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陶匠・青木木米宅跡・弁財天社 (京都市東山区) Site of Aoki Mokubei Residence,Benzaiten-sha Shrine |
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陶匠・青木木米宅跡・弁財天社 | 陶匠・青木木米宅跡・弁財天社 |
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![]() 弁財天社 ![]() 弁財天社 ![]() 弁財天社 ![]() 弁財天社 ![]() 地蔵尊 ![]() 地蔵尊 ![]() 地蔵尊 ![]() 地蔵尊 ![]() 地蔵尊 ![]() 「辨財天」の石標 ![]() 「陶匠 青木聾米宅跡」の石標 ![]() ![]() ![]() 付近の白川 |
祇園白川の畔、川端通の東側の弁財天町に、弁財天社(べんざいてん-しゃ)が祀られている。付近は、白川と鴨川の合流地点になる。 境内の一角に、「陶匠 青木聾米宅跡」の石標が立つ。この地には、江戸時代後期の陶工・青木木米(あおき もくべい)の旧宅があった。 ◆歴史年表 年代不詳、弁財天社は、当初、大和橋の北にあった。その後、廃されたという。(『雍州府志』) 。その後、現在地に再興された。 江戸時代後期、この地には、陶工・青木木米(1767-1833)宅があった。 1833年、木米は亡くなる。その後、勤皇茶屋「吉松」が受け継ぐ。この頃、川岸に柳の大木が植えられていた。辺りに蛇がよく出たことから、木の下に弁財天社の祠が祀られたともいう。 近代、1870年、6月、境内に「辨財天」の石標が立てられている。 太平洋戦争(1941-1945)中、吉松は建物疎開により取り壊された。 現代、1965年、京都史蹟会により現在の石標が立てられる。 ◆青木 木米 江戸時代中期-後期の陶工・青木 木米(あおき-もくべえ、1767-1833)。男性。木屋佐兵衛(佐平)。号は青来、聾米(ろうべい)など数多い。父・茶屋「木屋」(祇園新地繩手町)の木屋佐兵衛の長男。幼い頃から文学に親しむ。儒者・篆刻家・画家・高芙蓉(こう ふよう)に、鑑識や書画を学んだ。鋳金も初代・龍文堂に習う。学者・木村兼葭堂(けんかどう)の蔵書の中国清朝・朱笠亭著『陶説』に影響され、30歳で陶工の道に入る。建仁寺に隠棲していた陶工・奥田穎川(えいせん)に師事し、寶山文造にも従った。1805年、青蓮院宮の依頼により、粟田口に御用窯を開窯した。1806年-1808年、加賀藩前田家の招聘により、九谷焼春日山窯の再生に関わる。 作品は煎茶器、白磁、青磁、赤絵、染付、色絵陶磁器の交趾(こうち)に名品を残した。金襴手染付、轆轤(ろくろ)物、薄い型物も手がけた。中国古陶磁、中国物の写し、文人画なども遺した。代表作「兎道朝暾図(うじちょうとんず)」がある。「幕末三名人」の一人(ほかに永楽保全、仁阿弥道八)といわれた。 儒者の頼山陽、漢詩人・中島棕隠、国学者・上田秋成、画家・呉春、松村月渓谷、田能村竹田らとの交流があった。67歳。 墓は鳥辺山墓地(東山区)にあり、墓碑には、儒者・書家の篠崎小竹の筆により「識字陶工木米之墓」と刻まれている。 ◆禹 中国古代の伝説上の帝王・禹(う、?-?)。詳細不明。禹王。姓は姒(じ)、別名は文命。西方の異民族の出身ともいう。父・鯀(こん)。尭帝の時代に黄河の大洪水が起こり、父・鯀が治水にあたり失敗する。その後、舜帝は禹に治水を命じた。禹は部下の益(えき)・后稷(こうしよく)とともに刻苦13年で成功した。水を導き、農業・産業を整備した。その功により舜帝から天子の位を譲られ、夏王朝を創始したという。 治水に当たり、自らは衣食を粗末にし、身を粉にして働いたとされ伝説化した。尭・舜と並び太古の聖王とされる。禹の死後、子・啓が諸侯から推されて天子になり、中国の世襲王朝の始まりになったという。 ◆祠 白川北畔の境内には、弁財天社、地蔵尊の大小2つの祠が建てられている。北面している。 なお、境内に立てられている「辨財天」の石標には、近代、「明治12年(1870年)6月」の銘がある。 ◆伝承 伝承がある。鎌倉時代前期、1228年、鴨川の洪水があったという。 鴨川の治水を担当していた防鴨河師(ぼうがし)の勢多判官為兼(せた-の- はんがん-ためかね、中原朝臣為兼)は、ある僧の進言により、洪水の防止のために、川北に弁財天社、川南に禹王廟(なつのうのちょう) を建立したという。禹王とは夏王朝の始祖で、治水事業に功績をあげた。僧は、目疾(めやみ) 地蔵に消えた。その後、洪水は治まったという。(『雍州府志』) また、江戸時代後期、勤皇茶屋「吉松」の頃、川岸に柳の大木があった。辺りに蛇がよく出たことから、木の下に水を司る弁財天の小祠が祀られたともいう。 ◆聾米 木米(もくべい)の号は、数多い。 ◈「木米」は、幼名の「八十八(やそはち)」に因む。「木屋の八十八」として、「木」に「八十八」を加えて「米」とし、「木米」と号した。 ◈「聾米(ろうべい)」の号は、晩年に名乗った号という。木米は頻繁に登窯に耳を近づけ、焼成の温度を確かめていた。高熱により常に耳は腫れあがっていたという。その後、鼓膜に異常をきたし聴力を失ったために用いた。 ◈「百六散人」は、友人の儒学者・漢詩人・中島棕隠(1779-1855)が即座に名付けた。「木米」の「木」は「十八」、「米」は「八十八」になる。合わせて「百六」のため、「百六散人」とした。 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 案内板、『雍州府志』、『日本のやきもの 京都』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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