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八科峠 (京都市伏見区) Yashina-toge Pass |
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八科峠 | 八科峠 |
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![]() 「八科峠」の道標 ![]() 「逢坂山 車石」の石碑 ![]() 車石 ![]() |
伏見区深草と六地蔵・宇治を結ぶ墨染通は、八科峠(やしな/やじな-とうげ)に至る。 峠の傍らには、 松井市右衛門(年代不明)が建立したという道標「八科峠 右京みち 左六ぢぞう」が立てられている。車石の上に「逢坂山 車石」の石碑も立つ。 なお、付近に、織田信長、豊臣秀吉に従った黒田長政の「下屋敷跡参考地」がある。 ◆歴史年表 飛鳥時代、商人・秦大津父(はたの-おおつち、?-?)は、現在の八科峠付近で2匹の狼が争うのを諫めたという。(『日本書紀』) 平安時代、1158年、伏見庄を知行する平入道範家ら荘民が、「木幡伏見一山之領(八科峠)」を起点にする伏見山稜線付近を境にした木幡浄妙寺領に押妨(おうぼう、他人の所領などに押入り乱暴を働く、不当な課税をする)した。浄妙寺側は院庁に訴え、押妨は停止された。(「後白河院庁下文」) 江戸時代、1686年、儒医・黒川道祐は、峠を「矢嶋峠(やじま-とうげ)」と記している。豊臣秀吉が伏見城に居城した頃、矢嶋氏の館舎がこの峠付近に在り、称されるようになったという。(『雍州府志』) 1721年、儒学者・貝原益軒は、峠を「矢島嶺(やじま-とうげ)」と記している。(『京城勝覧』) ◆秦 大津父 飛鳥時代、5世紀後半-6世紀前半/6世紀の官吏・秦 大津父(?-?、はた-の-おおつち)。詳細不明。男性。山背紀郡深草里(伏見区)の人。有力氏族。商人。馬による交易を行う。第29代・欽明天皇の幼少期、ある人に夢告あり、大津父を寵愛すると、天皇の壮年時に天下を治められるとされた。大津父は商業に携わっていた。伊勢(三重県)からの帰り道に2匹の狼が争うのをやめさせ、命を永らえさせた経験を天皇に話した。天皇は喜び、大津父を近侍させたという。説話は第27代・安閑天皇、第28代・宣化天皇と欽明天皇の対立を暗示するともいう。540年、欽明天皇の即位に伴い、大津父は大蔵の官吏に任命されたという。秦人7053戸を戸籍に付し、大蔵掾としてその伴造(とものみやつこ)になったという。 伏見深草の秦氏は、この地に朝廷直轄地の屯倉(みやけ、深草屯倉)が置かれたため、その管理・経営を担っていた。 ◆秦大津父の説話 第29代・欽明天皇(510-571)が幼い頃に夢告があった。秦大津父(はた-の-おおつち)という人物を優遇すると、皇位に就くことができるという。人を遣わして捜させると、秦氏の居住地、背国紀郡深草里に大津父がいることが分かった。 大津父は商業に携わっていた。天皇は、夢告に心当たりはないかと訊ねた。大津父は、伊勢からの帰り道の山中(八科峠、大亀谷付近ともいう)で、2匹の狼が争うのに遭った。神使の狼が互いに争うことを諫め、傷口の血を拭い、山へ帰したと話した。欽明は大いに喜び、大津父を近侍させ、540年/539年頃に天皇即位すると大津父を大蔵省の役人に任じたという。(『日本書紀』) 説話は、当時の第27代・安閑天皇(466?-536?)・第28代・宣化天皇(467?-539?)と欽明天皇の対立を暗示する。また、渡来系の秦氏一族に商業活動を担った者が存在したことも示している。 説話は、狼信仰の最古のものという。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都市の地名』、『雍州府志』、『京都』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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