後朱雀天皇 火葬塚 (京都市北区)  
cremation mound of Emperor Gosuzaku
後朱雀天皇 火葬塚 後朱雀天皇 火葬塚
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 衣笠の金閣寺小学校の東に、平安時代中期の第69代・後朱雀天皇火葬塚(ごすざく てんのう かそうづか)がある。
◆歴史年表
 平安時代、1045年、1月18日、後朱雀天皇は洛東の三条第で亡くなった。2月21日、香隆寺(こうりゅうじ、高隆寺)の乾の原(乾原)で火葬された。遺骨は、仁和寺内の円教寺に納められる。(『帝王編年記』)
◆後朱雀天皇  平安時代中期の第69代・後朱雀天皇(ごすざく てんのう、1009-1045)。敦良(あつなが)。法名は精進行。第66代・一条天皇の第3皇子、母は太皇太后・彰子(上東門院、藤原道長の娘)。土御門殿で生まれた。生後1カ月余で親王宣下を受けた。1017年、三条院の皇子・敦明親王の東宮辞退後、9歳で同母兄・第68代・後一条天皇の皇太弟になる。1021年、道長の娘・嬉子(よしこ)が敦良親王に入る。1025年、嬉子は親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を産み、直後に亡くなる。1036年、後一条天皇が没し、践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、28歳で即位した。彰子の弟・藤原頼通が引き続き関白になる。1037年、三条天皇皇女・禎子内親王(母は道長の娘・妍子)を皇后にし、関白頼通の養女・嫄子(一条天皇皇子・敦康親王の娘)を皇后とした。1040年、荘園整理令を発議した。1045年、病により皇子・親仁親王(後冷泉天皇)に譲位した。頼通の反対を押し切り、尊仁(たかひと)親王(第71代・後三条天皇)を皇太弟に定め、院政への道を開く。1055年、天皇の御願により、円教寺内に新堂として円乗寺が創建された。
 藤原氏の全盛期で、政治の主導権は道長から子・頼通に引き継がれた。すでに摂関家の全盛期は過ぎていた。興福寺、延暦寺の僧徒が強訴し、京中では放火が頻発した。『後朱雀天皇御記(長暦御記)』を著した。
 火葬塚(北区)にある。陵墓は円乗寺陵(右京区)になる。
◆火葬塚 火葬塚には盛土があり、石垣、生垣に囲まれている。中央に樹木が植えられ、東面している。
 平安時代、1045年1月18日、後朱雀天皇は洛東の三条第で亡くなった。2月21日、香隆寺(高隆寺)の乾の原(乾原、かんげん)で火葬された。
 火葬塚は、かつての火葬場所になる。古代-中世には、火葬塚も陵墓に準じるものと考えられていた。最も格式の高い葬法であり、公式には天皇と近親者に限られた。火葬後に遺骨は別の墳墓に納められた。火葬地の施設を取り除いた後に土を盛り、石卒都婆を立てた。釘貫(くぎぬき、木戸)を建て四面に溝を掘った。(『吉事略儀』) 


66 一条天皇 (在位:986-1011)→67 三条天皇 (在位:1011-1016) →68 後一条天皇 (在位:1676-1696)→69 後朱雀天皇 (在位:1036-1045) →70 後冷泉天皇 (在位:1045-1068) →71 後三条天皇 (在位:1068-1072)


*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『京都市の地名』『京都大事典』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 後朱雀天皇 火葬塚 〒603-8355 京都市北区平野上柳町48-1
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