曹洞禅を学んだ。1227年、如浄の法統を得て帰国、1228年、建仁寺に入る。建仁寺で日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を書く。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、越前に逃れ、1244年、大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向、1252年、病になり、翌年、京都の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。
 道元は、無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐」(しかんたざ)などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵』95巻(1230-1252)を著した。
◆雲居寺 現在の高台寺境内には、かつて雲居寺(うんごじ、雲狐寺)が存在した。奈良時代、弘仁年間(810-824)、菅原道真が第50代・桓武天皇のために創建したという。この地には八坂寺があり、その別院のように見られ、八坂東院とも呼ばれていた。
 平安時代、1124年、山内に勝応弥陀院が創建され、瞻西(せんせい)上人により8丈(12m)、坐高4丈の金色大仏、阿弥陀如来が造られ安置された。寺は、室町時代、1436年に焼失する。1439年(1440年とも)に再興された。大仏も再造されるが、足利義政の命により不相応として消失した。寺は、応仁・文明の乱(1467-1477)により再び焼失し、その後は再興されなかった。
 雲居寺は、謡曲「自然居士(じねんこじ)」の舞台になっている。
◆康徳寺 高台寺は康徳寺を前身とする。天正-慶長年間(1573-1615)、北政所は、生母・朝日殿の菩提を弔うために、現在の高徳寺町(上京区)付近に曹洞宗の康徳寺を建立した。秀吉没後、1606年に寺を東山に移して法号より高台寺と名付けた。
◆仏像・木像 方丈には、本尊・「釈迦如来坐像(宝冠釈迦)」を安置する。宝冠、禅定印、結跏趺坐、木造、漆箔。16世紀(1501-1600)後半の作という。豊国大明神と書かれた秀吉と、高台寺の位牌がある。
 霊屋の黒漆の須弥壇上の厨子内、中央に秀吉念持仏だった「随求菩薩(ずいぐぼさつ)」(5.2cm)が三重の厨子内に安置されている。右に「吉祥天」(4.3cm)、左に「毘沙門天」(4.8cm)の脇侍がある。いずれも鮮やかな截金文様が施され、極彩色の蓮弁、邪鬼の台座に載る。木造、堅木、一木造、素地仕上げ。まわりを木造素地の「四天王」(12.8cm、13cm)が守護している。
 須弥檀の右に衣冠束帯姿の「豊臣秀吉坐像」(67.2cm)が安置されている。右手に笏を立てる。1598年頃の作という。木造、彩色。左に「高台院坐像」(59cm)を安置する。高台院は白い護巾を頭に被る尼僧姿、胡跪坐で右膝を立て、右手を載せる。木造、彩色。高台院の遺骸はこの坐像下に土葬されている。なお、須弥壇、厨子扉、手すり、柱、長押の随所に黒地に金の花筏の文様、柱や長押に楽器(笛、琵琶、箏、太鼓)、天女の蒔絵(高台寺絵巻)による「楽器尽くし」が描かれている。秀吉像安置の厨子扉表に薄、桐紋、裏に菊、紅葉、桐紋、北の政所厨子扉表裏に、松に篠竹が金蒔絵、梨地を交えて描かれている。
 開山堂はかつて持仏堂と呼ばれた。北政所の養父母、「浅野長勝」、「七曲(ななまがり)」を安置する。中興の祖・「三江紹益坐像」(113cm)、おねの兄・木下家定・雲照院夫婦木像、普請掛の「堀監物直政木像」が祀られている。木造、彩色。
◆建築 高台寺の創建に際して、徳川家康が援助し、普請奉行に京都所司代・板倉勝重、普請奉行に堀監物直政、造営御用掛に酒井忠世、土井利勝が任じられた。加藤清正、福島正則、浅野長政らも関わった。
 創建時、伏見城の建物が移築されている。その後の火災により焼失し、現在は表門(重文)、開山堂 (重文)、霊屋(おたまや)、観月台(重文)、茶室の傘亭(重文)、時雨亭(重文)が残されている。かつて、堂宇、茶亭を除いて、伽藍の間は建物か回廊で繋がれていた。
 「開山堂」はかつて、おねの養父母・浅野長勝、七曲の持仏堂という。1605年以降、開山堂になる。天井は、秀吉が瀬戸内で実際に使用したという御座船の天井を再利用している。また、北政所が使っていた御所車の遺材を再利用したといわれる。天井には、狩野山楽(1559-1635)筆伝の「龍図」がある。桁行5間、梁行3間、一重入母屋造、本瓦葺。
 「表門」(重文)は、安土・桃山時代建立。三間一戸(10m×4m)。加藤清正が伏見城に建てたものという。薬医門の代表例になる。切妻造、本瓦葺。
 「霊屋」は阿弥陀ヶ峰の秀吉を祀る豊国廟を向いて建てられ、廟堂と類似していたといわれる。伏見城の遺構であり、「湖月堂」と呼ばれた。内陣に、黒漆地の須弥壇など金蒔絵(高台寺蒔絵)が施されている。総黒漆塗りに、金箔の秋草文様などの豪華な装飾がある。江戸時代、1605年に建立された。一重宝形造、檜皮葺、正面は唐破風向拝、桁行4間、梁行3間。霊屋内左手の北政所像が安置されている厨子須弥檀下に北政所の墓所がある。
 「大方丈」、「小方丈」も、伏見城の遺構で、大方丈では秀吉が朝鮮を攻めた文禄の役(1592-1593)の際、諸大名を集めて祝宴を開いた。内部は狩野永徳、土佐光信らの襖絵で豪華に彩られていた。だが、度重なる火災で焼失している。
 1912年に再建された方丈には、本尊・「釈迦如来坐像(宝冠釈迦)」を安置し、豊国大明神と書かれた秀吉と、高台寺の位牌がある。
◆茶室 北政所は秀吉と同じく茶の湯を好み、高台寺にも茶坊主が仕えていたという。
 茶室は、伏見城から移築されたとされる安土・桃山時代の「傘亭(かさてい)」「時雨亭(しぐれてい)」(重文)がある。二席は伏見城でそれぞれ「草堂」、「高堂(学問所)」と呼ばれていたという。また、両亭を総称して「安閑窟(あんかんくつ)」と呼んだともいう。江戸時代、1754年以降に「傘亭」、江戸時代末に「時雨亭」と呼んだともいう。以前より二亭は一体として用いられていたとも、別の茶室として建てられたともいう。両亭の間に重門があり、分けられていたという。現在は、小堀遠州作とされる高土間廊下(吹き放し土間、土廊)により結ばれている。茶室は、利休好みともいわれている。ただ、年代的に異説もある。茶室が伏見城より移されたとする点についても異説ある。
 「傘亭」には改変が繰り返されているという。西入口は、土間と踏み上がりの縁(踏込入口、1畳)がある。戸は、小竹詰打揚戸を室内側へ水平に吊り上げる揚戸になる。下戸は南へ半分引く。踏込半坪に切石、敷瓦、長石2本を踏石とし、左の上段(1畳)に上る。土間廊下側からの入口は板戸の片引になる。天井は、丸太と細い竹で天井中央より放射状に組まれている。束の先、天井下に四角い板があり、ここで垂木を受ける。木舞は細い竹による。室内から見上げると、化粧屋根裏が唐傘の骨組みに見えることから傘亭と呼ばれた。天井下に「安閑窟」の扁額が掛かる。内部の柱は皮付丸太。窓は上段に横竹一本の開放の窓、ほかは中連子窓。内部は8畳大、上段、板敷きの勝手、下屋(水屋、1間四方)の板間に長炉、竈、地袋がしつらえられ、天井は竿縁登り天井、窓は粉板の片引戸、引違戸。2間四方、単層宝形造、茅葺。
 「時雨亭」は、伏見城にあった時、秀吉が時雨のように不意に訪れていたことから名付けられたという。「傘亭」の対として「時雨」と名付けられたともいう。遠州の建てた二階建ての成趣庵(せいじゅあん)を移築したともいう。一階には4本の控柱、土間には竈があり、板間(3畳)もある。待合、台所になる。北に階段があり、階上は板張で西寄り上段(1坪半)と下段からなる。上段の三方(南、西、北)は突き上げで開く。伏見城ではこの階上から景色を眺望していたという。仕切り壁上に桜皮付高欄付。下段に床の間の床柱は杉丸太、中柱は竹、袖壁は小竹の詰打、台目、炉、釣り棚、向う板、床框は沢栗色付になる。竈がある。天井は化粧屋根裏(赤松皮付梁、曲木の束、垂木は竹と皮付丸太を組み、竹の小舞に萩の小枝)、壁は塗り廻し、下地窓の円窓が開く。長方形の間口二間半、一間半矩形。桁行4間、梁行2間、一重二階建、入母屋造、茅葺。
 「高土間廊下」は、二つの茶室を繋ぐ。柱(南端と中央に控柱)、梁、桁、垂木は皮付丸太に杉皮を竹で押さえた。土間は縁石、敷瓦、飛石が打たれ、小堀遠州風の延段になっている。南東に手洗がある。
 江戸時代初期の「遺芳庵(いほうあん)(吉野席)」の詳細は不明。豪商・灰屋紹益(はいや じょうえき)が、亡き妻・2代目吉野太夫を偲んで建てたとされる。1908年に邸宅跡(小川通武者小路上ル)より塔頭・岡林院に移され、近年、高台寺境内の現在地に再度移された。庭より石橋を渡り躙口より入る。一畳台目向板入向切逆勝手であり、右に道庫、西に丸窓「吉野窓」(竹格子を藤蔓でかき、引きあまりの引き分け障子)が開く。天井は竹簀張り、樫皮付丸太の廻縁、梁で受ける。茶道口に杉の開戸、勝手(2畳)に水屋流し、物入。庇が付き、茅切妻、葺方形屋根。
 江戸時代の「鬼瓦席(おにがわらのせき)」は、1908年に邸宅跡(小川通武者小路上ル)より現在地に移された。近代、大正期(明治期とも)に旧灰屋邸より移築されたともいう。紹益好みとされる。詳細は不明。妻に扁額の代わりに鬼瓦が掛けられ、「鬼瓦席」と呼ばれる。四畳半の席であり、東の庭に面し躙口(上に下地窓)、貴人口(1間、3枚の腰障子)が並ぶ。その左(床の間横)に付書院(半間)。天井は客畳3畳の上が杉丸太竿縁の平天井、西の半間通りが一段低く竹竿縁の蒲天井。水屋、準備室、台所、控室、広間(8畳)がある。東、西に土庇を廻す。平瓦葺、切妻屋根、軒先杉皮。 
◆文化財 安土・桃山時代、1590年の北政所宛ての「豊臣秀吉仮名消息」(重文)は小田原攻めのこと、淀殿を呼び寄せることに触れている。安土・桃山時代、1593年のおね宛て名護屋よりの「豊臣秀吉仮名消息」は、淀殿の男児出生について触れ、名を「拾」と付けている。ほかに「高台院仮名消息 高台寺良芸和尚宛」(重文の附)、「高台院仮名消息 伝八条宮智仁親王宛」などがある。
 「後陽成天皇宸翰 豊国大明神」、弓箴善疆の安土・桃山時代、1603年の「血脈・安名・嗣書」、三江紹益の1603年「遺偈」。
 秀吉が用いたという南蛮渡来の陣羽織「鳥獣紋様、綴織、陣羽織」はペルシャ絨毯を仕立て直している。スリッパ「緋、羅紗、履」は羅紗地に金糸の刺繍により鎖紋様、幾何学紋様などが入る。ほかに杖、刀架け、椅子、書棚、歌書箪笥、手文庫、薬箱、爪切り箱、手拭掛け、食膳、香味入れ、洗顔桶があり、螺鈿、蒔絵が施されている。いずれも1599年に北政所により大坂城より持ち出されている。
 13世紀(1201-1300)初頭の南宋時代の絹本著色「十六羅漢図」(重文)。江戸時代の妙心寺・南化玄興の賛が入る絹本著色「豊臣秀吉像」(重文)、江戸時代の絹本著色「高台院像」(重文の附)、江戸時代の宇喜多一蕙筆、絹本著色「木下長嘯子像」、安土・桃山時代、1603年の弓箴善疆賛の絹本著色「小早川秀秋像」(重文の附)、1699年雲叟元云の賛「三江紹益像」。室町時代の絹本著色「網敷天神像」。
 高台院の打掛といわれる安土・桃山時代の「亀甲花菱文様繍箔打掛」(重文)は、摺箔の技法により、銀箔があしらわれている。秀吉所用という「唐木杖」「緋羅紗履」、豊臣秀吉所用ともいわれる「鳥獣文様綴陣羽織」(重文)。
 霊屋内陣の須弥壇秀吉厨子扉をはじめ、幸阿弥家により制作されたと見られる秋草文様(菊、萩、薄)を多用した高台寺蒔絵がある。高台院遺愛の10段の引き出しが付いた「秋草蒔絵歌書箪笥」(重文)、「竹秋草蒔絵文庫」(重文)、「菊桐蒔絵提灯」(重文)、秀吉遺愛の「西王母蒔絵交椅」(重文)、「獏蒔絵枕」(重文)、「桐蒔絵棚」(重文)「芦辺桐蒔絵懸盤・飯器・椀」(重文)などがある。
 霊屋の内陣に安土・桃山時代の狩野光信筆、紙本金地著色「浜松図」、外陣の「花鳥図」は、狩野永徳、興以の筆。安土・桃山時代の「三十六歌仙図扁額」(重文)は土佐光信筆。安土・桃山時代-江戸時代の紙本著色「梅に草花図屏風」は狩野元信筆、また了以、了慶ともいう。
 書は八條宮智仁親王(後陽成天皇弟)など。
 開山堂内部天井に狩野山楽筆という「龍図」、天井に木造彩色の「迦陵頻迦図」、金地著色で御所車の天井を利用した「四季草花図」がある。
◆高台寺蒔絵 安土・桃山時代に流行した高台寺蒔絵は、高台寺の霊屋内部の蒔絵、蒔絵調度類に因む。1596年、幸阿弥(こうあみ)一門の作により、須弥檀階段、上床板には黒地に金で水に流れ浮かぶ桜の花弁、筏、水紋を表した「花筏」が知られる。須弥檀勾欄、柱、長押などの文様は「楽器尽くし」と呼ばれ、笙、篳篥、琵琶、堅笛、腰鼓、領巾、瑞雲などが描かれている。厨子扉裏には薄に桐紋、菊、楓に桐紋、松、竹などが描かれている。高台寺蒔絵の意匠は和風であり、絢爛を特徴にしている。高台寺蒔絵は短期間内に、集団工房の手により制作されたとみられている。平蒔の蒔放しの技法により、繊細さと粗さが共存し、色調を三種にするとともに一部、加工の省略も行われている。金粉には「ずみ」も用いられている。寺所蔵の17種の蒔絵調度類が重要文化財に指定されている。
 蒔絵技法は簡単なため大量に作られた。漆で金属粉を付着させる。技法の一つ蒔放しは黒漆塗りの表面に文様、図柄などを描き金粉を蒔く。絵梨地(えなしじ)は、半透明の漆塗膜ごしに金の文様を見せる。針描きは、蒔絵が乾く前に針で表面に文様などを描き出す。ほかに付描、描割などがある。蒔絵はスペイン、ポルトガルにも輸出され「南蛮漆器」と呼ばれ、キリスト教祭礼具や西洋式家具にも用いられた。
◆三本木・高徳寺町・高台院町 京都市内には高台寺以外にも、北政所ゆかりの地が残されている。
 1587年に完成した聚楽第には北政所の住居があり、現在、その場所に高台院町(上京区)の地名が残る。
 1598年北政所の生母・朝日が亡くなり、その法号「庚徳院殿松屋妙貞大姉」より菩提寺の康徳寺を創建した。曹洞宗の長岩を開基とした。その旧境内地は高徳寺町(上京区)付近という。
 1599年、大坂城より京都に移った際に、三本木に一時期住んだ。現在の白雲神社(上京区、京都御苑内)の東に位置していたという。
◆幕末 塔頭・春光院(非公開)は、江戸時代後期、1855年から1856年にかけて、清水寺・成就院の住職・月照(1813-1858)が移り住んだ。西郷隆盛、村岡局らと密議を重ねたという。
◆庭園 東山を借景とし、山麓の地形も取り入れた池泉廻遊式庭園(1万㎡)は、小堀遠州(1579-1647)の作庭ともいわれ、国の史跡・名勝に指定されている。石、樹木なども伏見城から移されたという。
 現代の庭師・北山安夫(1950-)が、1988年以来庭の修復を手がけた。2つの池、偃月(えんげつ)池と臥龍(がりょう)池があり、菊澗(きくたに)から水を引き入れている。2つの屋根付の渡廊、楼船廊、龍の背に似たという臥龍廊がある。偃月池には、秀吉遺愛の観月台を配し、北の中島を亀島、南西岸の出島を鶴首、立石による鶴島を造り、桃山時代の蓬莱山水の庭園になっている。
 
方丈前庭は、枯山水式の「波心庭」と呼ばれている。唐門を南にして、主に白砂、砂紋、二つの立砂の構成による。西の州浜に枝垂桜などが植えられている。
 ほかに、客間の庭園は11石による石組の庭、湖月庵前庭、枯山水式の遺芳庵前庭、雲居庵前庭「竹風庭」などがある。
◆山根子 山根子(やまねこ、山猫)は、下河原(八坂神社南門-庚申堂、鷲尾町、下河原町、月見町、上弁天町)に住んでいた芸妓をいう。東山、円山の山の根(麓)に集まっていたことから呼ばれたという。また、延暦寺の僧が使った「子」(妓の意)、「山の子」より転訛したともいう。
 北政所(高台院)とも関わりがある。1606年、北政所による高台寺建立に伴い、寺に諸国の舞伎が出入りしたという。北政所は侍女に遊芸を学ばせた。1624年、北政所没後、高台寺の芸者たちは円山の六阿弥、双林寺、正法寺での市井の宴席で舞を披露し、纏頭(てんとう、花代)を得ていた。幕末から近代(明治期中期?)以降も存在したという。女伶(まいこ)とも呼ばれていたらしい。山根子は真葛踊りという総踊りを舞った。これが1872年の附博覧の際に披露された祇園甲部の都踊りの先駆けになった。
 1886年、府令により祇園町は下河原町を合併し、山根子の名は消滅した。
◆古墳 寺の裏に、5世紀以降に造られた首長の墓とみられる高さ3m、一辺40mの「八坂古墳」がある。
◆茶会 現在、湖月庵で開かれている「陣中席」(夏の夕涼みの茶会)は、大茶碗の回し飲みで知られている。床の間に秀吉像が置かれ、兜、旗指物、馬印が置かれ、陣幕が張られる。秀吉所用という陣中釜、茶道具で点てられる。これらは、秀吉が戦を前に、武将を鼓舞するために開いたという茶会に由来する。
 おねの祥月命日に開かれる「北政所茶会」(10月6日)、「秋の夜の観月茶会」なども催されている。
◆塔頭 江戸時代、9か寺あった。現在は、円徳院、岡林院、月真院、春光院がある。
◆金仙院 平安時代、1191年頃、建礼門院(平徳子、1155/(1157-1213)は、大原・寂光院より岡崎・善勝寺に移ったという。当寺は藤原顕季(1055-1123)を家祖とし、四条家の菩提寺になる。鎌倉時代、1219年の大火により善勝寺は類焼している。
 このため、建礼門院は現在の高台寺にあった雲居寺(うんごじ)の北、鷲尾の金仙院に移った。金仙院は、中納言・藤原家成(1107-1154)が建立している。建礼門院は、1213年に亡くなり、四条家の墓に葬られた。陵は、現在の高台寺境内、傘亭、時雨亭付近にあったという。
◆文学 渡辺淳一『化粧』は、京都の老舗料亭の三姉妹の物語であり、当寺界隈、ねねの道などが描かれている。
 大佛次郎『帰郷』には、戦後、海外放浪の末に帰国した守屋恭吾が京都を訪ねる。高台寺、二年坂、三年坂、清水へ向かう道も登場する。
◆映画 周辺の下河原一帯では現代劇映画「彼岸迄」(監督・小津安二郎、1958年、松竹)の撮影が行われた。現代劇映画「夜の河」(監督・吉村公三郎、1956年、大映)では、きわ(山本富士子)と武村(上原謙)が界隈を散策する。
◆花暦・樹木 シダレザクラ・アセビ・ツツジ・シャクナゲ(6-8月)、サルスベリ・ハギ(9月中旬-下旬)、1000本の楓(11月)。
 萩(高台寺萩)は、江戸時代にも知られていた。平安時代、西行が青蓮院慈円に献じた奥州宮城野の萩を移植したものという。
 コジイがある。
◆墓 江馬家の墓がある。蘭方医・江馬榴園(1804-1890)、医師・文筆家・江馬天江(1825-1901)、医師・教諭・江馬喬松(1858-1924)、風俗史研究家・江馬務(?-1979)。
 頼山陽三男・頼支峰(1823-1839)、支峰長男・漢学者・頼庫山の墓がある。
◆修行体験 座禅・茶道(10人以上、要予約)。
◆年間行事 大般若祈祷会(1月1日)、大般若飾り(1月15日まで)、春の夜間特別拝観(3月中旬-5月初旬)、夏の夜間特別拝観(8月1日-18日)、盂蘭盆大施餓鬼会(8月10日)、開山大法会(8月22日)、「北政所茶会」(10月6日)、北政所茶会(北政所の命日に催される。献茶、島原太夫の点前も行われる)(10月6日)、秋の夜間特別拝観(10月下旬-12月初旬)、大般若飾り(12月15日-1月15日)、除夜の鐘(鐘を撞ける)(12月31日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*一部の建物内は撮影禁止。
*参考文献 『拝観の手引』『旧版 古寺巡礼 京都 37』『京都・山城寺院神社大事典』『京の古寺から 5 高台寺』『寺社505を歩く 上』『新選組と幕末の京都』『朝鮮通信使と京都』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『京都美術の 新・古・今』『秀吉の京をゆく』『日本の名僧』『京都で建築に出会う』『京の茶室 東山編』『建仁寺』『平安京散策』『京都古社寺辞典』『平安の都』『増補版 京の医史跡探訪』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都絵になる風景』『意外と知らない京都』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』『女たちの京都』『京に燃えた女』『京都 古都の庭をめぐる』『京都 神社と寺院の森』『週刊 日本庭園をゆく 22 京都洛東の名庭 3 東福寺 高台寺 智積院』『週刊 日本の美をめぐる 18 利休・織部と茶のしつらえ』『週刊 京都を歩く 20 高台寺周辺』


  関連・周辺圓徳院〔高台寺〕       関連・周辺月真院〔高台寺〕       関連・周辺春光院(春光禅院)〔高台寺〕        関連・周辺岡林院(こうりんいん)〔高台寺〕        関連豊国廟        関連方広寺       関連豊国神社        周辺道元荼毘の地・曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺蹟之塔         


シャクナゲ


重関門(中門)

中門

中門


開山堂、臥龍池、杜若、楓などの植栽があり、四季を通じて愉しむことができる。

開山堂

開山堂内部、天井は格子天井で漆黒に黄金が配されている。秀吉の御座船の天井を移した。礼堂部の中央格子中ほどにおねゆかりの御所車の格天井の彩色天井がある。

ヒガンバナ

楼船廊

楼船廊の中ほどにある秀吉遺愛という観月台(重文)、1間四方、一重三方唐破風造、檜皮葺。

臥龍廊(がりょうろう)は開山堂と霊屋の間を繋いでいる。全長60m。


臥龍廊

霊屋、宝形造、檜皮葺、正面は唐破風向拝、正面三間、奥行四間、阿弥陀ヶ峰の秀吉を祀る豊国廟を向いて建てられ、廟堂と類似していたといわれる。伏見城の遺構。内陣には、黒漆地の須弥壇など金蒔絵(高台寺蒔絵)が施されている。桃山時代の秀吉の念持仏・守り本尊だったとされる大随求菩薩坐像、毘沙門天、吉祥天立像、豊臣秀吉像(右)、高台院像(左)が安置されている。高台院木像の下6mに土葬された高台院遺骸が葬られている。狩野永徳、興以、土佐光信筆の絵が描かれ、一時秀吉の養子になった八條宮智仁親王の書がある。

霊屋

霊屋

霊屋

霊屋

霊屋から見下ろす臥龍廊

龍井家墳墓

ハギ

ハギ

傘亭と時雨亭をつなぐ小堀遠州作ともいう土間廊下


傘亭(かさてい)(重文) 、正式には安閑窟という。茅葺の宝形造、6畳、安土・桃山時代。かつては池に面していたといい、舟で出入りするための跳ね上がり式の戸、舟入口がある。


傘亭、屋根裏の竹垂木が傘の骨に似たことから名づけられた。皮付き丸太柱。

傘亭

傘亭

傘亭

土間廊下


茶室「時雨亭」、安土・桃山時代、二階は上段、下段に分けられ、三方が掛け戸により開放される。二階建ての茶室は珍しいという。おねが、この二階から大坂城落城の際に見ていたという。


茶室「時雨亭」


高台からの京都市街地の眺望

高台からの京都市街地の眺望、八坂の塔、京都タワー

境内東の竹林、孟宗竹

竹林

【参照】霊山観音


茶室「雲居庵」、庭の竹風亭、近年、庭匠・北山安夫により改修という。

茶室「雲居庵」

シュウメイギク


天満宮、高台天神、おねの夢枕に立った道真自筆という天神像を祀る。
高台寺天満宮は、おねが、江戸時代、1606年の寺の創建時に崇拝していた綱敷天満宮の祭神・菅原道真を勧請して高台寺の鎮守社とした。創建当初は兄・足守藩主木下定家が社殿を造営寄進し、寺内上壇の地に建立されていた。その後、現在地の下壇の地に移し、「下河原の高台天神」と親しまれた。近代、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈分離令により、規模を縮小され上段の旧地に移された。2006年の高台寺開創四百年に際し、再び現在地に戻された。学問、開運・出世・健康長寿・災難厄除などの信仰がある。




秀吉、ねね像


【参照】周辺の街並み


【参照】周辺の街並み、石堀小路

【参照】周辺の街並み

【参照】境内北にある道元荼毘の地、「曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺蹟之塔」が建つ。

【参照】道元荼毘の地
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 高台寺 〒605-0825 京都市東山区高台寺下河原町526  075-561-9966  9:00-17:00
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