後白河天皇 法住寺陵 (京都市東山区)  
Imperial mausoleum of Emperor Goshirakawa
後白河天皇 法住寺陵  後白河天皇 法住寺陵 
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「後白河天皇陵 参道」の石標












「後白河天皇 法住寺陵」の石標

手水鉢


井水「桐の井」


御陵より三十三間堂を見る。
 法住寺の東隣に法住寺陵(ほうじゅうじ の みささぎ)がある。平安時代後期の第77代・後白河天皇(ごしらかわ てんのう)を葬る。
 後白河院法華堂、蓮華王院法華堂、法住寺法華堂、法住寺御影堂などとも呼ばれた。
◆歴史年表 平安時代、1176年、7月8日(新暦8月14日)、後白河法皇の皇后・建春門院平慈子が亡くなる。後白河法皇は、自らの山稜に予定にしていた法華堂を慈子の陵として譲る。
 鎌倉時代、1192年、3月13日(新暦4月26日)、後白河法皇は六条殿で亡くなる。遺骸は、遺詔により法住寺殿内の蓮華王院本堂の東に新たに建てられた法華三昧堂下に葬られた。
 江戸時代、妙法院が祭祀を行う。
 元禄年間(1688-1704)、陵改で陵とされた。
 1862年-1863年、文久の修陵では、法住寺法華堂が後白河天皇陵として修補された。陵名は法住寺陵と改められる。
 1864年、法華堂の堂下の発掘調査が行われ、陵であることが確認された。
 元治年間(1864-1865)、修陵により陵に確定された。
 近代、1906年、陵名がそれまでの「法住寺法華堂」から「法住寺陵」に改められた。
 1930年、法華堂が解体修理された。 
◆後白河天皇
 平安時代後期の第77代・後白河天皇(ごしらかわ てんのう、1127-1192)。雅仁(まさひと)、法名は行真。第74代・鳥羽天皇の第4皇子。母は中宮待賢門院璋子(権大納言藤原公実の娘) 。1155年、異母弟の第76代・近衛天皇の死により践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)し、29歳で即位する。即位は鳥羽法皇の意向により、崇徳上皇、その子の皇位継承を阻止するためだった。乳父・藤原信西が重用された。1156年、鳥羽上皇没後、皇位継承を巡り、保元の乱が起こる。崇徳上皇方と後白河天皇方で戦い、天皇方が源義朝(よしとも)、平清盛(きよもり)らの活躍で勝利した。崇徳上皇を配流させる。乱後、新制七か条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとした。1158年、3年の在位の後、第78代・二条天皇に譲位した。1159年、信西に反感を抱く人々による平治の乱で、清盛の攻勢で仁和寺に逃れた。乱後、清盛が実権を握り、平家と連携する。1161年、法住寺殿に移る。1168年、清盛と謀り六条天皇を退位させ、憲仁親王(高倉天皇)を即位させる。1169年、園城寺前大僧正・正覚を戒師として出家する。園城寺長吏・覚忠により受戒し、法名は行眞と称した。院近臣の強化、延暦寺や東大寺の僧兵の利用で清盛を除こうとした。1170年、東大寺で改めて受戒した。1171年、清盛の娘・徳子が法皇の猶子になり、高倉天皇に入内になる。1177年、近臣による平氏打倒の謀議が発覚する鹿ケ谷の事件が起こる。以後、清盛との関係が悪化する。1179年、清盛の謀反により、院政を止め鳥羽殿に幽閉の身になる。1181年、高倉上皇没後、院政を再開する。法皇は頼朝と結び義仲を排しようとした。法皇は比叡山に身を隠した。1183年、法住寺合戦で、木曾義仲が法住寺殿を襲撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇は六条西洞院の御所に幽閉され院政を止められる。法皇は頼朝に救援を依頼した。1184年、義仲が討たれる。平氏は京都を追われ、1185年、源義経の軍に壇ノ浦で滅ぼされた。1192年、室町殿(六条殿)で亡くなる。没後、法住寺法華堂に葬られる。
 二条天皇、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代30余年にわたって院政を行い、治天の君(院と天皇の二重権力の競合併存)として王朝権力の復興・強化に専念した。台頭した武士勢力を対抗させて巧みに抑え、源頼朝は「日本一の大天狗」と評した。大内裏造営を行い、法皇になり清盛の尽力し蓮華王院(三十三間堂)、長講堂などを造営し、造寺、造仏、高野山、比叡山東大寺などの参詣を盛んに行なった。熊野参詣は34回に及んだという。歌謡を分類集成した『梁塵秘抄』『梁塵秘抄口伝集』10巻を撰した。遊女・乙前に今様を学ぶ。今様は、法住寺の広御所で披露され、さまざまな階層が参加した。
◆陵墓  後白河天皇法住寺陵は方形墓になる。東面している。現在は江戸時代に再建された法華堂が西面して建つ。鎌倉時代の寛喜年間(1229-1231)、安土・桃山時代-江戸時代の慶長年間(1596-1615)、江戸時代、慶安年間(1648-1652)、元治年間(1864-1865)、近代、1930年の造替、修造を経ている。木造、3間3間、単層、切妻向拝造、本瓦葺、床張。
 堂下に石槨、石櫃を埋葬する。その上に1958年以来、防火厨子を置く。厨子に法衣姿の生きているかのような後白河法皇木像(82.7㎝)が安置されている。寄木造、内刳り、玉眼嵌入。全面布張りに漆塗、彩色。胎内に鎌倉時代の画家・藤原為信(?-1248)筆の法皇白描図像、仮名願文が納められていた。考古学・文献史学的に、疑問の余地のない陵とされている。なお、木像模刻と納められていた厨子は、隣接する法住寺に安置されている。
 平安時代、1176年に、皇后・建春門院平慈子が亡くなる。後白河法皇は、自らの山稜に予定にしていた法華堂を慈子の陵として譲る。法華堂はその後、消滅した。現在の養源院境内付近にあったともいう。
 鎌倉時代、1192年3月13日(新暦4月26日)に、後白河法皇は六条殿で亡くなる。遺詔により遺骸は、法住寺殿内の中心御堂だった蓮華王院(三十三間堂)の東、法華三昧堂の床下に棺に納められ葬られた。江戸時代、妙法院が祭祀を行った。元禄年間(1688-1704)、陵改により陵とされた。1862年-1863年の文久の修陵では、法住寺法華堂が後白河天皇陵として修補されている。ただ、学者が陵地に疑問を呈し、陵ではなく御影堂との異説があった。1864年、法華堂の発掘調査が行われ、住職・実報院広淵(大仏天祐)は堂下を発掘した。この時、骨が入った石櫃が発見されたという。詳細は分かっていない。疋田棟隆『山陵外史徴按』に図がある。元治年間(1864-1865)、修陵により陵に確定された。1906年、陵名は「法住寺法華堂」から「法住寺陵」に改められている。1930年、法華堂が解体修理された。
 陵の龍宮門前に「旧御陵正門」の石碑が立つ。陵前には「法住寺」と書かれた江戸時代の手水鉢が置かれている。寺の創建時にあった井水「桐の井」という井戸も残されている。陵の北には、武将塚が発掘されている。甲冑を副葬しており、死後も天皇、皇后の2つの陵を守護する意味を持ったとみられている。


【院政の推移】
〔平安時代〕 76 近衛天皇 (在位:1141-1155)→77 後白河天皇(在位:1155-1158)→78 二条天皇(在位:1158-1165、院政1)→79 六条天皇(在位:1165-1168、院政2)→80 高倉天皇(在位:1168-1180、院政3)→81 安徳天皇(在位:1180-1185、院政4)→〔鎌倉時代〕 82 後鳥羽天皇(在位:1183-1198、院政5)→83 土御門天皇(在位:1198-1210、院政1)→84 順徳天皇(在位:1210-1221、院政2)→85 仲恭天皇(在位:1221、院政3)→86 後堀河天皇(在位:1221-1232、院政1)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『京都大事典』『歴代天皇125代総覧』『図説天皇陵』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 後白河天皇 法住寺陵 〒605-0941 京都市東山区三十三間堂廻リ町
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